週刊タカギ #31
こんばんは。高城顔面です。
この記事を更新しなきゃなあと思った瞬間に足を攣って、更新のことが頭からすっぽ抜けました。なんて脳のメモリが少ないんだ…。
本日は、8/23(金)。短歌評を掲載します。
わたしの自宅に、一冊の歌集がある。22ページのぺらぺらの手製本で『メカゴジらない』という、不思議なタイトルがついている。なぜこの本があるのか、まずはそこから説明したい。
わたしは、数年前から「北海帽子部」という集まりの準メンバー的な立ち位置(だと思っている)として活動している。もともとは、歌人・枡野浩一さんのファンの「北海道支部」だったのが、いつの間にやら「北海帽子部」になっていたらしい。現在の中心メンバーはis(イズ)さんと、月夜野みかんさん。そこにわたくし高城と、札幌よしもと所属の芸人である、スキンヘッドカメラ・岡本雄矢さんが加わる形で、年一度の札幌文フリのブース出展を軸に、ここ数年は活動している。
isさんは、札幌のバンドシーンにありえないほど詳しい。様々なライブハウスやイベント、道内外問わずさまざまな場所に出没しており、isさんは複数人いるのではないだろうか……?というのがわたしの見解である(うそです)。そんなバンドからのつながりで、isさんが持ってきたのが『メカゴジらない』。「最南の札バン」(isさん談。札バンは札幌のライブハウスを拠点に活動するバンドを指す)である、宮崎の「VERANPARADE」というバンドでギターボーカルを務める「歌王子あび」さんが突如短歌にのめり込み、数か月の間の短歌をまとめて作り上げた一冊だという。昨年の文学フリマ札幌の帽子部ブースでも販売されていたので、わたしも一冊購入して読んでみた。中でも印象に残ったのがこの歌。
街角の笑顔のこわい市議員が碗に残した米を知ってる
状況の描写が巧みな歌だ。おそらく主体は飲食店で働いているのだろう。そこに街角で、ででんとポスターが貼ってあるような「笑顔のこわい市議員」(市会議員、でないところが普段の語り口のようで、とてもよい)がやってくる。議員は、公に立つ人間として、清廉潔白・公明正大な人物像を求められる。笑顔がこわくたって、粗相のない立ち振る舞いが、非常に重要である。そんな市議員だって人間である。われわれがついやってしまう、犯罪ではないけれど、あまり行儀がよくないことをすることだってある。米を残すことである。「知ってる」という状態であるということは、「残しちゃって悪いね~」などのひとこともなかったとも推測できる。残した米から、市議員のある種の側面を自分は知っているぞ……という、主体のポジショニングがユニークな一首である。
しばらくして、前述の歌も収められた歌集(今度は製本されている)『お寿司たち』がリリースされた。タイトルの由来は「短歌自体や連作のたたずまいが、お寿司のように思えたから」(あとがきより意訳)とのこと。前置きが長くなりすぎたが、中身を見ていこう。
『お寿司たち』は五十首連作「ひかりら」とそれ以外の短歌によって構成される歌集だ。まずは、”単品”の歌で好きだったものを。
国語など無視してすべてに濁点をつけたいような生存願望
足元に三台あったファズを捨て コーラス、これが成長痛よ
いかにもな老人らしい服を着た老人になるたのしみもある
一首目。「国語」と「生存願望」の結びつかないラインを「濁点」という中和剤がうまくまとめている。よく「あ゛」という表記を目にするが、それすらも上回っている状態だ。『ONE PIECE』の有名なひとコマを思い起こさせるような一首だ(ちなみにわたしは『ONE PIECE』を一ページも読んだことがない)。
二首目。「ファズ」「コーラス」は楽器に用いられる、音色を変化させる機材であるエフェクターの一種だ。大概は奏者の足元に置かれ、足で踏んで操作をすることが多い。「ファズ」は音を激しく歪ませ、逆に「コーラス」は、角を取った涼やかな音を表現できる。ファズが三台もあるということは、相当激しい音で音楽をやりたいという志向があったのだろう。しかし、そのファズを「捨て」(「売り」や「譲り」でもなく!)、コーラスに置き換えるという、経年によって音楽の好みが変わってゆき、エフェクターを処分しなければいけないさまを「成長痛」にたとえるというのが、どこか寂し気でもあり、唯一無二のポイントだ。
三首目。自分にはあまりない発想だったので、ハッとさせられた。年を取るということは、できなくなることがどんどん増えてゆく……という固定観念が頭の中にあったのだが、「そうか!年を取るからこそ似合う服もあるのか!」と気づかされた一首。いったいあびさんはどんな服を着たいのだろう。
つづいて「ひかりら」より。
待ちぶせと待ちあわせって違うことプリンのリまでフォークが進む
デパ地下の唐揚げすごくたくましい触るだけだと何円だろう
かあさんが五十九年かけて落ちきった涙を一秒で拭く
「ひかりら」の題は、最後から二首目にある「あくびにもビートをあたえ午後をゆくバスの仕事はひかりらの異化」から取られたものなのだろう。
ひかりら。文脈から察するに、変換するならば「光ら」ということであろうか。そうなると、この連作の一首一首が瞬間の「ひかり」に思えてくるタイトルである。そんな瞬間たちから好きな歌を引いた。
一首目。「プリンのリまで」という喩が見事。フォークの進み方が手に取るようにわかる。上句の「待ちぶせ」と「待ちあわせ」の差異に対する思考との取り合わせも面白い。
二首目。唐揚げの「たくましさ」に目が行くか!と思わせてからの「触るだけだと何円だろう」というぶっ飛んだ発想に持ち込んだ、豪快な力技一本の気持ちよさを感じる歌だ。うちの近所にも、デパ地下ではないが「たくましい」唐揚げを売っているお弁当屋さんがある。きっと働けたら0円で触り放題なんだろうなあ……(しかも給料も出るし、なんなら余った唐揚げもまかないでもらえるかもしれない)。
三首目。「五十九年かけて落ちきった涙」とはどんな涙だろう。人間の体内の水分は入れ替わるので、五十九年もずっと体内にある涙は(ほんとうは)ない。しかし、涙の原因となる「感情」であれば、五十九年ものあいだ蓄積されてゆく。それが涙となったのであれば、「五十九年かけて落ちきった涙」はありうるものだ。しかし、「かあさん」はそれを一秒で拭く。そんなにも見られたくない涙だったのであろうか。読み手側の想像力もふくらむ一首だ。
あとがきによると、あびさんは一年で900首(!)を制作し、同じく宮崎在住の歌人・井口寿則さんとの合同本『安住』も出版するなど、本業のバンド活動に加え、短歌でもめいっぱいのフルパワーで活動している。
「これは……!」と思える歌が多くあった歌集なので、ぜひまた次の歌集を楽しみに待ちたい。
そしてわたしもロックバンドが大好きなので、VERANPARADEのライブを観に行きたい。札幌でお待ちしております。
次回は、8/30(金)更新予定。短歌を掲載します。
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