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良い知らせ 〜Evangélio〜
全能の主であるお父様、本日もnoteを書かせていただける栄光に感謝します。主の御言葉が読んで下さる皆様の心に素直に届きイエス・キリストが戸口で立っていることを知る切っ掛けになりますよう主イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
新共同訳聖書の中には、『重い皮膚病』という言葉が使われていますが、(以前のものでは『らい病』となっていたりリビングバイブルでは『ツァラアト』と表記される。)『病』と捉えてしまうとただの奇跡の福音になってしまいます。
ではどのように解釈していくのが良いのでしょうか。
思い皮膚病⇨汚れた者
「重い皮膚病」と訳されているこの事態が『病』ではなくて『汚れ』です。
そして、ここで起ったことが癒しではなくて清めです。
このことをもう少し深くほっていこうと思います。
重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。
汚れていると判断された場合は人に汚れを伝染させないように人に会うごとに
「わたしは汚れた者です。汚れた者です」
と大声で叫ばなければならないのです。
さらに「その人は独りで宿営の外に住まなければならない」とあるように社会からも家族からも隔離されることになります。
『汚れた者』にとっては症状以上に深い苦しみや悲しみも多くあったでしょう。また家族も同様だった思います。
近年の東京電力福島第1原発事故に伴い福島県から新潟県北部に避難している公立中学1年の女子生徒が、同級生から名前に「菌」を付けて呼ばれるなどの『いじめ』や、
ハンセン病の患者の皆さんも、まさに同じように家族や社会から切り離され、療養所に隔離されて深い苦しみ悲しみを体験してきた。しかもこの病気の原因が分かり、特効薬が開発されて治る病となってからも長く国の隔離政策が続き、不当な苦しみを受けてきた。
最近では新型コロナウイルスによる隔離政策により苦しんだ人々も多いでしょう。風評被害に遭われた街や地域もありました。
差別や偏見の例の枚挙にはいとまがありません。
そのような想像に耐え難い苦しみや悲しみからの救いを求めてやって来た『彼』を、主イエスは手を差し伸べてその人に触れ清めてくださいました。
「汚れた者」に手を触れると、その汚れが移ると考えられていた当時の人々にとって驚くべきことです。
汚れた者が触れるものはすべて汚れる。またそれに触れる者も夕方まで汚れる。
今まで死人同様の不可触扱いされてきた彼にとってどれだけの喜びがあったのか。身体だけでなく、心まで救われたことは毎違いありません。
主イエスは彼の苦しみ、悲しみをまさにご自分の苦しみ、悲しみとして感じ取り、それを共に背負ってくださったのです。
主イエスへの信頼
「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」
『汚れた者』とされた彼はイエス様にお願いをした?わけではありません。『御心ならば』つまり『主イエスが望まれるのであれば』と言っています。続いて『わたしを清くすることがおできになります』と言っています。辛い状態であれば私ならば「お願いします。私を清き者にしてください。」と言ってしまいます。(主に怒られそうですが)
しかし彼は主イエスを全て信頼をし『全てイエス様の望まれるままにしてください。』と言うのと同様です。
主イエスはそれに答えて「よろしい。清くなれ」と言われ、主イエスの意志によって彼は清くなりました。
話はもう少し続きます。
イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
彼が清められたことを確認するのは祭司でした。汚れているか清いかを判断するのは祭司の役割であり、ある人を汚れていると宣言するのも祭司の務めでもありました。
主イエスの意志は、彼が祭司に体を見せ、清められたことを確認してもらい、定められているしかるべき儀式を経て人々に自分が清められたことを証明することでした。
清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることができる。
それは、それまでは宿営の外で暮らさなければならなかった彼が宿営に戻り 家族たちと再び共に生きることができるようになる。人々を避けて生きなくてもよくなり、神に礼拝し信仰生活へ復帰できる。主イエスはそれを望み実現しました。
だれにも、何も話さないように気をつけなさい。
何故、良い知らせてはいけないのか?
イエス様は彼にこのように言われています。しかし、救われた彼は喜びと感謝の中で、主イエスの業 "良い知らせ《Evangélio》"を人々に語り伝えずにはおれなかったのです。
しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
それは救いにあずかった者としての当然の姿ですね。その結果『汚れた者』として街から追い出されていた彼は街の中に戻り、主イエスは町の外の人のいない所にいなければならなくなったのです。
主イエスは真の贖い主
そのことは、主イエスが、彼の汚れを、それによる苦しみや悲しみの全てを、彼に代わって背負って下さったことを表します。
そのことは主イエスの十字架の死において、私たち全ての者にも与えられている恵みです。
主イエスは、私たちと神様との間を隔て、私たちが神様の民として生きることを妨げている罪と汚れを全て背負い十字架にかかって死んで下さいました。
私たちの罪も、汚れも、それによる苦しみや悲しみも、十字架にかかって下さった主イエスが全て引き受けて下さったのです。
私達も彼のように主イエスを信頼し、
「御心ならば、罪、咎、憂いを私達からさらせることができます。」と告白することができる。その様な信仰をもち、人を汚れた者として排除することによって仲間の結束を図る罪から解放してくださることを願います。
すべて私達のことを知ってくださる父なる神様に感謝します。汚れた者であった彼が清くされ力強く福音を語り強められたように、私達も強めてください。すべてのことに感謝し主イエス・キリストの御名をとおしお祈りいたします。 アァメン
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