ラブライブ!を撮り続けた10年間
前年6月ぶりとなりました。
私の表現方法は写真であってもうnoteなどもう書くことはないと思っていたのですが、近頃ありがたいことに写真での案件をいただくことが増えてきたこともあり、改めてラブライブ!と写真とは?というところを考え直してみた結果のようなものを「みんなで叶える写真展」から1周年の今、ここに記しておきます。
これを読んだ誰かにとって何かのヒントになれば幸いです。
以下、カメラオタクのことを便宜上写真家としています。絵師とか歌い手的な意味合いで受け取ってください。
早口を始める前にそもそもラブライブ!を写真で表現するとはどういうことなのかというところですが、ラブライブ!が描くスクールアイドルという存在はどのグループもその学校が所在する街の特色が併せて描かれています。その街で生きるということが時に彼女たちのスクールアイドルの在り方にも影響してくるのがこのラブライブ!という物語の特徴でもあります。
本編を観る前と後とでは街の景色が少しだけ違って見えた経験のある方も少なくないと思います。
なにが違って観えたのか。
繰り返しになりますが、それがスクールアイドルの存在です。
街に見え隠れするスクールアイドルたちをファインダーに収めてみよう、というのがラブライブ!を写真で表現することの核となる部分です。
要するに絵師さんがペンタブ持っているのと同じ立ち位置で写真家はカメラ持ってますよ、ということです。
スクールアイドルに願う衝動
スクールアイドルは誰かにやらされるものじゃない。とはシリーズで語られてきている大前提のようなものですが、ではどうしてスクールアイドルになりたいと思うのか。
今や星の数ほどいるスクールアイドルのそれぞれに想いはあれど、たとえ”なんとなくでも自分がやりたいと思ったから”が一同にして言えることだと思っています。
UTXのスクリーンで、あるいはダイバーシティのステージで、スクールアイドルが持つ熱量に自分の中の”叶えたい自分”があてられ、燻り、自分もまたそうなりたいと願って、限られた3年間をスクールアイドルとしてその身を燃やす。
その刹那的とも言える青い初期衝動って私がなんとなくシャッターを切るその瞬間、時には1/1000秒で終わる今に馳せる気持ちにも似ている気がするのです。
なんとなく、の衝動
いざ街に出てスナップシューティング(照明や小道具を用意せず思うままに撮影すること)をする場合は特に顕著に現れるのですが、データを確認している写真家に「どうしてそのタイミングでシャッターを切ったのか」と問いてみてください。大体はじめは「なんとなく」と答えが返ってくると思います。
なんとなく綺麗だと思ったから。
なんとなく面白い思ったから。
なんとなく野良猫が可愛かったから。
なんとなくラーメンが美味しそうだったから。
誰に強制されたわけでもなく、撮りたいから撮ったその”なんとなく”がとても大切というお話をしたいと思います。
ではここからはラーメンに例えていきましょう。
行きつけのラーメン屋です。ガラガラガラ
いつも来るたびにログインボーナスよろしく、なんとなくうまいラーメンの写真を撮ります。
ズゾゾ…ご馳走様でした。今日も美味しかったです。
中毒者なので翌日も来ました。
おかしいですね、営業時間なのに暖簾が出ていません。
張り紙がされています。
『一身上の都合により閉店しました』
途端に泣き崩れるオタク。
大好きで思い出もたくさん詰まった味だったのにもう食べることも匂いを嗅ぐことすらできなくなりました。
揺らぐ視界の中、写真フォルダを見返せばうまいラーメンの写真ばかり。
もう2度と啜ることのできないラーメンに思いを馳せ、鼻を啜ります。
なんとなく撮ってきたなんてことのないラーメンの写真が特別に思えた瞬間です。
その瞬間というのは、いつだってわからないものなのです。
後になって名の付くもの
スクールアイドル、もとい学生時代というものは只中にいる時ではその尊さに気づけないものなんですよね。私はそうでした。
在学中に今青春してるな〜なんてわかるわけないんですよ。仮にそう思ったとしても、それはあくまで創作物で見聞きしたフィクションの青春に自分を当て嵌めてそう感じているだけで。
学生時代って何かと勉強だったり部活だったり恋愛だったり、常にいっぱいいっぱいで青春だなんて考える暇もないくらい目まぐるしく過ぎ去っていったと思います。(これを読んでくれてる方の中で学生さんいたら心しておいてください)
なにもわからないままあっという間に卒業して、それから社会人になって、数年経った時にふと思い返しては愛おしく思ってしまうのが”青春”という時間なのだと実感しております。
そうですね。これこそ閉店したラーメン屋です。
ラーメンは青春なのです。
定点はいつだって今現在にあるので、未来のことなんて誰にもわかりはしません。
だからこそ何気なく撮った写真も、別な理由で撮った写真も、近い未来で大切な意味を持つ可能性を秘めているということです。
あなたは何枚、あの日々が青春だったと思える写真を残せていますか?
