猫伝染性腹膜炎(FIP)に関する記録

はじめに

 昨年(2023年)の夏、わが家の猫(雄1歳)が猫伝染性腹膜炎(FIP)を発症しました。それから約9ヶ月が経過し、現在は投薬治療により寛解(病気が完全に治った「治癒」ではないが、病気による症状や検査異常が消失した状態のこと)しています。家族の一員である彼を救うべく、あらゆる情報を集め、取り得る手を尽くして今に至りました。その間、ネット上の情報は正に玉石混淆で不正確なものも少なくないと知りました。そこで、自分が集めた情報を整理して、公開することにより世の中の不幸な猫たちを救う一助とすべくこの文章をしたためてみました。獣医師でもない自分が書いたこの文章の内容については読む人の判断でお願いしたいと思います。
 なお、この情報は2024年5月現在のものです。また、薬の服用方法などについては、それぞれの判断で対応していただきたく、記述は控えています。

病名について

 病名は「猫伝染性腹膜炎」で、英語でFeline infectious peritonitis(直訳:ネコ(科)の伝染性の腹膜炎)といいます。FIPは Feline infectious peritonitisの頭文字をつなげたものです。でも、この病気自体は、伝染するものではなく、症状も腹膜炎とは限らないので、すごくわかりづらい病名です。詳細は後述します。

原因ウイルスとその感染メカニズムについて

 猫伝染性腹膜炎(FIP)を引き起こす原因ウイルスは「猫伝染性腹膜炎ウイルス(FIPV:Feline Infectious Peritonitis Virus)」です。単純なネーミングですが、「インフルエンザ」という病気を引き起こすのが「インフルエンザウイルス」であるという関係と同じですね。FIPの原因ウイルスがFIPVということです。
 このFIPVは猫がどこかの外部から感染してしまうというものではありません。猫がもともと体内で共生していたあまり害のないウイルスが体内で突然変異した結果、FIPVとなって猫に甚大な悪影響を及ぼすことになるのです。そのあまり害のないウイルスとは、「猫腸コロナウイルス(FECV: Feline Enteric Corona Viruses)」で、これは猫に感染しても軽い下痢症状が出るか無症状で済むものです。この猫腸コロナウイルス(FECV)は糞便を介して他の猫に伝染することから、多くの猫がこのウイルスに感染していると考えられています。ブリーダーやペットショップの猫も感染している方が普通です。
 ちなみに、病名が「伝染性」というのは、このFECVが伝染するからで、その突然変異したものであるFIPVは猫の体外では感染力を失うため、他の猫には感染しないとされています。
 さて、この「猫腸コロナウイルス(FECV)」は感染後、猫が持っている免疫力では完全に排除されず、そのまま猫の腸管にとどまる(つまり共生状態になる)ことになります。(人間でも水疱瘡を引き起こすウイルス(水痘・帯状疱疹ウイルス)は完全には排除されず、体内に潜伏して、免疫が低下すると再活性化して帯状疱疹になりますよね。)そして、そのFECVがある程度の確率(どれくらいかは不明)で突然変異を起こして猫伝染性腹膜炎ウイルス(FIPV)になります。これでもまだ病気にはなりません。猫の免疫力が体をガードしているからです。病気になるのは、何らかの理由で免疫力が低下し(ストレスなどと言われていますが確定したものではない)、FIPVが猫の血管内に入り、それがさらに免疫細胞に侵入すると、恐ろしい「猫伝染性腹膜炎(FIP)」が発症してしまうのです。
 おさらいすると、猫がFECVに感染する(生後すぐ親など周囲から、またはその後ほかの猫から)→体内でFIPVに突然変異する→猫の免疫力が低下しているときに侵入を許す→血管内の免疫細胞に感染する→「猫伝染性腹膜炎(FIP)」を発症する、という流れになります。
 なお、FECVとFIPVを総称して猫コロナウイルス(FCoV:Feline coronavirus)といいます。コロナといっても新型コロナとは全く関係なく、コロナウイルス科の従来からあるウイルスです。でも、このウイルスがコロナウイルス科であるということが、現在の特効薬の普及と大きく関係してくるのです。

