悲願へ 13

続きです。

 高貴性と野蛮性に均衡について、どちらかに偏ってしまうのはどういう要因なのかという質問がありました。この質問に対して、著者はまず「(均衡を取ろうと)真剣に思っていない」と言っていました。「何だそりゃ?」っていう感じですが、「得をしようと思っている」とか「合理性」によって偏ってしまうということでした。生半可に「均衡を取ろう」と思うのではなく、強烈に思わないとダメなのでしょうね。西郷隆盛は武士道を残したまま西洋化しようとしたことに対し、大久保利通は日本の良さなどは全部捨てて、早く西洋化しないと植民地になってしまうという切迫感から合理的な考え方を取らざるを得なかった、そして、それが大久保が勝った理由だとありました。この辺りはまだまだ詳しくないので、もう少し勉強が必要ですが、おぼろげながら、分かるような気もします。ただ、大久保の急速な西洋化は損得で、西郷には戦争に負けても、占領されてもいいじゃないかという考えがあったと思うとありました。そんなもので心は支配されない、戦争なんかで負けたって、日本人の精神を受け継ぐ方が大切だと思っていたということです。そのあたりは、島流し、牢獄、月照と共に入水するも、自分だけ生き残ってしまったなんて言う経験をしている西郷らしい考え方なのかもしれません。

 「急いた人というのは欲に負けたということだね。」とありました。ここは非常に難しい。稲盛塾長は、欲に対して「足るを知る」べきとおっしゃっていましたが、事業に対してもそうあるべきかと質問されると、言葉尻は正確ではありませんが、たかだか数億、数十億で『足るを知る』はまだ早いと言っていました。もちろん、著者と稲盛塾長の考えが全く同じなわけではありませんが、そういう意味ではいまだに稲盛塾長が、何に突き動かされたあれだけの事業拡大にまい進されたのかという所は理解できておりません。ただ、「価値ある人の人生はすべて未完だと言っている。」ともありました。稲盛塾長も「これでよい」と満足せず、未完のままだったと思います。「未完で終わろうとしない人が、大体において嘘をつき、せこくて、狡い奴だということになる。」ともありました。目標と目的の違いについても同じようなことだと思いますが、あくなき目的を追求し続ける、例えば幸福とか、世界平和とか、そうしたことを目指した人と言うのは、どうしても未完に終わってしまう、そういうことではないかと思いました。

 さらに続きます。

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