束の間の無法地帯と、世間知らずのボク

突然だが、僕は高校を卒業して、一年間浪人した。

理由は簡単で、大学受験に全て落ちたからだ。当時(というか今も)僕は、あまりにも世間知らずだった。

たまたま中学受験において受験した全ての中学校に受かり、そのまま六年間、将来のことをろくに考えもせず、とりあえず高校を卒業したら大学に行くのが当たり前なんだ、くらいに思って生きていた。振り返れば、当時から将来を見据えて計画を立てて行動していた友人たちを心から尊敬する。というか僕がダメなだけなんだけれど。

そんな僕は、中高とちゃんと勉強してこなかったもんだから、学業成績は散々だった。少なくとも「僕の通っていた中学・高校のレベルにおいては」散々だった。これはこのエッセイのメインテーマではないので詳述しないが、結局のところ、コンプレックスというのは「環境」と「比較対象」なのだ。

話を戻そう。

一年間、浪人生活を送った。当時は千葉県の船橋市というところに住んでいて、浪人生活においては船橋の予備校に通うことにした。ちなみに中学・高校は渋谷だった。

浪人生活においては、僕にとってはそれなりに努力をしたつもりであったが、結局その努力が足りなかったのだろう。第一志望は落ちてしまい、滑り止めで受けていた大学に合格した。もう一浪する気力もなかったし、同じ予備校に二浪中の先輩がいて、その人曰く「成人式で浪人生っていうのは、なかなか辛い」とのことだったので、本望ではなかったが受かった大学に行くことにした。

そして、約一年間に及ぶ浪人生活が終わり、さぁ四月からは大学生だ、というときだった。

僕の高校は、表向きアルバイト禁止だった。そして僕自身、バスケ部やバンド活動が好きで、そして親からの小遣いで生活には満足していたので(そもそも金を使うシチュエーションがほとんどなかった)、アルバイトをしよう、したいと思ったこともなかった。

なので、浪人生活が終わってから大学入学までの約一ヶ月間、僕は派遣労働のアルバイトをすることになった。

登録先は、後に何か悪いことをして今はもうなくなったけれど、当時はテレビCMなどもよく見かけたグッドウィルという会社だった。

浪人時代に同じ予備校に通っていて仲良くなった友人とともに登録に行き、たしか翌日から早速仕事が入ったと思う。引っ越しの仕事だ。

大学入学前、つまり三月だったので、引っ越しなどいわゆる新学期、新年度に向けての仕事が多かった。

引っ越しのバイトはきついと聞くけれど、当時はまだ19歳。一年間、身体を動かしたことは数少なかったけれど、中高六年間、バスケットボールに打ち込んできただけの自負はある。ちなみに一緒に行った友人はサッカー部→陸上部だった。

そして当日。僕の人生における初めての「労働」は、想像していたより過酷ではあったが、嫌になるほどのものでもなかった。確かに体力的にはきついし、社員さんはおっかないし怒鳴られるし、明らかに僕より華奢な女性が、僕が持ち上げることができなかったタンスを一人でひょいと持ち上げて自尊心をなくしかけたりもしたけれど、その日の夜には友人と笑い話ができる程度の余裕は残っていた。ちなみに家に帰って体重計に乗ったら、ちょうど一キロ落ちていた。

翌日。またしても引っ越しのアルバイトだったが、前日と違って規模は小さなものだったし、社員さんも優しい人だった。それに、世帯主の人から頂いた「お心付け」で食った昼飯はひとしおだった。ちなみにこの日も帰ったら一キロ体重が落ちていた。引っ越しのアルバイトは、痩せる。

そんなこんなで、体力的にきついこともあるけれど、なまった身体を動かせるしそれなりに達成感もあったのと、何より入金が割とすぐだったので、それが嬉しくて派遣労働を続けていた。

