貝塚茂樹『吉田満』の含蓄深い問題提起⑵

 貝塚茂樹著『吉田満』(ミネルヴァ書房、2023)の含蓄深い問題提起の続稿である。

●吉田満の「平和論」
 正義の戦争ならば支持し、不義の戦争には反対するという立場が、過去も現在も有力であり、第二次世界大戦の骨格も、正義の側に立つ連合国の当然の権利として捉える見方が大勢であったが、戦後史の30年は、この見方の正当性を裏付けてはいない。朝鮮動乱、中東戦争、ハンガリー事件、ベトナム戦争、チェコ事件、中ソ紛争と続く戦後戦争史の流れは、正義の戦争、不義の戦争の判別基準をいよいよ不鮮明にし、逆に大国の権力思想、エゴイズムをますます露呈させているように思われる。ある種の戦争ならば支持するという主張を含む反戦が、真の反戦になりえていないことは、明らかである。
 ニセモノではない平和運動とは、「政治だけに走らず、こうした思想的、信仰的深さに根ざした力を包含するところまで発展すべきものである」
 敗戦によって覚醒した筈の我々は、十分自己批判しなければならないが、それ程忽ちに我々は賢くなったのであろうか。我々が戦ったということはどういうことだったのか、我々が敗れたということはどう言うことだったのか、を真実の深さまで悟り得ているか」(「占領下の大和」)
 少なくとも私は、そうではない。私は考える。先ず自分が自分に与えられた立場で戦争に協力したということが、どのような意味を持っていたのかを、明らかにしなければならない。私の協力のすべてが否定されるのか、またどの部分が容認され、どの部分が否定されるのかをつき止めてみなければならない。そうでなくて、日本人としての新生のいとぐちを、どこに見出し得よう…先ず率直な自己展開を自らに課した所以である。

●戦没学徒の遺書
 戦中派とは、大正8年から昭和3年に生まれた世代で死亡率が高い(特攻作戦での戦死者約3700、うち85%は学徒兵)。
 「彼らは軍国主義のなかで育ち、懐疑的であったものも、民族の敗亡を青春として経験し、これまで社会を支配した価値体系・信条体系が崩れ去り、新たなデモクラシーという信条体系を上から押し付けられた。それは軍国主義が上から押し付けられたもの以上に、他者のものであった。かつて支配したものが崩壊した以上、新しい到来者もまた絶対に崩壊しないという確信はなかった。それは基本的には価値体系自体への”不信の世代”であった。」『戦後思潮』
 戦没学徒の手記を読むことは、私にとって長いあいだ苦痛であった。読むことを好まぬ、というのではない。「きけわだつみのこえ」も「雲ながるる果てに」も、くり返し読みふけったが、終始心苦しさがつき上げて消えなかった。この苦痛はどこからくるのか、手記に書かれた世界が全く人ごとではないという共感、彼らが空しく死んでいったことへの憤り、そして自分が今こうして安閑と生き残っているといううしろめたさ、そのすべてに苦痛はつながっているが、さらにそれは、別の暗い空洞のようなものから湧き出ているようにも思われた。

●遺書が映し出す戦中派
 「自分を中心とした生活の極度の貧困さ、いじらしいまでの自己保身の拙劣さ」「彼らは、奇妙なほど我欲がなく、個人生活の内実が希薄に見える。青春の貴重な可能性が脅かされているというのに現代の青年ならたとえ私生活の切片でも必ず死守しようとするのとは対照的に、彼らは、まるで自分の人生は守るに値しないとでも言いたげな口振り」
 「保身の武器もなく徒手空拳で立った彼らの姿には、他の時代の青年にない一つの支えがあるように見える。それは、自分に課せられたものに対する打算のない誠実さ、与えられた役割を謙虚に受け入れ、利害をはなれて最善をつくし悔いを残すまいとする忠実さ、とでもいえようか」。
 「青春を通じてわれわれが求めてきた世界の空しさをあばいたのは、戦争参加と、敗戦、戦後の挫折の経験であった。だからこそむしろ、戦前派の世代のように、あの戦争から巧みに卒業する術を学ぼうとは思わぬ。傷を小ざかしく隠し切るのは、死生の経験が、仲間たちの生命の代償が、あまりに貴重過ぎるのである。愚鈍に、敬虔に、失われたものから何が生まれてくるかを、追い求めたい。戦後の長い模索と沈黙は、伊達ではなかったはずである。安易な妥協や計算に終わらせてはならない。自分の足で踏まえられるもの、自分の手でつかめるもの、自分の血が通うもの、自分を生かせるものが、なんであるかを確かめたい。」
 「われわれ世代の不幸な宿命は、惜しむべき青春を愚劣な戦争と引きかえにしたことだけにあるのではない。最も忌避したい暴力のために、戦死しなければならないという矛盾にあるのでもない。前の世代から受け継いだ唯一の資産、それだけをよりどころにして育ってきた原理が究極には空しいことを予感したまま、散り果てたことに非命は極まるのである。失われたものに、本来実るべき芽がないならば、今それをよみがえらすことは出来ぬ。われわれの世代に、戦後を通じて明確な発言が乏しいのは、その故であろう」。