写真家としてなにを歌うか。
なんとなくでもそれを好きに思えて、それを撮りたいと思った自分がそこにいるのなら、そうして解剖していった”なんとなく”の中に現れるのは被写体ではなく他ならぬ自分自身なんですよね。
そこに撮りたい自分があった。とも言えます。
スクールアイドルは学生時代という限られた日々を過ごしていく中で感じたことや伝えたいことを歌に乗せて表現し、写真家は日々を過ごしていく中で感じたことや伝えたいことをワンシャッターの限られた時間の中に写真として表現する。
結論、他誰でもない自分自身の”写真に収めたい=私を叶えたい”というその衝動こそ写真とラブライブ!の共通点だと私は感じています。モブがスクールアイドルになる瞬間です。御宅はいらないから踊ればいいのです。大会に出ようが出まいが皆スクールアイドルなのと同じように、スナップ撮影だろうがスタジオ撮影だろうが関係ありません。自分にしかない視点、感情、衝動で撮影したのなら、それはもう自己表現の域なのですから。
なんていうとまるで写真家がスクールアイドルみたいなことになってしまいますね。広義の解釈ではあながち間違いではないのかも知れませんが。
ですので、あくまで写真家は客席側としてスクールアイドルを見たとき、その3年間の限られた時間の中で輝こうとするその儚さというのは、まさにファインダー越しに捉え、レンズ内で像を結び映し出す”光”という存在そのものなのだと感じています。
スクールアイドルのライブを見るたび、どの子たちも”今この瞬間を刻み込んでいるな”と思うことがあります。
写真は過去に遡って撮ることも、カメラのファインダー越しに未来を覗くこともできません。
今を生きる人間が使う以上カメラという道具もまた”今この瞬間を刻み込む”ことしかできないのです。
結局同じなんだと思います。
その時は夢中でただ踊っている、ただ撮っているだけで、それが後にどうなるのか、果たして花咲くのか、なんてのは前項のラーメン屋です。
それでも歌に乗せなければ、シャッターを切らなければ、ラーメンを啜らなければ、今の自分がままならないというならばやらない理由はないでしょう。
歌いたいから歌う。
踊りたいから踊る。
撮りたいから撮る。
それではここで2曲続けてお聴きいただきましょう。
Aqoursで「Water Blue New World」
スリーズブーケで「素顔のピクセル」
2次創作としての写真表現
あくまで私が行っているのは2次創作としての写真表現ということをここから話していこうと思います。
前項で”限られた時間の中に表現したい自分を宿すのが写真”と説きましたが、2次創作とは元となる物語があって、それを自分が摂取し味わった上での表現となります。いわゆる解釈と呼ばれるものが色濃く出るわけです。
スクールアイドルの存在は”光”です。
つまり2次創作として写真表現をする場合ファインダー越しに捉えるものはスクールアイドルそのもの。
ただひとえに写真表現と言ってもさまざまですから、その子の視点になって風景を切り撮ったり、物語に出てきた背景のまま切り撮ったり、はたまた写真にキャラクターをイラストで載せたりと、手に取るのは同じカメラでも人ぞれぞれどう表現するかは違ってきます。
そこで前項の深掘りを兼ねて、続けていると陥りがちな悩みに触れたいと思います。
カメラを持って聖地巡礼をしていると「これはただの風景写真なのではないか」と言う疑問が生まれた写真家も少なくないのではないでしょうか?