事件が起こったのは、その次の案件である。

確か二日続けてしかも重労働についたので数日置いてから次の案件を、と思っていたと思う。

そしてやってきた案件は「配送助手」

引っ越し業者による荷物の配送部隊で、当時は新学期前ということもあって子供の学習机や椅子、洋服ダンスなどが多かったと思う。

まず朝一に、配送センターのようなところで集合。僕と友人含めて、総勢30人くらい派遣労働者がいただろうか。

この案件は、社員さんと派遣が二人ひと組でペアになり、それぞれのルートに沿って配達を行い、かつ開梱とある程度の組み立てまでやることになっていた。

一人ずつ名前を呼ばれて、ペアとなる社員さんを紹介される。中にはにこやかに「よろしくね〜」などと会話を交わす社員さんもいたが、全体的に殺伐とした雰囲気だった。そして、自分の名前が呼ばれた。

はっきり言って、僕は「ハズレ」だった。

まずもって、見た目。見た目が怖すぎる。形容するならば「松山千春を恐ろしくしたような感じ」といったところだろうか。スキンヘッドだった。

特に言葉を交わすこともなく、二人でトラックに乗り込む。そこでまず怒られる。

「なんだその手袋は。ちゃんとしたのを買ってこい」

事前に持ち物として「ゴム手袋」をもって行くことは指示されていた。僕は軍手の手のひら部分に黄色い滑り止めのポツポツがついている手袋をもって行った。実際、以前の引っ越しのバイトではそれで何も言われなかった。確かに今思えばそれでは不十分かもしれないが、だったらそう指示してくれ、と。

そして、世間知らずの僕は当時全く疑問に思わなかったことだが、そもそも労働者が労働する際に必要となる備品は、会社側が用意して然るべきであるはずだ。そもそも自分で用意して行くのも、突き詰めればおかしなことである。さらに、それじゃダメだから買ってこい、自分の金で、というのは、ありえないことである。

しかし相手は松山千春の怖いバージョン。反抗、意見できるはずもなく、ソッコーで近くのコンビニに買いに行く。この割としっかりした方のゴム手袋がそんなに安くない。財布にお金がほとんどなかった僕は、そのゴム手袋を購入したおかげで、昼飯代を除いてほぼ無一文になった。

それから配送が始まるわけだが、この松山千春がとにかく今の時代であれば一発アウトな人間であった。言葉、身体の暴力は当たり前。初めてトラックに乗った僕は、荷台の開け方がよくわからない。手こずっていると、思いっきりケツを蹴られた。また、トラックを横付けしたりするとき「オーライ!オーライ!」と言って誘導、指示するが、そもそもどこにどう停めるのが正解かわからない。物損事故などはなかったが、停めた場所が少し違くてまた蹴られる。

ちなみに、学習机はいくつかの部品がそれぞれ別梱包になっていた。配送先のお宅で開梱し、組み立てるのが松山千春の仕事で、トラックと部屋を往復して荷物を運ぶのが僕の仕事となった。エレベーターのないアパートの4階くらいの往復も多かった。

自分でいうのもなんだが、僕は結構こういうときの物覚えはいい方だ。また、動きも早いし、何かと気がつく方だと思っている。しかし、毎回毎回、遅いだのなんだの罵られた。

それでも何とか一軒一軒回って、仕事をこなしていった。

三月でまだ少し肌寒いとはいえ、それだけ身体と頭を使っていれば、当然だが腹が減る。喉も乾く。

今ここまで書いて、ふと思い出したことがある。この日の昼飯の記憶が一切ない。覚えていないということを思い出すという何とも不思議なことではあるが、一切覚えていない。この日のことはよく覚えているし、だからこそこうして十年以上前のことをまるで昨日のことのように書けるのだ。まじで何食ったんだろう。。

それはそうとして、喉が乾く。しかし、手袋と昼飯を買った僕には、水を一本買うお金すら残っていなかった。手袋の出費がでかすぎた。確か700円か800円くらいしたと思う。

そんなこんなで、午後は喉の乾きとの戦いとなった。

とにかく喉が乾く。でも、買う金もないし、公園の水飲み場みたいなところに寄る時間もない。何より、そんな悩みを吐露し、相談できる相手ではない。何しろ、松山千春を恐ろしくした人なのだ。

