出口康夫『AI親友論』が問う「われわれとしての自己」

●前野隆司『幸せのメカニズム』と鄭雄一『道徳のメカニズム』は合致する

    京都大学大学院文学研究科哲学専修の出口康夫教授が4ケ月前に出版した『京大哲学講義 AI親友論』は、東京大学大学院の道徳感情数理工学専攻の光吉俊二特任准教授や鄭雄一教授の問題意識との共通点があり、なかなか興味深い。また、鄭教授によれば、noteやモラロジー道徳教育財団の「道徳サロン」の拙稿で紹介した『東大理系教授が考える 道徳のメカニズム』(ベスト新書)と「幸福学」の提唱者である前野隆司慶應義塾大学ウェルビーイングリサーチセンター長の著書『幸せのメカニズム』(講談社現代新書)の内容は合致するという。毎週自民党の「日本Well-being計画推進特命委員会」でお会いしている前野教授に確認したところ、「その通り」と太鼓判を押された。
 出口教授は京都学派の哲学、道元思想、東アジア仏教思想などを研究し、近年は「できなさ」に基づいた人間観・社会観として、“Self-as-We”(われわれとしての自己)を提唱し、NTTや日立京大ラボをはじめとする産業界との共同研究にも力を入れている。
 東大大学院の道徳感情数理工学専攻との接点は、AIと道徳の関係について論じていることである。出口教授の前掲書から関連部分を抽出すれば、第二講「道徳的AI」(48頁)「道徳的エージェント」(66~69頁)と第六講「AIに倫理を装備する」(133~164頁)である。

●「自律的自由」「自在的自由」「自游的自由」の違い

 出口教授によれば、東アジアには「自律的自由」とは異なる「わたしの自由」概念が脈々と息づいていた。そのような東アジア的な自由概念の例として、仏教思想に見られる「自在的自由」と老荘思想における「自遊的自由」がある。
 仏教思想における「自在的自由」の概念が顕著に見て取れるのは、大乗仏教の経典『大般涅槃経』で東アジアの仏教に大きな影響を与えた。涅槃の四徳(常、楽、我、浄)のうち、「我」は自由で妨げがなく、ブッダの法身であり、8つの大いなる自由を有する。
 この「自在的自由」にとっての「悪い束縛」とは、行為を行う能力の「制限・限界」に相当する。つまり、「自在的自由」とは、能力が「制約・制限」を免れていること、能力の「無制約性」を意味する。このように、行為遂行能力に限界がない状態が「自在」としての自由だとされたのである。
 老荘思想における「自遊としての自由」は、中国の老荘思想、特に『荘子』に登場する「遊」や「逍遥」といった概念においてうかがえる。この場合の「悪い束縛」とは、「規則」ないしは「規則に縛られていること」だといえる。
 そうすると、ここでの「自由」とは「規則から脱していること」「規則に縛られていないこと」、すなわち「柔軟性」や「自発性」を意味する。行為の遂行が規則でがんじがらめになっていることが「不自由」、そのような規則に縛られずに遂行されていることが「自由」だとされる。

