複製芸術はまなざさない

わたしにはアートのよさがわからない。(クリシェです)

アートのよさとかわかんないけど、わかんないなりに展示会をまわっています。これが、いま現在の状況です。

先日は、北千住Buoyで小野愛「触れようとする」をみました。
Bouy展示スペースは、元ボーリング場の廃墟を改装したもので、配線や瓦礫が剥き出しにされたまま残っているところがかわいいです。

今回、観に行った小野さんの展示「触れようとする」は会場が白い布でいろどられていました。

はいってすぐのとこにある、ひとつ目の作品は、白い布が縫いつけられた胸像が置かれており、空中には、いくつか「手(腕?)」のオブジェが浮かんでいました(これにも白い布が縫い付けられていた。きれいだけど爪のあたりのディテールが細かかった)空中浮遊の「手(腕?)」は、太陽系みたいにゆっくりと回転していました。

左右にはスピーカーが配置されており、『触れること/触れられること』というワークショップの参加者の声が聞こえてきて居心地がよかったです。

あとで書きますが、「触れること」は自分の関心領域なので、くるくると回る「手(腕?)」が当たるか、当たらないかスレスレのところに立ちながら声をきいていました。

ふたつ目の作品は、かわった形をしたオブジェで、これも宙吊りにされていました。メディウムとしては、ひとつ目の「手(腕?)」と似ていたのですが、こちらは白い布に、白い糸がいっぱい縫いこまれていて、すこし抽象的なかたちになっていました。

左下には小さなモニターが置かれていて、そのオブジェの制作過程が見れました。音楽も流れていました。
みっつ目の作品は、ふたつ目の作品の手前にあって、たくさんの花瓶が並べられていました。それぞれの作品にどのような意味が込められているかは、ステイトメントで説明されていました。亡き人に対する「手向け」として創作した作品のようでした。

ひとつ目の作品が「触るということ」をテーマだったのに対して、ふたつ目とみっつ目の作品はレクイエムだった気がします。

自分は展示空間に、だらだらと長居してしまいました。テーマに関心があったからです。

思えばわたしは、物心がついてから、ヒトと身体的な接触をする機会がほとんどなかった気がします。スポーツもやっていないし、ケアにもあまりたずさわっていません。

ヒトとの接触が起こる場所といえば、満員電車やライブ会場くらいです。そもそも20代前半までは引きこもりだったので「ヒトに触りたい」と思いませんでした。

わたしは思春期から青年期にかけて不登校・引きこもりを繰り返してきたので、自分を特別な存在だとも思っているし、ヒトに共感する能力も低かったです。(いまは多少マシになったとは思う)

ただ、性欲に目覚めてからは、自分でもびっくりするくらいヒトに触りたくなりました。モテたくて仕方なかったです。

その時期に、斉藤章佳先生の『男が痴漢になる理由』を「他人事じゃないぞ…」と思って読んだり、伊藤亜紗『手の倫理』も「いつか読みたいなー」と思いながらくらしています。(誰か読書会やりましょうtakahashisexy69あっとgmail.com)

性欲が爆発してからどうしたか。
引きこもりだった時代に、映画やマンガのような複製芸術を通じて心を震わせる体験をしていたので、同じような体験をした人を探しはじめました。
ネットのオフ会とか、読書会とかに参加しはじめました。(二次会でみんなでご飯を食べてる時に急に親しい気持ちがわいてきて、「これが親近感か!」と気付いたことがある)

だけど、自分と同じ体験をしている人は存在しません。それが、ちょっと寂しかった気がする。というか、いまでもヒトよりも「ターミネーター2」の方がエライと思っているような節はある。

ただ、ヒトとはお互いにコンタクトをとりながら関係性を作れるけど、ターミネーター2は私の顔を見てくれることはないのですよね。(そんな気がしたとしても、それは多分気のせいだ)ちょっと飛躍するけど、だから自分はセックスがヘタなんだと思います。というか何か、ヒントがそこにあるような気がしています。

自分は(元)引きこもりなのでコロナ禍に入って、人と人が接触できなくなり、「むしろラッキー!」と思ったのですが、「モテたい」という自我は崩すことが出来ず、いろいろあってオンライン哲学対話にハマりました。オンライン哲学対話はいろいろな事があったので、ふかく書きませんが(本当にいろいろな事があったのです…)人間はすごいなと思いました。

哲学対話で本音のやり取りをすればするほど、もどかしい気持ちになることもありました。「どうしてわかってもらえないんだろう」という気分になるし、そう考えてしまう自分の加害性についても意識せざるおえません。

哲学者の千葉雅也さんは「(哲学対話は)剥き出しのディスクールだから分析家なみのキャッチャーがいないと危険だ」と言っていましたが、今ならその意見もわかる気がする。

人と関わること、心が触れあうことは、確かにケアであるが、絶対に暴力性がともなう行為であること。いくらそれを「ルール」や「合意」、「対等性」などのセーフティネットを作ってカバーしたり、軽減しようとしても、絶対に傷付きや暴力は発生してしまうこと。それらの傷を乗り越えられない人間も発生するのだということ。

それらは心の触れ合いに関しての「触れる」ですが、手向けとしての「触れる」についてもいろいろ想起していました。

例えば数年前、両親がふたり同時に倒れて介護が必要になった時。ひさしぶりに親の腕をつかんだり、心臓マッサージをしたのですが、不思議な気分になりました。「こんなに身近に居るのにまったく肉体接触する必要が無かったのか」と。

あとは、わたくし愛犬と一緒に寝ていたのですが、犬が死んだときにどうにも心が鎮まらなくて電気湯たんぽを購入したこと。

以上は連想したことのモロモロでした。小野さんの展示の話からは少しずれてしまいましたが、展示自体はきれいな空間で、手向けのオブジェも印象深かったです。「布は縫えば縫うほど硬くなることに気付いた」というエピソードが印象的で、すこしだけ人間の心に似てるなと思いました

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