教育基本法制定をめぐる日米の攻防一CIEが主導した制定過程を解明 

私が政府の教育審議会の専門委員に選ばれた理由 

 憲法は押し付けられたが、教育基本法は日本側が自主的に制定したというのが戦後の定説であったが、在米占領文書の研究と占領軍の通訳として教育基本法の制定に深く関与した髙橋昇の自宅インタビューによって、GHQ民間情報教育局(CIE)主導で行われたことが判明した。
 教育勅語がGHQ民政局の「口頭命令」によって廃止させられた過程と併せて、中曾根政権下の政府の教育審議会「臨時教育審議会」の総会で、同第一部会の専門委員であった私は詳細な報告を行い、「審議経過の概要」に明記された。
 当時33歳の最年少委員として私が選ばれたのは、臨時教育審議会設置法に「教育基本法の精神に則り」という文言が明記されていたため、「教育基本法の精神」とは何かを明らかにする必要があり、教育基本法の成立過程を在米占領文書を実証的に研究し、教育基本法の制定を実質的にリードしたCIEの教育課課長補佐のトレイナー文書調査を踏まえて、オレゴン大学のトレイナー研究室でインタビューを行い、その通訳を担当した髙橋昇氏のインタビューも行った私に白羽の矢が立ったわけである。

井深大『あと半分の教育』とは何か

 戦後教育史の定説は「教育勅語体制から教育基本法体制へ」というスローガンに集約されており、教育理念がコペルニクス的に転換され、「戦後の教育基本法は戦前の教育勅語を否定して成立した」と教えられてきたが、事実はそうではなかった。
 教育基本法の日本側前文案には「伝統を尊重し」という文言があったが、トレイナーがこの文言を削除した。その理由をトレイナー氏へのインタビューで問いただしたところ、「通訳の髙橋昇氏が、伝統を尊重するということは軍国主義に逆戻りすることを意味する」と述べたからだと証言した。日本の伝統イコール軍国主義というとんでもない誤解によって前文案から「伝統を尊重し」という文言が削除されたのである。
 当時の日本政府の公式見解によれば、教育基本法には教育勅語の良き精神が含まれており、教育基本法という法と教育勅語という道徳は「補完併存」関係であると捉えられていた。道徳の土台の上に法律があって、対立関係ではないと捉えていたが、GHQの「口頭命令」によって教育勅語が強制的に廃止させられ、教育基本法の前文から「伝統を尊重し」という文言が削除されたことによって、戦前と戦後の教育理念の連続性が否定され、教育勅語を否定して教育基本法が制定されたという戦後教育史の定説が形成されたのである。
 このことを実証的に解明した私の研究に最初に注目されたソニーの井深大名誉会長から直接電話で講演依頼があり、ソニーの幹部約30名に講演した直後に、井深氏は別荘に籠り私の講演を基に『あと半分の教育』という著書を出版された。GHQによって教育勅語が否定されたことによって、法の土台であった道徳が否定され、『あと半分の教育』になってしまったという趣旨である。井深氏の秘書が自宅に来られて、「事実に間違いがないかチェックしてほしい。御礼はソニーの製品何でもいいので自由に選んでください」と言われて驚いた。3LDKの自宅マンションの壁を取り払う工事を行って、日本間に改造し、そこにソニーの高価なステレオを置かせていただいた。

