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「研究指導」へのイメージのずれ

入学してきてまだ間もない院生が研究計画を発表する。ある院生の発表、中学社会・歴史分野の授業で「全員参加の授業をつくる」ことをテーマにしたい、一般的なグループ活動の進め方に課題を感じており、相互教授法に注目したい、というもの。ちゃんと自分なりに調べて作業は進めてきている。

大学教員(私)とその院生とのやりとり。

教員:「全員参加」がゴール? それなら、「参加しないと処刑しますよ」と強制力を働かせるのが手っ取り早いんじゃない? それとは何が違う? 「全員参加」によって何を目指そうとしてる?

院生:えーっと、歴史は、生徒間の知識量の差が大きくて、けれども、得意な子に合わせると苦手な子が置いていかれるし、苦手な子に合わせると得意な子が退屈してしまう、という現状があるので…。

教員:それなら、習熟度別指導をすればいい、ってことにならない? そうじゃないのなら、何を「全員参加」で大事にしようとしてる?

これは別に私の側は意地悪を言っているわけではなく、こうやって、いろいろツッコまれながら、それにどう答えるかを考えることで、自分の問題意識や研究テーマをくっきりさせていってもらうことを願っているわけである。

もちろん、こんなふうにいろんな角度から問い掛けるのが大学教員である必要はない。

実際、今日も理科の院生から、

理科の院生:「全員参加」というと、自分は、理科の実験の場面で役割分担するようなイメージを持つけれども、そういうことなの?

という自分の教科を背景にした質問が出ていた。

研究指導」というと、しばしば、「これこれについてはこういうことをこういうやり方でやっていけばよい」というふうに手順を教えてもらえるもの、というイメージがあるようだ。
たしかにそういう側面もあるのだが、むしろ、上の事例のように、いろんなところから矢を放ってもらって、それへの対応を考えることを通して、自分の戦い方や戦うべき対象を見定めていく、というのが中核にあるように思う。
パッケージを手渡すのではなく、やりとりを通してこそ可能になる類いの「研究指導」だ。

なお、院生の側が「やり方伝授」式の「研究指導」イメージをもっていて、大学教員の側が「いろんな角度から問い掛ける」式のイメージをもっている場合、院生の側からすると、「全然指導してもらえない!」という不満を募らせかねないので、その点は注意が必要。

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