そんな喉の乾きと戦いながら、仕事を進めていったのち、とあるお宅で開梱、組み立て作業をしている最中に、明らかに飲み物を用意してくださっている状況に出くわした。熱い緑茶を淹れていて、正直「何でホットなんだよ、冷たい水くれよ」と思ってしまったが、それでも嬉しかった。そしてそのお宅の荷物の開梱、組み立てが終わり、それでは失礼しますと立ち上がったとき、そのお宅の方が僕たちに「よかったら、お茶どうぞ」と言ってくださった。

神だ。僕はそう思った。

ここで喉を潤して、さっさと回り終えて帰ろう。もうこんなのうんざりだ。そう思って意気揚々と感謝をしてそのお茶を頂こうとした、そのときだった。

「お構いなく」

殺意。そうかこれが殺意か。てめぇは自分の飲み物はあるし、さっさと終えて帰りたいだろうけど、こっちは確かに自分の用意が悪いとはいえ、喉が乾いているのだ。お茶の一口くらい頂いたって、大勢に影響はないだろう。

結局、そのお茶には手をつけられずにそのお宅を後にした。

そのまま喉が乾いたまま、配送の業務に没頭していたが、一度だけ、喉を潤した。

僕の役目はトラックから玄関まで荷物を運ぶことだった。なので、その間、トラック付近には僕しかいない。なんどもなんども悩み迷ったが、脱水症状になったらもっと困る。そこで僕は一口だけ、本当に一口だけ、千春の飲みかけのお茶に手をかけた。一口飲む。美味い。こんなに美味いのか。しかし、飲みすぎるとバレるので、本当に一口だけ。おっさんと間接キスしてしまうとか、そんなこと考えていられなかった。とにかく喉を潤したかった。

結局、そのままバレることなく、時折罵倒されながらも、夜の20時くらいだろうか、回り終えた。

ここからが衝撃である。

まず一つは、本来助手を下ろすべきところまで、連れて行ってくれなかった。単純に面倒臭かったのだろう。だが、それはまだいい。勤務時間である。

何時から何時までやりました、という申告書のようなものを社員は記載するのだが、そのとき千春が「17時でいいな」と言った。二つ返事で「はい!」と言った。いやダメです、なんて言えまい。当時の僕は世間知らずで、ここは無法地帯だったし、何より相手は松山千春を怖くした人だったのだ。会社の体質もあるだろう。何でこんなに時間がかかったのだ、と言われるのは千春なのだ(擁護するつもりは全くないが)。

そんなこんなで、備品は自己負担、暴力を振るわれ、就業終わりには指定の場所まで連れて行ってもらえず、そして勤務時間は改ざんさせられる。

今であれば一発アウトであるが、当時の僕にはそれが言えなかった。

帰りは自分がどこにいるかわからないまま、とりあえず目についた線路に沿って、光のある方に向かった。当時住んでいた駅から二駅ほど離れた駅だった。

ずっとトラックに乗っていて、正直どこで降ろされたのか全くわからなかったから不安だったが、思いの外近くて安心した。さあ電車に乗って帰ろう。

電車賃がない。

水一本買えない僕は、160円ほどのJRの初乗り切符すら買えなかった。肉体的な疲労以上に、侘しさみたいなものが合わさってそのときの僕を襲った。結局家に電話して、その駅まで親父に車で迎えに来てもらった。こうして長い1日が終わった。

あのとき、束の間の無法地帯があった。世間知らずの僕は、おかしいと思いながらも声をあげることができなかった。

ちなみに、良い環境の仕事もあった。

ヤマハ音楽教室の指定のカバンから、中敷を取る、というものだった。意図はわからない。ただひたすらに、カバンから中敷を取っていった。この仕事は、話しながらでもできるし、疲労も少ない。そして、賃金が高かった。しかも、理由は忘れたがまだカバンが残っていて時間も指定の就業時間より短かったが、突然打ち切られて、帰宅を命じられた。にもかかわらず、給与は全額支払われた。こういう案件もあった。

最低賃金の話をTwitterで見かけたので、賃金とは違うが、僕にとっての初めての労働におけるほろ苦い思い出を綴った。ちなみに松山千春は好きである。

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