猫伝染性腹膜炎(FIP)の症状

 「腹膜炎」とありますが、症状は様々です。わが家の雄猫は「胸膜炎」となり、胸水がたまって呼吸困難になりました。
 症状を大別すると、「ウェットタイプ」と「ドライタイプ」に分かれます。「ウェットタイプ」はその名のとおり水がたまるのが特徴で、血管が炎症を起こして水分が漏出して腹水や胸水、心嚢水、陰嚢水が貯まり、呼吸困難などの症状が出てきます。「ドライタイプ」は臓器に肉芽腫や結節状の塊ができる特徴があり、神経症状や眼科症状、肝臓や腎臓、すい臓の障害などがでてきます。また、ドライとウェットは完全に区別されるものではなく、両方の症状が出ることも普通です。
 このような症状が引き起こされるのは、自分の免疫システムが原因となっています。血管内に侵入したFIPVが免疫細胞(単球・マクロファージ)に感染すると、炎症性サイトカインが分泌されます。ちなみにアトピー性皮膚炎もサイトカインが原因です。炎症性サイトカインは細胞間の情報伝達を担う必要な物質で、患部を刺激し発熱や他の免疫細胞の活性化を行いますが、必要以上にサイトカインが出続けると、炎症が止まらず身体にとってショック状態となります。こうした炎症が炎症を呼ぶ免疫の暴走状態をサイトカインストーム(嵐)といい、FIPの各症状はこれが原因とされています。この状態になってしまうと、症状を抑えるための対症療法では効果がなく、ウイルスに直接効果のある特効薬が登場する最近までは猫の不治の病として恐れられていたのです。

特効薬の登場、しかし

 2015年、アメリカの新興製薬会社である「ギリアド・サイエンシス(Gilead Sciences)社」はエボラ出血熱の特効薬の開発を始めました。薬の名前は「GS-441524」で、1本鎖RNAウイルスであるエボラウイルスのRNA合成を阻害する直接作用型の抗ウイルス薬です。つまり、病気の症状を抑える対症療法の薬ではなく、ウイルスに直接働きかけて体内での増殖を妨害する薬です。ギリアド社では、アカゲザルのエボラ出血熱にGS-441524を用いて有効性を確認し、これを人間にも適用しようと治験をしています(今も治験中。これが普及しない原因(後述))。
 ところで、ウイルス性の疾患に対しては、このようにウイルスに直接働きかけてその増殖を阻害する薬を発見するのが現在のトレンドで、インフルエンザも「タミフル」とか「リレンザ」のような抗ウイルス薬の出現で治療法も大きく変わりましたよね。この流れで、2019年、カリフォルニア大学デービス校(UC Davis)獣医学部のニールス・ペダーセン博士(Dr.Niels Pedersen)は同じく1本鎖RNAウイルスである猫コロナウイルスにGS-441524が有効ではないかと治験を始めたところ、FIPの猫31匹中26匹が回復するという驚異的な結果を得ることになりました。亡くなってしまった5匹の猫はもともと重症だった子たちで、このGS-441524の有効性に世界の注目が集まりました。
 しかし、ギリアド社はGS-441524を猫用に使用することを許可していません。それは、エボラ用に多額の費用をかけて開発した薬で、現在もアメリカ保健当局に認可申請中の薬に余計な効能を付け加えると、当局の審査が遅れると懸念しているためと言われています。このため、FIPの特効薬だとわかっているのに使用することができない状況となってしまっているのです。
なお、GS-441524のプロドラッグ(投与されると生体による代謝作用を受けて活性代謝物へと変化し薬効を示す医薬品)が「レムデシビル」で、こちらの名前の方をご存じの方もいるだろうと思います。