道元「身現」、荘子「天籟」、西田幾多郎「行為的直観」とは何か
 
 人生の主体である自己は、ウェルビーイングの主体でもある。ウェルビーイングとは自己の一状態であり、自己とウェルビーイングとは切っても切れない関係にある。自己を問うことはウェルビーイングを問うことに他ならない。「自己とは何か」を問うことが、古今東西の哲学にとって重要なテーマであった。多くの哲学者は「人生の主体」が「自己」と捉えてきた。
 西洋近世哲学にとっての自己は、他者や周囲の環境や世界から明確に切り離され、他から孤立した「個人」であった。それに対して、東アジアの思想家たちは、この「個人」という殻を打ち破る努力を続けてきた。
 デカルトやカントに代表される西洋近代哲学の「強い自己」観と比べると、「東アジア的自己観」の特徴は、脱個人主義的で「弱い自己」を標榜した点にある。このような脱個人主義的で「弱い自己」を標榜した東アジア的自己像の一つに、老荘思想や禅を中心とする仏教思想の中で語られてきた「真の自己」がある。この「真の自己」の特徴として、「全体論性」と「身体行為性」の二つが挙げられる。
 全体論的自己とは、世界ないし森羅万象と同一視された自己である。例えば、老荘思想の古典の一つ『荘子』斉物論編では、自分自身のことを忘れ、「万物」と一体化した自己について語られている。この自己はまた、全自然がおのずと奏でる調べ「天籟」に耳を澄まし一体化する「我」でもある。
 世界と一体化したこの全体論的自己は、その後、禅思想に取り入れられ、「森羅万象として現れている身体としての自己」として表現され、道元は「自己自身によってではなく万象によって修証される(悟りを開かされる)自己」と表現した。
 一方の身体的行為的自己の源泉の一つは、禅の「心身一如」思想で、道元によって「身現」という仕方で概念化された。「身現」とは、世界の真の在り方(実相)を意味する「仏性」を、座禅などの修行に打ち込む身体行為によって端的に表現することを意味する。「身現」とは、自己が世界の実相と一体化した、身体行為そのものとしての自己なのである。
 このような道元の考えを受けて、京都学派を創始したに西田幾多郎は「行為的直観」と表現したのである。これは、大工による建築作業といった、社会の只中で行われる「身体を使った生産行為」そのものとしての真の自己の在り方を意味する概念である。道元も西田幾多郎も、自己を身体と同一視した禅思想をさらに徹底することで、自己をその都度の身体行為に還元する身体行為的自己観を打ち出したのである。

●AIと人間が「親友」として交わる、新たな「われわれ」とは
 
 このような「真の自己」が享受するウェルビーイングもまた、全体論的で身体行為的な在り方を持つことになる。荘子の言う「天籟」という全自然がハーモニーを奏でている状態、その天然の合奏に耳を傾けつつ、自らもその合奏に加わる自己の在り方だということもできる。このように全自然がおのずと奏でる調べを体現するその都度の身体行為になりきることこそがウェルビーイングに他ならない。
 そこで、出口教授はこれらの先人からのメッセージを現代の概念や論理の水準を満たす仕方で再編成しなければならないという問題意識の下に、このような東アジアの真の自己を、全体論的で身体行為的な現代的自己観、すなわち「われわれとしての自己」観として哲学的に再生する作業に取り組み、『AI親友論』を出版したのである。
 同書の「はじまり」には、次のように書かれている。

<ここで言う「われわれ」とは、ある一つの身体行為を、意識・意図するとしないとに関わらず、結果として支えている数多くのエージェントからなるシステムを意味します。この「われわれ」には、人間も人間以外の動物も無生物も、そしてAIやロボットなどの人工物も含まれます。このような「われわれ」のメンバー同士としての人間とAIの間にはどのような関係が成り立つべきかを本書は問うています。…本書は、人格を備えたAIや「親友」としてのAIについても語ります。それら、いや彼ら彼女らは、「人間とは何か」を時間軸で問う哲学的思考実験の登場人物なのです。
 このように以下の講義は、現状を超え、はるか斜め上を見すえる視線で語られています。あなたには、その斜め上に、あなた自身の心の水平線が、果たして見えるでしょうか。太陽と海が溶けあったそこにランボーは「永遠」を見つけ、ゴダールは「巨大な疑問符」を見ました。僕はそこにAIと人間が親友として交わる新たな「われわれ」を見ています。本書の最後のページを閉じられた後、あなたには、何が見えることになるのでしょうか。>

 東大で最も人気のある授業をされている光吉俊二、京大で最も人気のある授業をされている出口康夫のお二人が来年一緒に共同研究されることになれば、画期的な研究成果が期待される。道徳とウェルビーイング、AIとウェルビ-イング、AIと道徳との関係に注目しつつ、モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所の共同研究にも取り入れていきたい。


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