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ネット社会がもつ暴力性 ~宇多川はるか『中学校の授業でネット中傷を考えた』

宇多川はるか『中学校の授業でネット中傷を考えた』講談社、2023年

開成中国語科の神田邦彦先生が行った、ネット中傷をテーマとする授業実践を、毎日新聞記者の宇多川氏が描く。スマイリーキクチ氏の『突然、僕は殺人犯にされた』をメイン教材に、人間の欲求やら正義に関する議論も入れ込みながら行われた授業だ。

授業の様子だけでなく、授業後の生徒3人らとの対話、生徒が論じた文章も収録されている。生徒に思考させる良質の授業実践の姿が浮かびあがる。

…といった紹介を書こうと思っていたら、付け足し的に入っている第4章の、木村響子さんによる小学校での特別授業があまりに衝撃で、いろいろ吹っ飛んだ。

木村響子さんは、リアリティ番組「テラスハウス」の出演で誹謗中傷を受けて自ら命を絶った木村花さんの母親だ。

この特別授業、響子さんは、花さんの母親ということは最初子どもたちに示さず、自身が悪役プロレスラーを務めていた頃の話、そのときの誹謗中傷の話から入っていく。娘(花さん)のことが出てくるのは最後の5分だ。

ここではあえて詳細は書かないでおくが、この授業、子どもたちにとって強烈に心を揺さぶられるものになったろうなと思う。記録を読んでいる私にとってさえそうなのだから。
最初から「被害者の母」みたいな位置付けで登場しないからこそ出てくる凄み。

さて。

ネット騒動を受けての自殺、また痛ましい事件が起きた。
『セクシー田中さん』の作者・芦原妃名子氏の件。

この件には、テレビ業界が抱える問題と、ネットの「炎上」がもつ問題の両方が絡んでいる(『推しの子』での「アビ子先生」エピソード、実写化をめぐるトラブルとの重なりように驚いた)。

あまりのショックで言葉が出ない。

ネットがもつ、正の方向にも負の方向にも人間の行動や感情を加速させる働きについて、あらためて思いを馳せざるを得ない。まさに開成中の神田先生が授業において指摘していたように。

以前から、新聞や週刊誌で騒動になるのはあったし、もちろんそれはそれで問題だったのだけれど、それでも、ある種のタイムラグがあったし物量的な限界もあった。ネットだと、気軽に、そう、極めて気軽に人々が同調・便乗してワッと拡散されてしまうし、当事者らはそれに否応なく触れることになる。だから、仮に批判が直接的に自分の身に向けられたものでなくても、そうした騒動自体への責任を感じて、追い詰められる。

そうした時代状況のなかで個々人に求められることになる、自制や自重。それは決して、口を閉ざすということではなく、自分の発言、自分の行動(「リツイート」ひとつにでも)に、一人の人間としての責任と覚悟を持つということだろう。ただ、はたして本当にそれでどうにかなるものなのか。コミュニケーションをめぐるテクノロジー自体が肥大化・暴走してはいないか。そんなことも思わされる。

もう一つ考えさせられるのは、クリエイターへの敬意の問題。ものを生み出す者同士、互いの仕事にリスペクトをもつ。それは大前提。けれども、これが、大きな組織に組み込まれてしまうと、そして特に、テレビ局&芸能事務所と個人の漫画家(出版社もついてるけどおそらく力は弱い)というように、力の不均衡があると、弱い立場の者は簡単に蹂躙されてしまう。おそらく、強い側の構成員は、自分が何かを踏み潰していると意識することすらないままに。これも構造的な問題なのか。
以前、小さな出版社の挑戦(ミシマ社)とイリイチのコンヴィヴィアリティの話を書いた(↓)。

個が潰されず、互いに尊重し合って生きられる社会というのは、現代においてはもはや夢物語なのか。小さな規模で、地に足着いた形で、互いの「顔」が見えるような関係のなかで、物事をなしていくことはできないのか。そうした転換のために何が行えるのか。考えさせられる。

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