悲願へ 3


 続きです。

 「新しい人間観の提唱」の次は「新しい人間道の提唱」に行ってみたいと思います。冒頭「人間には、万物の王者としての偉大な天命がある。」とありましたが、これが「新しい人間観の提唱」の要約と言っても良いかもしれません。続けて「かかる天命の自覚に立っていっさいのものを支配活用しつつ、よりよき共同生活を生み出す道が、すなわち人間道である。」ということです。また、人間道は「人間をして真に人間たらしめ、万物をして真に万物たらしめる道である。」とあり、これは「人間万物いっさいをあるがままにみとめ、容認するところからはじまる。」ということでした。この容認の上に立ち「いっさいのものの天与の使命、特質を見きわめつつ、自然の理法に則して適切な処置、処遇を行い、全てをいかしていくところに人間道の本義がある。」とありましたが「いっさいのものの天与の使命、特質」がちょっと引っ掛かりました。「いっさいのもの」は「人間」と「万物」両方含むものだと思いますが、「天与の使命」(=「天命」だと解釈します。)となると、万物にも天命があるのと解釈できるようにも思えます。あるいは「人間」に対する「天与の使命」で、「万物」に対する「特質」なのかもしれません。矛盾なく読み進めるには公社としておいた方がよさそうですね。それを踏まえて「政治、経済、教育、文化その他、物心両面にわたる人間の諸活動はすべて、この人間道にもとづいて力づよく実践していかなければならない。」ということですが、つたない「人間道」の理解の中でも、政治、経済、教育あたりは人間道に基づいていないように思えて仕方がありません。

 この二つの人間に対する考え方が松下幸之助の第一の特徴であるということです。

 2番目は「高貴性」と「野蛮性」の両輪が完全に平衡をとって存在している人物についてですが、「高貴性」と「野蛮性」について詳しい解説はありませんでしたが、何となくわかります。しかし、それが共存するというのも初めて聞いたら驚くようなことだと思います。稲盛和夫氏は「両極端を併せ持つ」とおっしゃっていますが、この言葉も松下幸之助の影響を思わせてくれます。著者曰く、「今の時代、一番失われているものの一つに野蛮性があるのです。」とのことでした。これは共感できる方が多いのではないかと思います。何より松下幸之助なんて言うと「好々爺」という印象で、野蛮性とは縁遠いイメージですが、子ども時代から丁稚や下積みを通して嫌というほど直面させられているということで、受動的なものだとすれば納得できます。高貴性が強くても、打たれ弱くてはいけないということかもしれません。

 まだまだ続きます。

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