童話にみる日英の国民性の違い⑵

 10月6日に生まれて初めて入院し、頭蓋骨と脳の間に溜まった血を吸いとる手術を行った。手術によって症状は完全に回復したが、昨日病院でCT検査を行った結果、主治医から完治したとのお墨付きを得て安堵した。ご心配をおかけしたが、もう大丈夫である。 
 ところで、イギリスで出版されたJanina DomanskaのThe Little Red Hen,アメリカ版はPaul Galdonの作で、『おとなしいめんどり』と改題された谷川俊太郎の訳書が出ている。この童話は、文科省検定教科書の小学校1年上に『小さい白いにわとり』という題で掲載されている。

●『小さい白いにわとり』の結末

 この教科書では、英国版の『赤いにわとり』が『白いにわとり』に変えられ、麦まきから粉ひき、最後のパン焼きまでの全過程を一切手伝わなかった猫、ガチョウ、ネズミが、豚、猫、犬に変えられているだけで、全体のストーリーはほとんど同じなのであるが、肝心の結末が違っているのである。
 最後のところが日本の教科書では、「小さい白いにわとりは、みんなに向かって いいました。『このパン、だれが、たべますか』ぶたは『食べる』といいました。ねこも「食べる」といいました。いぬも『食べる』といいました。小さい白いにわとりは、みんなになんといったでしょう。」で終わっていた。
 教師用指導書には、「自由に考えさせて、思い思いに言わせる。結論を出す必要はない」と書かれており、「このあと、にわとりはなんと言ったと思うか、自由に考えさせ、思い思いに話させる。結論を出す必要はない」とある。
 ところが、教科書の本文では、この最後の場面で、にわとり、ぶた、ネコ、イヌが、テーブルの上に置かれたパンを囲んで、仲良くうれしそうに腰をかけている絵が描かれているのである。
 原作の英国版では、赤いめんどりがひよこたちとおいしそうにパンを食べているそばで、他の三匹の動物たちが、恨めしそうにその姿を見ている絵で終わっている。つまり、英国版でのめんどりは「母親」であり、ひよこたちは働く能力のない自分の子供たちであって、他の動物たちは人間の世界で言えば大人の<他者>として描かれている。
 ところが、日本の教科書では、にわとり、ぶた、ねこ、いぬは<他者>ではなく、同じレベルの<友人・仲間>として描かれているという事実がここでは大切なのである。つまり、この童話の英国版は「働かざるもの食うべからず」のお話しなのであって、「働かなかったにも関わらず、食べることができた」というお話ではないのである。
 イギリスの子供たちは、麦まきからパンに焼き上げる全プロセスを独自で完遂しためんどりの労力のすべてが、最後には自分に報われてくるこの結末を見て、非常に満足するのである。言い換えれば、「働かざる者食うべからず」という生活原理を、至極当然のこととして育っていくわけである。

●有名な作家たちが告発した「唯一正解主義」の誤り

 ところが、日本の子供の場合、教科書の「てびき」で、「おしまいに、にわとりはなんといったでしょう」「ほかのどうぶつはなんと言ったでしょう」という「質問」に対して、教科書本文の、働いたものも手伝わなかった他の動物たちも、仲良くパンを食べている挿絵を見せつけられ、何と答えるであろうか。なんでこんな挿絵がわざわざ掲載されているのであろう、変だなあと子供心にまず思うのではないか。
 子供の直観は大人より鋭くその本質を捉えることに留意する必要がある。「裸の王様」もたちどころに見破られるのは、子供たちによってであった。日本の教科書の挿絵は、大人たちが働いた者も働かなかった者も、最後は仲良くやっていかねばならないという結論が押し付けられていると子供たちは感じるのではないか。
 勿論、子供たちに自由に考えさせ、話し合いによって結論を導き出そうという建前になっているが、「てびき」や挿絵によって、唯一の正解の方向に
向かわせようとする大人の意図を鋭く察知し、子供たちが疑問を抱くようになること必然である。
 この唯一正解主義に問題があることは、国語の入試問題に採用された有名な作家たちが、作者の意図を複数の選択肢から選ばせる問題の正解に対して異議を唱えていることからも明白である。小林秀雄、灰谷健次郎、黒井千次といった有名な作家たちが、自己採点すると自分は〇点だった、20点か30点だったと挙って告発している現実がこのことを雄弁に物語っている。
 私自身の論文も2大学の入試問題に採用されたが、筑波大学入試の小論文問題として採用された「国際化とは何か」をめぐる論文に対する「正解」と「ヒント」が書かれている出版物を見て、驚きを禁じ得なかった体験がある。作者の意図に反する誤った「唯一正解主義」は正さねばならない。

●『三匹のこぶた』が与えたカルチャー・ショック

 童話の結末が変わるもう一つの例を挙げよう。イギリスの古い童話で有名な『三匹のこぶた』である。三匹のこぶたがそれぞれ、わらの家、木の家、石の家を作るが、石の家だけは狼に吹き飛ばされずに無事だったという誰でも知っている童話である。
 大筋ではこの通りであるが、日本ではわらの家のこぶたは狼に吹き飛ばされる木の家へ逃げ込む。この家も吹き飛ばされると、二匹で石の家へ逃げ込む。今度は狼がいくら吹いても石の家は吹き飛ばず、狼はへとへとになって逃げていき、三匹のこぶたは幸せに暮らした…となる。
 ところが、英語版には、わらの家のこぶたも木の家のこぶたも”This is the end of the pig”と書いてあり、「最期(the end)」とはどういう意味と井上教授が幼い息子に尋ねると、「死んだんだよ。狼に食べられてしまったんだよ」とあどけない顔をしてサラッと言うのを聞いて、強いカルチャーショックに打ちのめされたという。
 しかも、石の家のこぶたは煙突から侵入しようとした狼を大鍋の煮え立った湯に落とし、そのまま煮て食べたというのである。それを当然として育つイギリスの子供たちと、三匹のこぶたはいつまでも幸せに暮らしていたと教わる日本の子供たちの違いを痛感したという訳である。
 このような童話の書き換えは日本のみでなく、世界各国で見られることである。『三匹のこぶた』にしても、ロシアの童話作家ハミルコフの書き換えがあり、「三匹のこぶたは幸せに暮らしました」そのものである。こちらも和訳されていて日本の子供たちの人気を集めているが、現代の子供たちは三匹のこぶたが「食べられた」の結末と「幸せに暮らしました」の二本立てで育っているのが実情であるという。
 現代歌人の俵万智の和歌は、何でもない笑顔、何でもない言葉、何でもないからふるさとが好き、という胸を打つ一首が多い。国際化の中で、こうした情緒を日本人が失わずに、いかに世界に発信していくかが問われているのではないか。


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