さすがコピー大国中国

 そのような中、2020年になって中国から謎のサプリメントが日本にも到来します。中国の木天生物科技有限公司(Mutian Global Biotechnology Limited)が発売するその名も「MUTIAN(ムティアン)」で、FIPに絶大な効果があると謳われています。それもそのはず、その成分はGS-441524そのもので、いわゆる無許可のコピー薬なのです。とはいえ、効果は絶大でこの薬の使用で回復する猫たちが続出し、費用が総額で100万円近くする高価なものですが、日本の獣医さんも無視することができない状況になります。
 日本の獣医さんの態度は次のように大別されます。
①治るという効果に着目し積極的に使用する。
②無認可のサプリであり自分では使用しないが効果は認めて使用している獣医を積極的に紹介する。
③コピー薬の使用により正規の流通(の可能性)が阻害されるため使用すべきではない。
 飼い主からしてみると、難しいところです。論評抜きに事実だけ記すと、わが家の雄猫はふだん通っている獣医さんが②であったため、①を紹介してもらいました。
 なお、ムティアンは現在、「ラプコン(Xraphconn)」という名称で日本国内でも引き続きグレーな流通を続けています。また、ムティアンから独立した人が起業した「CFN」という薬(サプリ)も流通しています。

コロナ禍が事態を変える

 2020年、いよいよコロナ禍が世界に拡大していく中、「レムデシビル(GS-44152)) 」がアメリカで新型コロナ薬としてコンパッショネート使用(未承認薬の人道的使用)が認められます。日本でも特例承認制度により使用が開始され、いよいよ少なくとも未承認薬ではなくなりました。でもそれって人間用でしょ?と思うかもしれませんが、実は動物用の薬はすべてが動物用として開発されるのではなく、人間用を動物用に使うということは日常的にあることなのです。
 しかしながら、ここにも問題があります。ギリアド社が提供するレムデシビルは非常に高価なのです。人間には人間用の薬価基準があり、保険も適用されますが、それを猫用に使おうとするとむちゃくちゃ高価なのです。このため、現在でもコピー薬の「ムティアン改めラプコン」の方が比較の問題としては安価になり、正規薬の普及はほとんど進んでいません。イギリスとオーストラリアにある調剤薬局のBOVA社が猫用の「レムデシビル(GS-441524)」を正規販売しており(どうやってギリアド社の許可を得たのかは不明)、それを日本でも輸入している獣医さんがいますが、承認薬だというだけで劇的に安くなっているわけではなく、依然、「ラプコン」の価格上の優位性は続いています。(意味があるとすれば、承認薬であれば動物保険の対象となりうることくらいでしょう。)

モルヌラピルの登場

 2021年、コロナ禍の拡大が続く中、人間用に新たに「モルヌラピル」という抗ウイルス薬が登場します。そうなると、同じコロナウイルスであるFIPにも効くのではないかと思いますよね。それで、実際にFIPの猫に投与する治験が始まり、効果があるのではないかとされています。効果があると断言できないのは、現時点ではGS-441524ほど使用例が集まっていないためです。使用例が増えないのには理由があります。もし、あなたの愛猫がFIPになり、どの薬を使うか決断が迫られたら、実績がたくさんあって高い確率で治るであろう「レムデシビル(ラプコン)」と新薬の「モルヌラピル」のどちらを使うでしょう?リスクを負いたくないなら前者になりますよね。実際、わが家も前者を選択しています。ただ、モラヌラピルには良いところもあって、それは価格が10万円以下だということと、動物保険も適用されることです。このため今後使用例が増えていくことが想定されており、それにより「モルヌラピル」の投与に関する知見が蓄積されていくのではと思います。

まとめ

 以上が、自分が現時点で理解しているFIPにまつわる諸々の話です。愛猫がFIPと診断されたらつらいですよね。この文章が何かの一助になれば幸いです。
 なお、FIPの治療に関し、ペダーセン博士の報告は特に重要です。ネットを調べると色々な獣医さんがこの件に言及していますが、それぞれの立場で都合よくつまんで要約されている感じがします。原文は以下にありますので、英語ですがグーグル翻訳などを使えば問題なく読めるでしょう。ご自身で全文を読むことをオススメします。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6435921/


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?