●「戦後責任」論と戦中派
 吉田はまた、戦後世代がどのような姿にあるのかは、彼らの責任ではなく、「一世代前のわれわれの責任である」と言う。「われわれ」(戦中派)は、戦前の世代から、「自己に統一された清澄な世界」を引き継いだが、一方で「われわれ」(戦中派)の世代には、「後の世代に引き継がせる何があったのか。後につづく者を責めるべき、どんな資格を持っているのか」と戦中派の責任へと視線を向け始める。

 マッチ擦るつかのまの海に霧ふかし
      身捨つるほどの祖国はありや
        (資料:「うしろめたさ」と「戦争責任」の間)

●「日本人のアイデンティティ」をめぐって一「公」と「私」の問題
 「彼らの文章には、驚くばかり<私>がない。この<私>のなかった戦時中の青年のことを思うと、今日のように、あまりにも多くの<私>に溢れている現代が極めて対照的に見えてくるのです。そして、この<私>にあふれた現代が、ほんとうの<私>があるのだろうかと思うのです。(中略)戦争中の滅私奉公は、間違った<公>のために<私>を空しくした過ちでした。しかし、私が本当に生きるには、ただ単に私に徹するのではなく、この私を真に生かす、真の公がなければならないのではないか、このように私は思います。<私>というものは、真実な、新しい<公>に役立ててこそ、本当の私となるものだからです。
 「”高度成長”という合言葉に象徴される、高度工業化社会へのすぐれた適応力、目的追求のあくなき意欲、そして反面では、当然の帰結として臆面もない自己中心、自己満足、他者への徹底した無関心」

 戦中派は、無私無欲の世代だといわれる。おびただしい量で書かれた戦没学徒の遺書のなかに、自分たちの悲運を嘆き、青春の無限の可能性が戦争の暴力のために奪われることの不当さを訴える、ただ一行の恨み言も見当たらないのは、自己中心で不平不満の絶えない戦後派青年と、いかにも異様であるが、無私無欲は、かならずしもつねに讃えられるべき美徳ではない。死を賭しても守るべき「私」がないことは、アイデンティティの中身が空虚であることを意味する。われわれ日本人という堅い枠だけをあたえられ、その内容を満たすための時間も精神的余裕もあたえられないまま、青春のさ中に戦陣にかり出されたのである。われわれに終始、「うしろめたさ」がつきまとったのは、そのためである。われわれはいつも口ごもり勝ちであり、戦後たびたび訪れた重大な転機にあっても、明快な発言ができないままに過ごしてきた。
 「国家観のないところには、正しい外交も、安定した国民世論の形成もないことは、いうまでもない」
 「国家観のないところに、国民の主体的な行動などありえない」

 戦中派世代は死を前にして、「われわれは何のためにかくも苦しむか」「われわれの死はいかに報いられるべき死か」と、みずから問いつめるほかなかったが、それに対する答えが、まだ戦後日本の歴史から生まれていない以上、生き残りは死者に代わって、この問いを問いつづけなければならない。戦争が終わり、時代がすっかり変わったのだから、自由にモノを言うのだ、というような態度にふさわしい話題を、われわれは持ち合わせていない。死んだ彼らが言えなかったことを、今こそ公然と言おう、というような使い分けは、われわれには用がない。彼らは、言いたかった最も重要な言葉は、はっきりと言い残していったのである。
 もし、彼らが生き残っていたとしたら、どんな戦後生活を持ったであろうか。そんなことをただ空想してみても、おそらく無意味であろう。それよりも彼らの苦悩の中に入って、くり返しその苦悩の底を見極めなければならないのであろう。しかし確かなことは、死にゆく者として彼らが残していった戦後日本への願望は、彼ら自身の手によっても、易々とは実らなかったであろう。新生日本とともに歩む彼らの戦後の生活は、決して平坦なものではなかったであろう、ということである。一つの時代に殉じた世代が、生き残って別の時代を生きるというのは、そういうことなのであり、三島由紀夫を死に至らしめた苦悩もまた、そのことと密着していると思われてならない。

 
 

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