私も一時期悩んでおりました。
ここで再び出てくるのが、”なんとなく”の衝動です。
2次創作の場合、この”なんとなく”の部分に前述した”解釈”が当てはまってきます。
”ここは穂乃果がスクールアイドルに出会った場所だからその視点で撮ろう”とか”この桟橋で千歌と梨子が出会ったのは夕暮れ時だからそれに合わせて撮ろう”のようにこれまでぼやけていた”撮る理由”が鮮明になりますね。
ただの風景写真か否か。
つまりは記録としての写真か、表現としての写真か、という違いはそこにあると考えています。
この定義は非常に曖昧なので極端な例を挙げて説明します。
履歴書用に撮った女性声優(任意)の証明写真と、桜舞い散る逆光の彼方、振り向き様にシャッターを切った女性声優(任意)の写真を並べましょう。
2枚とも同じ人が撮った同じ女性声優(任意)のバストアップ写真です。
ですがこの2枚を記録か表現かで当てはめた時、おそらく大多数の人が前者が記録で後者が表現、と言うでしょう。
なぜ違うと思うのか。
その一枚に撮影者の個性が出ているか否か、という違いがあるように私は思うのです。
普通の証明写真は逆光で撮ったりしません。
撮影者がその瞬間にシャッターを切ろうという衝動に駆られなければ撮れないものが後者、つまりは表現としての写真なのだと私は考えています。
さらにシャッターを切った理由を言葉にできたらパーフェクトです。
自分がカメラを握るからこそ撮れるものを追求していけば、自ずと表現として、2次創作としての写真というのは出来上がってくるのかなと思います。
音もなく言葉もない写真という手法で伝えられる情報量には限界がありますから、いかに観た人の想像力を掻き立たせるか、というところも大事です。悩んでいるのなら補助的にキャプションに一言添えるのもありですね。
やり方は無限大です。思考のレンズは広角でいきましょう。
写真とスクールアイドルの普遍性
ここまで読んで下さった方の中にはなんとなく気付いた方もいるかもしれませんが、上記のそれらはきっと写真家だけに当てはまることではないと思います。何か大きな熱に当てられて表現したいと思った人なら誰しも当てはまるのではないでしょうか。
ただ、今日日のデジタルカメラやスマートフォンは写真を撮ることに対してイラストや音楽などと違って特別な技術を必要としません。スクールアイドルの「不完全でも熱を持ったみんなで作る芸術」に通ずるところです。
誰でもシャッターボタンを押せば成り立つ芸術が写真といえます。
私はその普遍性が好きです。
スマートフォンのカメラと一眼レフカメラの違いには決して優劣なんてものはなく、画材に例えればクレヨンか絵の具かの違いでしかありません。
先ほどお聴きいただきましたスリーズブーケの「素顔のピクセル」ですが、あの曲ってスッと取り出せてパッと撮れるコンパクトデジカメやガラケー、スマホが普及した現代だからこその歌詞ですよね。教科書で隠した大切な人の泣き顔をカバンからでっけぇ一眼ごっそー取り出して撮ろうとはならないじゃないですか。オタクじゃあるまいし。
それから「そこにある感情ごと写すよ」は写真家からしてもとても的を得てる歌詞だと思っています。被写体の感情だけでなく、それを撮ろうと思った撮影者の衝動ごと写るのが写真ですから、「ほらこっち向いて 君は何が見える」になるんですよね。
写真という存在は、なんら特別なものではなく誰にだって身近にあるはずのものです。
また出逢う桜のために
写真を趣味にしていて一番良くない感情は”あの時撮っておけばよかった”だと私は思っています。これは何事にも当てはまるようで、いま目の前にあるものしか撮れないカメラ特有のものとも言えます。
私の経験則ですが、本当に心揺さぶられるシャッターチャンスというものはほとんどが一度きりでした。撮っておけばよかった、という感情を抱いた時点でどう頑張ってももう”あの時”は来ません。
迷ったら行く。
悩んでも撮る。
行ってお目当てが撮れなくても何か別な出会いがあるかもしれないですしね。
人でも風景でも、日々のなんとなく良いなと思ったものに対して気が向いたらシャッターを切ってみてください。
そのワンシャッターが僕らの活動記録です。
なんとなくの積み重ねが、かけがえのないアルバムを生み出します。
どうかこの一瞬を大切に。
もうこれを読んだあなたが何をすべきかおわかりですね。
そうです。
今すぐヨ◯バシカメラに行きましょう。
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