童話にみる日英の国民性の違い⑴

   ロンドン大学専任講師、ニュージーランド国立オークランド大学助教授を経て明星大学教授になった国文学者の井上英明氏の著書『比較日本文化学の試み 異文化時代の国語と国文学』(サイマル出版会)には、「童話にみる国民性の違い一日英比較文化の試み」と題して、日英の童話ではキツネの性格が異なる興味深い実例を紹介している。
 イギリスの絵本童話作家、ジョン・バーニンガムの『ハーキン』は児童文学の名作として広く読まれてきた作品で、日本では『逃げろハーキン』という訳名で大石真訳があり、版を重ねている。ハーキンとはイギリスのキツネの名である。
 井上は原作が日本語の訳書においてどのように変形されて日本の子供たちに伝えられているかを分析し、最後に日本人特有のメンタリティを色濃くにじませた、新見南吉の傑作『ごん狐』を取り上げ、キツネをめぐって日英比較文化論を試みている。
 まず、バーニンガムの原作の表題は”The fox who went down to the valley"
であるが、大石訳では『わんぱくこぎつねのぼうけん一逃げろハーキン』となっている。題名がなぜ違ったか、違わせたのかについて、井上は次のように考察している。
 バーニンガムの原作を知らず、大石訳を読むと英国人の子供のメンタリティを知らない日本の子供は、ある種の感動を覚えるだろうが、その邦訳を英語に訳し直して、英国人の子供の世界に身を置いて読むとすれば、少なからず違和感を覚え、かつ理解に苦しむところが多々あるという。キツネの性格が日英ですこぶる異なっているからである。
 10歳前後の子供向けの英語なので、英語そのものに難解な箇所は全くなく、誤解・誤訳の入り込む余地は全くない。そこで、井上は大石訳の以下の訳文を列挙して、考察している。
⑴ いたずらぎつね
⑵ 親ぎつねはいつもやかましく
⑶ ちょっと見ると、そのまま渡れそうな泥んこ沼も、ありました。でも、
 うっかりその上を歩いたら、たいへん、たちまちずぶずぶ足がもぐってし
 まいます。
⑷ このばか者め、
⑸ 父さんは怒って、ハーキンをどなりつけました。
⑹ おろおろして言いました
⑺ 日曜日に、
⑻ きつねたちは、
⑼ (きつねたちは)大いばりで谷へ行くことができるようになりました。
⑽ 自慢話
⑾ その子は、そんな父さんの話なんか、すっかり聞き飽きているんです。
 そして、父さんも行ったことのない、谷の向こうへ行ってみたいなあと、
 考えているのです。

 まず本のタイトルからして、イギリスのキツネ、ハーキンが日本に渡ってくると、何か悪いことをしでかしたずるがしこいキツネとなって、逃げろ!逃げろ!というふうに、日本式にため直されたイメージを読者の心中に固着させてしまうかのようである。
 本文の訳文⑴の「いたずらぎつね」の「いたずら」が原作にはない。ハーキンというキツネは、大人とか体制側とか、なにか権威のある者に向かっていたずらをするといった対立関係に書き換えられてしまっているのである。
 ⑵の「いつもやかましく」の原文はwarnという警告を正式に発するという「理性的行為」であって、口やかましく叱るという「感情的行為」ではない。
 ⑶の原文は、In the valley there were also some very treacherous marshes
which nobody dared to cross for fear of sinking into the mud(泥沼に沈んでしまうのが怖くて、敢えて誰も渡ろうとはしなかった)で、泥沼は非常に危険なところだから、はじめから近づけないということである。
 ところが訳文では、「ちょっと見ると、そのまま渡れそうな」と、あくまで「いたずらぎつね」を前提とした改訳になっている。原作が分かったうえで書き直していることが大事な点なのである。
 ハーキンは父親の警告を無視して谷へ出かけ、ついに森の番人に見つかってしまう。森の番人の撃つ鉄砲の玉をかいくぐってハーキンは家に駆け込む.そこで親ぎつねは⑷「このばか者め」と激怒する。しかし、原作には親が息子に罵倒する場面はない.
 また、⑸の「どなりつけました」というのも、原作では「言いました」と書かれているだけである。そして、⑹のかあさんぎつねは「おろおろして言いました」という個所の原作は「大声をあげました」と書かれているだけである。
 ⑸と⑹の前後を読むと、イギリスの普通の家庭での親子の対話の様子と、日本の伝統的な家庭での親子のやり取りの違いがくっきりと出ている。井上によれば、イギリスの親は理性的であるのに対して、日本の親は感情的である。日本の母親はいつも「おろおろ」していている。そういうふうに描かなければ、日本の読者には母親のイメージがすんなり入ってこないので、書き改めているというのである。
 そこで、地主様は⑺「今度の日曜日に、きつね狩りをしよう」という。これは日曜日は特別に礼拝にささげられた安息日であるイギリス人から見ると大変おかしなことであり得ないことである。原作には「土曜日」と書かれている。
 ⑻の個所の原作は「ハーキンの両親は」が主語なのに、訳文では「きつねたち」が主語になっている。日本とイギリスでは両親の子供に対する役割が異なっており、12歳頃まではイギリスの親は子供の登下校の送迎の責任を負っており、校内に入ると学校が責任を負う。
 また、12歳頃までの子供を自宅に放置して保護者が外出していることが見つかれば法律で罰せられるという。イギリスでは、12歳頃までは徹底的に子供を保護する政策が取られ、18歳になると徹底的に独立放任政策に転換する。⑻の背景にはこうした日英の違いが反映しているのだという。
 ⑼の原作には「きつねたちは平和に生き、自由に谷を駆け回ることができた」と書かれている。しかし、日本語訳だと、西洋近代国家の支柱ともいうべき緊張に満ちた「平和」や「自由」の深刻な意味がすっかり棚上げされて「大いばりで谷へ」と訳し変えられてしまっている。
 その後、時は流れて、かつての「いたずらぎつね」のハーキンは、大勢の子ぎつねに囲まれて暮らす「父さん」狐になっている。そこで、⑽の「自慢話」となるのであるが、原作では「お家に伝わる名高い素晴らしいキツネ狩り」となっており、「子供たちよ、よく聴け」という自慢話ではないのである。
 物語はいよいよ大詰めを迎え,⑾の一節となってイギリスの子供たちが一番感動し、読後の満足感に浸る最後の文章になるのである。従って、バーニンガムの原作『ハーキン』の正確な訳は『逃げろハーキン』ではなく、その反対の『英雄ハーキン』または『やったぜハーキン』としなければ、原作者の意図にそぐわないと井上は結論付けているのである。
 新美南吉の『ごん狐』は、死ぬ間際に、兵十に「お前だったのか」と分かってもらい、それにうなづいて満足げに死んでいく、そこに非常に大きな感動がある。これに対して、イギリスのキツネは、親父のハーキンが冒険をやってのけて、地主様の帽子を勝利品として持ち帰ったけれど、今度はこの俺が谷のもっと向こうへ行ってやる。イギリスの子供たちが喜ぶのはそういうところなのである。
 ハーキンは次から次へと谷や泥んこ沼を越えていくのに対して、日本のキツネごんは、人間の兵十と仲良くなりたいと願ったばかりに、殺されて結末となる。死んだ後に理解されても、ごんは救われないと判断するのが「ハーキン」を喜ぶイギリスの子供たちであり、この点が相違点であると井上は分析している。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?