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『カリキュラム研究事典』の翻訳で印象に残っている項目

出身研究室である京都大学の教育方法学研究室で行ったCraig Kridel編のEncyclopedia of Curriculum Studiesの翻訳プロジェクトが、ついに、書籍としての刊行にまでこぎつけた。

クレイグ・クライデル編、西岡加名恵、藤本 和久、石井 英真、田中耕治監訳『カリキュラム研究事典』ミネルヴァ書房、2021年

アメリカで定評のある大部なカリキュラム研究事典。
定価22000円で、個人でおいそれと買えるものではないはずだが、すでに何名かが「買いました!」と報告してくださっている(ありがたや!)。

私は、「アートグラフィー(a/r/tography)」「芸術に基盤を置く研究(arts-based research)」「美術教育カリキュラム(arts education curriculum)」「監査文化(audit culture)」など、計9項目の翻訳を担当した。

翻訳のときに印象に残っているものはいくつかあって、例えば、「アートグラフィー(a/r/tography)」の項目では、解説のあまりの訳わからなさにクラクラしていたところ(だいたい見出し語に含まれるスラッシュからして何だ)、たまたま項目執筆者のリタ・アーウィン氏が(本学の笠原広一先生とのつながりで)来日されて本学で講演会を催されて、その話がとても面白かったという出会いがあったりもした。

訳していて特に文章に痺れたのはこちらだ。
Peter M. Taubmanによる「監査文化」の項目。
「監査文化」とは、ざっくり言うと、「パフォーマンス成果」やら「品質保証」やら「説明責任」やら、元々は企業の会計などの分野で使われていた用語体系でもって、教育や福祉についても語られるようになっている状況のこと。

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そのなかにこんな文章が出てくる。

監査文化は、教育の市場化を推し進めることに加えて、教育の市場化によって二つのやり方で広められもしてきた。まず、無能という非難や営利企業および市や州の政府機関による学校や教師教育の乗っ取りを恐れて、教育者によっては、専門職の地位と自律性を確保するために、監査文化の実践、言語、価値観にすがるようになる。そこでの想定は、もし教育が例えば医療、法律、工学と同等の確立されたスタンダード、手続き、実践、説明責任の体系を持ったならば、教師や教育者は、医者、弁護士、工学技師と同等の専門的敬意をもって扱われるだろう、そうした専門職の地位は、自律性を支え民営化と政府の侵入を退けるだろう、というものである。しかしながら、一部のカリキュラム論者は、監査文化への迎合は、教師とカリキュラムを、営利企業の利害、政府の侵入、不適格という非難に、よりさらされやすいものにするという逆説的な効果を持ってきたと主張する。教師の専門的技能と教育的価値それ自体よりも定量化できる結果に焦点を合わせることは、専門的な教育者でない者が自分は同じ結果をより安くより効率的に達成することができると主張することを、許してしまう。さらに、教師が責任を担わされるそうした結果に本来備わる流動性や偶発性のため、教師は絶えず無能という非難にさらされてしまう。

これを最初訳していたのはもう3年以上前で、そのときにも十分刺激的だったが、その後、この描写がますますあてはまる方向に、事態が進展してきてしまっているように思う。
専門的な教育者でない者が自分は同じ結果をより安くより効率的に達成することができると主張する
然り、
教師は絶えず無能という非難にさらされてしまう
然り。

本書は事典といえどこのようにさまざまな興味深い記述が登場する。
手に取っていただく機会があれば、是非、パラパラとめくってみてほしい。

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