子供との「心のキャッチボール」の達人


 中曽根政権下の政府の教育審議会である臨時教育審議会の唯一の教育学者として専門委員に就任し、いじめや不登校などの子供の問題行動への対応の在り方について質問攻めに直面したことが契機となって、問題児が立ち直った全国の教育現場(フリースクール、少年院、教護院など)を訪れ、問題行動から立ち直った実践を理論化する「臨床教育学」を専門的に研究し、『臨床教育学と感性教育』(玉川大学出版部)等の著書を出版してきた。

神経症的登校拒否児との「心のキャッチボール」

 埼玉県狭山市で開善塾教育相談研究所を開設した金澤純三氏は、私がこれまで全国行脚の中で出会った実践家の中で最も優れた子供との「心のキャットボール」の達人である。金澤氏は家庭を訪問する独自の方法で、多くの神経症的登校拒否児を学校に復帰させてきた。
 「心のキャッチボール」の具体的方法については、私が月刊誌『文藝春秋』に「登校拒否はこうすれば治る」と題して詳述し、テレビでも解説したことがあるが、神経症的登校拒否児を専門的に指導している具体例を紹介したい。
 7カ月近くコタツにしがみついて全然動けない子供がいた。金澤氏はその子に「動くな。もっと体を堅くしろ。駄目だ。もっともっと堅くしなさい」と命じ、しばらくしてから「ハイ。もういいよ」と言うと、その子は安心してコタツを握りしめていた手を離した。
 子供とのみごとな「心のキャッチボール」である。凡庸な親や教育者は何とかしてコタツから手を離させようと説教するか、強引に手を離させようとする。しかし、そうすればそうするほど、子供はますます緊張し、心の扉をますます固く閉ざしてしまうだけである。
 金澤氏の指導法は体を堅くさせた後に、一気に心をリラックスさせる「ツボ」を心得た指導法である。その他の具体的指導法については拙著『悩める子供たちをどう救うか』(PHP研究所)を参照されたい。

障害児との「心のキャッチボール」

 東京学芸大学付属養護学校の野木清司元副教頭は障害児との心のキャッチボールの達人であった。西田幾多郎などの哲学を学び「脱近代の一考察」という卒論を書いて早大を卒業し、進路に悩んでいた私は6カ月間同養護学校に通い野木先生の目から鱗の実践に触れて教育に開眼し、障害児教育こそが教育の原点であると確信し、大学院で教育学を専攻する道に導かれた。
 ある日、障害のある女生徒が校庭にあるポールの高いところに登ってしまい、大騒ぎになった。みんなが大声を出して「危ないから早く降りろ!」と口々に叫んだが、そう言われれば言われるほど、その生徒はますます緊張して体を堅くしてポールを握りしめ、一層降りられない精神状況に追い詰められてしまった。
 たまたま私と一緒にそこを通りかかった野木先生は騒いでいる生徒や教職員たちを教室に戻し、その子に対して、「そこから何が見える?めったにそんな高い所に登れるもんじゃないから、ゆっくり景色を楽しんで、気が済んだらゆっくり降りておいで」と声をかけた。すると、その子は安心してあっという間に降りてきた。
 実に見事な子供との「心のキャッチボール」である。「落ちたら死ぬぞ!」「危ないから早く降りろ!」などというお説教は、それがどんなに子供のことを深く心配するが故のものであっても、子供の心を緊張感と恐怖感で閉ざしてしまう、ということに多くの教師や親たちは気付いていない。
 「気が済んだらゆっくり降りておいで」という子供の心をリラックスさせる、たった一言がすべてを解決してしまったのである。しかし、このことがなかなか多くの教師や親にはわからないのである。
 私は神奈川県教育委員会で学校不適応対策研究協議会の専門部会長として、『学校に行けない子供たち』という冊子を責任編集し、神奈川県教育センターで不登校やいじめ対応を中心とした教員研修を担当したが、小学校よりも中学校、中学校よりも高校の教員の方が「心のキャッチボール」ができないことを痛感させられた。
 
 
 
 
 


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