岡潔との対話⑴

 数学者の岡潔が1970年8月23日に書いた色紙には、「東洋の宗教と西洋の科学とを融合して生命の科学を作り、それによって新しい道徳、学問、芸術、宗教、教育、経済、政治を作り、それを実地に応用して理想的な国を造ろう」と書かれている。
 岡潔思想研究会の横山賢二氏から手書き原稿として送られてきた「岡潔先生と語る1971年」と題する座談集(1968年の「岡潔対談集」は朝日新聞社から出版されている)の、「岡潔先生と語る⑴一肯定と否定の間」(昭和45年11月22日、奈良大安寺)の中から、興味深いやり取りを抜粋して紹介したい。

<質問>絵を見る者によって様々に受ける感じが違うというのは、各自の快、不快の感情によるのではないでしょうか?
<岡>絵の話をちょっとやめて、歌の話をしましょう。万葉の歌。

  ともしびの明石大門に入らむ日や
   こぎ別れなむ家のあたり見ず(柿本人麻呂)

  熟田津に船乗りせむと月待てば
   湖もかなひぬ今はこぎ出でな(額田王)

 万葉の歌には「自他対立」がないが、明治以後の歌には「自他対立」がある。まず若山牧水の歌ですが、

  冬の日のあはれ今日こそやすからめ
   土をそめつつ朝照り来たな

 いい歌ですが、詠む人がこちらにおって、詠まれるものが向こうにある。斉藤茂吉の「おのづから寂しくもあるかゆふぐれて 大いなる雲は谷に しづみぬ」も、石川啄木の「いのちなき砂のかなしさよ さらさらと握れば
指のあひだより落つ」も、会津八一が救出観音を詠んだ「あめつちにわれひとりいてたつごとき そのさびしさをきみはほほえむ」も自他が対立する。
 明治以後の歌は悉く自他対立するが、万葉の歌は自他が対立しない。万葉の人は第二の心で歌を詠み、明治以後の人は第一の心の世界で歌を詠んでるんです。真・善・美・妙すべて第二の心の世界にある。
 万葉以後にあって第二の心の世界に住んでる人の例は松尾芭蕉です。芭蕉は第二の心の世界に住んでいた。芭蕉の俳句「春雨や蓬(よもぎ)をのばす草の道」一目の及ぶ限り万古の春雨が降っている。同じようでも与謝蕪村の春雨の句は、「春雨やものがたりゆく蓑と笠」一二筋か三筋雨が降っているだけで、自他対立する。「春雨や小磯の小貝濡るるまで」一これも春雨がほとんど降っていませんが、よくみれば自他対立する。
 第二の心の世界においてでなければ、真の美というものは無いのです。
<質問>ということは、自分がその中に入っているということですか?
<岡>入らなきゃわからない。第二の心の世界に入らなきゃ美はわかりません。自他対立するところには美は無い
<質問>出ると自他対立しなくなる訳でしょう?
<岡>そう。あなたがそこにおって、私がここに居るでしょう。それでいけない。それじゃ美を論じる資格なし。
<質問>しかし、例えば歌にしてもね、もともと快い音とかね…
<岡>わかりもせずにうじゃうじゃ言うなって言うんです。
<質問>いや、わからないから聞いているんです。
<岡>なんぼしても自他対立がわからん。私がここに居って、あなたがそこに居るんじゃありませんよ。
<質問>そうすると、そこに居られて、ここに居るのは?
<岡>からだ・物質です。何とかしてあなたをわからしたいがなあと思うんだが、この辺でピッと言った方がいいんじゃあるまいかと一寸思う(笑)。あなたは第一の心の世界にはまり込んでしまってた。大体快・不快で判断せよっていうのは、アメリカのデューイという教育学者が言ったんです。これは絶対にやってならんこと。ところが、それに従って日本の教育はなされている。快・不快で判断せよというようなことを随分教えてる。快・不快で判断するのは動物がすること、人のすることじゃありません。デューイの教育学は野獣の教育学だと思う。何よりも自他対立がいけない。
 風が吹く。風が自分の心である。雨が降る。雨が自分の心である。そういう心にならなきゃ美はわからない。だから欧米人には美はわからんのです。美をつくることはできる。だけど鑑賞はできない。第二の心でなきゃできんものだから。
<質問>わからないのに何故つくれるんですか?
<岡>わからないのに潜在意識でつくるんですな。あなた一体何を言いたいん。快・不快で判断するって言いたいんですか。それとも、めいめい思うことがあるんだから、多数決でも取らなきゃ、いけないと思うんですか。
<質問>めいめい思うことがある訳です。結局自分というものの考え方による以外に仕方がないのではないですか。
<岡>その自分というのは小さな自分です。その小さな自分というものを離れなきゃ。あなた一体、芸術品でこれはいいなあと思ったもの、ありますか。
<質問>心からはありません。
<岡>無いでしょう。芸術は感銘を与えるものです。だから感銘を受けたことがないんだったら、一度も美に接したことはない。目が塞がっている。
  春雨や蓬をのばす草の道
 これは快・不快じゃない。目あきとめくらです。目はあかなきゃ駄目です。
<質問>歴史の本を読むんですが、それに対して何か指示を与えるとか、親として何か気を付けてやるべきことはありませんでしょうか?
<岡>歴史というのは本来「民族の叙情詩」であるべきもので、だから民族の叙情詩という風な方面を強調してあること選んで読ませるとよい。歴史を色々批判したりはいけない。古いこと批判して何になりますか。すべて悪いことは忘れてしまって、いいことだけ覚えていて、過去は懐かしいと思う。これを「時の美化作用」というんです。これがあるが故に人類は向上するんです。民族の昔の良いことだけを思い出して、昔を懐かしいと思うことが大事なんです。そういう趣旨に合っていることであるかどうか調べてやるだけはなすったらよろしいので、喜んで読めば、読むに任せておくに限る。
 
 


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