週刊タカギ #3

こんばんは、高城顔面です。

土曜日は知人とカラオケ(なんと複数人で行くのは学生以来!)、日曜日はミッシェルガンエレファントの映画を観に行ってきました。どちらも楽しかったです。

本日、成人の日は、新成人が道をふさいでいて嫌だった思い出しかなく、雪もひどかったので、なるべく家にこもっていました。札幌の新成人がジュンク堂前にたまりがちなメカニズムをご存じの方は教えてください。


本日は、1/8(月・祝)。一首評を掲載します。

断線したイヤホン、または拒否として流し込まれる硬い空白

久間木志瀬『そのうち十五分は眠っていた』(2022,私家版)

著者の2015年から2022年までの歌をまとめた私家版の第一歌集より。連作「針の雨」に所収。

街を歩いていると、それぞれのイヤホンやヘッドホンを身につけ、動画や音楽を楽しみながら、移動時間のなかにも、できるだけ自分ひとりの空間をつくろうとしている、という光景をよく見かける。

実際、わたし自身も、移動中はイヤホンを手放せないタイプである。音楽がかなり好きだから、というのもあるが、たまに移動中に他人の喋り声が許容できない精神状態の時があり、そんなときに他人が他人の悪口を言っていると、とても気分が落ち込むからだ。(これは少し特殊な状態かもしれないが……)

この歌では、主体が「断線したイヤホン」を身に着けたまま、移動しているという想定ができる。もし自宅などであれば(相当な大音量でなければ)任意の方法で音楽を聴くことができるし、前後の歌に「渋谷」と「池袋」という地名が登場することもあり、山手線に乗っているのかな、という想像もはたらく。

仮に「断線したイヤホン」が、主体ごと山手線の車内にあったとして、主体に果たす機能はごく限られている。若干の消音機能と、その場の出来事への積極的な関与の拒否の意思表示、といったところだろうか。

消音機能は、耳栓や消音用イヤーマフよりもやや機能性は劣るが、電車内ではそれらよりも確実に多くの人が身に着けているものであり、自然に「集団の中のひとり」として溶け込むことができる。

後者については、不特定多数の人間がいる群衆(たとえば車内)の中で、いきなり知らない人に声をかけられたくない、車内のトラブルに巻き込まれたくない、などなどのさまざまな感情がはたらく場合がある。
しかし、イヤホンをつけていれば、そういったトラブルに遭遇する確率はぐっと減る。群衆の中で、イヤホンで音楽を聴いている(であろう)人間と、そうでない人間だと、声をかけやすいのは後者だろう。(それでもたまにそんなセオリーを無視して声をかけられることはあるが……)

この主体はおそらく、不特定多数の群衆に囲まれている空間への関与を拒絶したい思いが強くあるのだろう。そして、もともと備わっている、音楽を流すという機能を失った「断線したイヤホン」をわざわざ身に着け、「硬い空白」を流し込むことで、音楽など流れていないことを周囲からは悟られぬよう、その空間に対する「拒否」を静かに表示し続けている。背後に差し迫った感情も見え隠れするようだ。

この歌が置かれている連作内では、主体の「ぼく」と「きみ」とのふたりの間に流れる繊細な(しかしするどく尖った)逢瀬の時間のなかの感情の流れが描かれてゆく。もし「きみ」以外と時間を共有したくないという感情がはたらいているのならば、わざわざ「断線したイヤホン」を身に着けてまで、その空間を拒絶したい、という気持ちがはたらくのも、もしかしたら、さほど無理はないのかもしれない、とも感じた。


次回の更新は、1/12(金)。短歌を掲載予定です(できてれば)。
この更新ペース、なかなか大変だということに気が付き始めました。


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