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母の肺がん体験談

※サムネイル画像は「ミッドタウンクリニック名駅」様よりお借りしました


術後5年目に

⾷道がんの⼿術をした⺟は退院後、3か⽉に1度、検査を受けに行っており、しばらく特に異状なしとの良好な結果が得られていたものの、⾵邪様症状で、少々、息苦しさや声の出づらさを訴えるようになりました。検査では「特に異状なし」だったので、おそらく⾵邪だろう。どうせ4⽉にまた検査しに⾏くので、その時ついでに診てもらえばいいや程度に思っていました。

今思えば

前々から右胸に、「器質化した炎症がある」との指摘は受けていたのですが、「特に悪いものではないので、経過観察で⼗分だろう」とのことだったので、楽観視していたのですが、4⽉に検査した際、「その炎症が増⼤してきている。カルテを回すから、今すぐ呼吸器内科へ⾏け」と、⾷道がんの担当医から指⽰がありました。⾵邪ではなく、肺がんだったわけです。⾷道がん術後5年目のことでした。

院内セカンドオピニオン

呼吸器内科で診察、検査を受けたのですが、ここでもまた、経過観察で⼗分だろうとの結果でした。しかし、「息苦しさが続いている」と、⾷道がんの担当医に訴えたところ、別の呼吸器内科医を紹介して下さいました。⾔ってみれば、“院内セカンドオピニオン”といったところでしょうか。診断結果がどうも腑に落ちないという⽅は、遠慮せず、担当医に申し出ましょう。

案の定、肺がん及びリンパ節転移

紹介していただいた別の呼吸器内科医というのが喘息専⾨医で、よく胸の⾳を聴いてくれました。その結果、これは喘息系の疾患や肺炎や結核とは違い、右肺の下葉部分から⾳が聴こえてくるとのこと。
⽇本の腫瘍マーカー値は欧⽶諸国に⽐べて厳しすぎると⾔われていますが、「SCCとシフラの値が上限値の3〜5倍と⾼く、これは肺がんで、確実に転移しているだろう」という厳しい結果でした。
画像検査でも、「肺の中に腫瘍ができており、それが気管⽀を圧迫し、息苦しさや声の出づらさにつながっているのではないか。気管⽀鏡を挿⼊して⽣検し、はっきりさせたほうがいいだろう。これは外来でもできるのだが、⼤量出⾎のリスクがあるので、⼊院していただいたほうが、病院としてもすぐに対応できるから」と、その場で⼊院の⼿続きをして下さいました。
⼊院し、気管⽀鏡⽣検で腫瘍を採取。切開したわけではないので、完全とは⾔い難いのですが、この気管⽀鏡⽣検で、肺の中にできた腫瘍はきれいに取れたそうです。
⼊院して数⽇経過後、右の鎖⾻上にリンパ節腫脹が突如出現し、それがみるみる500円⽟⼤の⼤きさにまで増⼤しました。下された診断名は案の定、肺がん及びリンパ節転移でした。
「がんができた部位はすぐ近くに太い⾎管があり、切開したら出⾎死するリスクが⾮常に⾼い。はっきり⾔って、完治はなかなか望めないが、放射線化学療法で治療しましょう」という⽅針となりました。抗がん剤はカルボプラチンを使⽤することとなりました。
後から聞いた話ですが、⺟の治療⽅針を巡り、「切開したほうがいい」という外科の先⽣⽅と、「いや、腫瘍がある場所は太い⾎管がある所だから、切開したら出⾎死のリスクがある。放射線化学療法を選択すべき」という内科系の先⽣⽅との間で、侃侃諤諤の⼤論争があったそうです。

放射線化学療法開始

ご存知の通り、放射線化学療法は激しい嘔吐や脱⽑等、副作⽤が強く、⺟も抗がん剤投与4⽇⽬に、激しい嘔吐と脱⽑がありました。しかし、副作⽤らしい副作⽤が出たのはその⽇だけで、その後は嘔吐どころか⾷欲増進。冷蔵庫や枕元に、差し⼊れで持って⾏ったゼリーやらヨーグルトやらお菓⼦やらが⼤量に積み重なっている様⼦を⾒た教授先⽣が、驚きあきれる始末。⾷道がんも患ったので、そうめんやうどんは⾷べづらいようですが、退院後もとにかくよく⾷べてました。⾷道がんの主治医から、「⻑年医者やってるけど、リバウンドした⾷道がんの患者は初めて⾒た」と⾔われました。ですが、抗がん剤の副作⽤で下痢しやすいので、ヨーグルト等の乳製品は禁⽌となりました。
脱⽑に関しても、おそらく医療⽤かつらを装着することになるだろうと覚悟していたのですが、脱⽑も収まり、⽉に⼀度はカットしに⾏くくらいまで伸びました。他のカルボプラチンを投与された患者さんは、皆、丸坊主になるほど脱⽑してしまったそうです。
抗がん剤投与期間は20⽇間、放射線治療期間は20⽇間プラス10回追加、退院⽇の朝まで放射線治療が続きました。鎖⾻上のリンパ節転移も、あるかないかという程度まで縮⼩しました。ただ、放射線治療により、照射部位の⽪膚が⿊くなったり、やけどのような状態になります。それに関しては担当医がリンデロンV等のステロイド外用薬を処⽅してくれると思いますので、じきにきれいに治ります。
また、抗がん剤の副作⽤で、どうしても⽩⾎球が著しく減少し、だるさが出現します。⺟の⽩⾎球値も「最低値ギリギリなので、今後、これをどうやって上げていくかが課題である。⾷道がんの件もあるので、引き続き、定期的に検査を続⾏していきましょう」ということになりました。

今度は多発性⾻転移と肺炎に

抗がん剤治療は⽩⾎球数の減少等もあるので、何クールかやったらお休みしなければならず、母も一旦退院し、抗がん剤治療を休止している間、通院で放射線治療を受けることとなりました。
その時の検査で、右鎖⾻〜右肘の⾻にまでがんが転移していることが判明、当然ながら放射線治療を続行となりました。しかし、放射線治療の副作⽤で肺炎になってしまい、帰宅後の夜遅く、緊急⼊院しました。

⼀切の治療を拒否して緩和ケア科のある病院に転院することに

肺炎治療が終わったところで呼吸器内科の主治医から、「今度はもっと強い抗がん剤を打つことになる。脱⽑は避けられないし、倦怠感も⾮常に強くなる」と⾔われた⺟は、「この歳になってまで、もうそんな⾟い思いはしたくない」と、⼀切の治療を拒否。そうしたら、緩和ケア科のある病院を紹介するからと⾔われ、転院することになりました。
転院する前、病室で⺟と⼀緒に⾷べたパンプキンケーキが、⺟との最後の⾷事になってしまいました。ふと、「これが最後にならなければいいけどな」と、予感めいたものがありました。

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