対日占領教育政策の狙いは「日本人の再教育・再方向付け

 ところで、アメリカ政府の戦後計画は1939年9月に始まり、対日占領政策立案の中心となった国務省は同年から1941年にかけてさまざまな諮問委員会を設置した。対日占領教育政策に関連する文書として、戦時情報局(OWI)が作成した「日本における教育―その全般的背景(1943年11月30日)」と「日本における教育―教育課程アメリカ政府の戦後計画」は1939年9月に始まり、対日占領政策立案の中心となった国務省の報告書(1944年1月10日)、戦略諜報局(OSS)の調査分析部がまとめた報告書「日本の行政―文部省」(同年3月6日)があり、同報告書の第三部「占領下の教育統制」を削除した全文が、陸軍省民事部によって『民事ハンドブック 日本―第15 教育』として編集され、占領軍政要員用の教科書として活用された。
 1943年10月に国務省内に関連部局間の意見調整を図るために、部局間極東地域委員会(EEAC)、翌年1月に国務省の最高立案機関として戦後計画委員会(PWC)が設立され、ヒリス・ローリーの草案「日本・軍政下の教育制度」(1944年7月1日)について審議が行われた。後に米国教育使節団で重要な役割を果たす人類学者のボールスがこの審議に加わり、1944年12月に最高政策決定機関として設立された国務陸軍海軍調整委員会(SWNCC)の極東小委員会(SFE)にボールス草案「日本教育制度」(1945年7月30日)が提出された。
 日本のポツダム宣言受諾が予想以上に早かったため、1945年8月22日にマッカーサーに通達された「降伏後における米国の初期の対日方針」(SWNCCI150/3)に基づき、占領方式が直接統治から間接統治に変更されることになり、1946年2月に、「日本人の再方向づけのための積極政策」(SWNCCI162/4)を米政府の正式な政策として決定し、戦後日本の教育改革を主導した民間情報教育局(CIE)の全活動を導く基本方針となった。
 この積極政策は「(再教育・再方向づけの)全プログラムの型と範囲は、アメリカと連合諸国のコントロールが撤去された後にも日本人自身によって遂行されるようにデザインされるべきである」として、以下の3点を強調した。
 「日本人の心にまで影響を及ぼし、民主主義的な心性を創出するために、連合国軍最高司令官はあらゆる分野における信頼できる日本人(女性を含む)を通じて、間接的に日本人民に接近すべきであり、そのような日本人にはこれらの目的を達成するにふさわしい地位と助言、援助、指導が与えられるべきである。また、すべての情報媒体を利用し、その方法は教訓的であるというよりはむしろ説得的でなければならない。さらに再方向づけには、情報、教育、宗教の情報路を通じて行われるべきである。」
 前述したボールス草案「日本の教育制度」はこれを踏まえて修正され、1946年8月に「日本教育制度の改訂のための政策」(SWNCCI108/1)として承認され、日本人再教育計画として位置づけられ、第一次米国教育使節団報告書に基づく対日占領教育政策を正当化した。

●教育基本法の「男女共学」条項の成立過程

 「日本教育制度の改訂のための政策」は、戦前の教育制度の欠陥の一つは、良妻賢母を目的とした教育などにより、女性は教育水準が低く、高い社会的地位につけなかったとして、性別にかかわりなく男女平等の教育機会が与えられることが政策の第一の目標であるとしている。後に、民間情報教育局(CIE)が主導して制定された教育基本法の「男女共学」条項は、戦前の男女差別や教育機会の不均衡が軍国主義の原因であるとして、日本人の民主化のための「再教育・再方向づけ」政策として位置づけられたものである点に注目する必要がある。

 教育基本法は日本人が「自主的」に制定したと言われてきたが、実際にはCIEが米国教育使節団報告書の枠内で教育刷新委員会のリベラル派の進歩的文化人を背後から巧妙にリモートコントロールしつつ、CIE,、文部省、教育刷新委員会の第三者による「連絡委員会」を通して、表向きは日本人の「自主性」を尊重しつつ、対立点については最終的にはCIEと文部省のトップ会談によって決定された。その代表例が「男女共学」についてであった。
 男女の特性を認めた上での「女子教育」の向上を主張する文部省と「男女共学」の導入に固執するCIEとが激しく対立した。CIE教育課の女子教育担当官ドノヴァンは米国教育使節団に対して、日本の教育においていかに女性が差別されてきたかを詳細に講義するとともに、日本各地の指導的な女子教育者をリストアップし、男女共学を推進する協力者のネットワーク化に努めた。
 CIE教育課は昭和21年8月29日、「男女共学」の推進を決定し、9月4日には日本側にその方針を伝え、必要な措置をとるよう求めた。これを受けて9月20日、教育制度刷新委員会の第三回総会で田中耕太郎文相は教育根本法の中に「女子教育」を含むことを明らかにした。
 これは女子教育の振興、男女相互の理解・尊重の観点に立つもので、関口隆克(文部省大臣官房審議室長)によれば、文部省内に「母性をもつ女性は 本能的に平和を愛するために、女子教育は重視されなければならない」と意見があったからだという。
 「女子教育だけ出されると、ちょっと何だか一段低いもの、ここに取り扱われるぞ、という気がして仕方がないのです」という河井道(教育刷新委員会委員)の反対意見にたいして、教育の機会均等の中に包含しないで別立てにする文部省の立案の趣旨について、関口は「女子の取扱いというものが余りにも低かった、そういう欠陥をこの際是正するという意味で、寧ろここにはっきりうたった方がよいのではないか」と説明した。
 民主主義の原則として男女共学を勧告する米国教育使節団報告書と文部省との考え方の隔たりは大きく、11月15日と22日に開催された教育刷新委員会総会でも、女子教育の振興は必要だが、男女共学の規定は必要ないというのがコンセンサスであった。
 11月14日に提出された第一次「教育基本法要綱案」には、男女共学について明記されていなかったため、CIE教育課は協議し、「男女共学の達成は期待できない」として拒否した。
 11月21日のCIEと文部省との会議に提出された「女子教育 男女はお互いに敬重し、協力し合わなければならないものであって、両性の特性を考慮しつつ同じ教育が施されなければならないこと」と書かれた第二次案に対して、CIEは「女性に対するあらゆる形態の差別を容認する表現となっており、第一次案よろも改悪されており、非民主的で認めがたい」として書き直しを求めた。
 「両性の特性を考慮」することが女性に対するあらゆる形態の差別を容認する表現で、非民主的で認めがたいというりいう理由で書き直しを求められ、削除されたことは不当な圧力と言わざるを得ない。男女の特性は本来的に異なるものであり、男女の特性を区別して活かし合い、補い合うことと男女を差別することは根本的に異なることである。CIEの不当な圧力によって「両性の特性を考慮」するとの表現が削除されたことは、後に「男女共同参画」教育とジェンダーフリー教育との混同を招来する禍根を残したといえる。  
 そして11月25日、両者が第三次案について検討し、「原則として男女共学は望ましいことであるが、義務とすべきではない」という意味の英文で合意した。しかし、この英文を日本語にするのは難しいので、11月29日、CIEと文部省がそれぞれ日本語案を持ち寄って比較検討した結果、CIEの日本人通訳の高橋昇氏が和訳した『すべての女性はそれゆえ今後男性と同様の教育特権を享受すべきである。男女共学の価値と原則が認識され、承認されるであろう』という表現が男女共学の理念を明確に表していることが確認された。
 その結果、12月21日の文部省案に初めて「男女共学」が明記され、最終的に「第五章{男女共学}男女は、互いに敬重し、協力し合わなければならないものであって、教育上男女の共学は認められなければならない」という表現になったのである。
 この経緯について、CIE教育課長補佐のトレーナーは回顧録で次のように述べている。
 「終戦時と占領開始時に生起した最も大きな社会的変革は日本女性の解放であった。・・・教育基本法起草の段になると、文部省は男女共学に明快な主張をすることに非常に難色を示すようになった。・・・CIE教育課では、男女共学は全国で義務とすべきではないということでは大方の合意があった。男女共学を扱った条項の最初の案では、女子の機会均等の平等もしくは男女共学の現実的進展をもたらすものと期待することはできなかった。教育課はその言い回しでは満足できないと明確に指摘した。そこでもう一つの案が提出されたが、そちらは最初の案よりももっと満足できないものであった。その案によれば、過去の日本の教育を特徴づけていた女性に対する差別もあらゆる形態の行使を文部省はできるようになっていた。・・・男女共学に反対する文部省の役人によって出されたすべての議論は男女共学がアメリカの学校に採用されるようになるにつれ、アメリカでも反対論が展開した議論のまったくのコピーであったということは興味深い。一つの興味深いエピソードとしてはこの議論がたけなわであったころ、教育課はある有名な私学団体の代表者の訪問を受けたが、彼は文部省が男女共学を義務化する法規を起草しているという噂を聞いたとして、驚きを表明した。教育課は男女共学は選択制であり、私学だけでなく公立学校でも同様である旨、彼に請け合った。」
 

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