世界的ウインターリゾート・ニセコに学ぶ

北海道の観光をどのように伸ばしていけば良いのか、世界に発信していくにはどうしたら良いのか、その格好のモデルが北海道にあるのです。

平成28年7月、総務省が発表した人口動態調査が話題を呼びました。7月13
日に同省が発表した住民基本台帳に基づく人口動態で、ほとんどの地域で人口が減っていくなかで倶知安町が外国人住民の社会増で276人となり、全国の町村部でトップとなりました。隣接するニセコ町も外国人住民の社会増が106人で全国7位、留寿都村は98人で全国8位となっています。これらの外国人住民はアウトドアインストラクターと不動産売買に関わるビジネスマンが過半を占めているといいます。ニセコが国際的リゾートに成長したことを明快に示しているのではないでしょうか。

このニセコの発展は3期に分けて考えることができるでしょう。第1期は、一人のオーストラリア青年がニセコを訪れた平成3年に始まります。その青年は、1964年にオーストラリアのメルボルンに生まれたロス・フィンドレー氏で、キャンベラ大学でスポーツ学を学んだインストラクターです。スキーが好きでその技術を活かしてアメリカとスイスでインストラクターをしていました。平成元年にワーキングホリデーで初めて日本に来たフィンドレー氏は、札幌手稲山の「三浦雄一郎スノードルフィンスキースクール」のインストラクターになります。この時にニセコを知り、山と雪質の素晴らしさに魅了されます。

拠点をニセコに移し、地元の建設会社で働きながら生計を立て、日本人女性と結婚しました。平成6年にNAC(ニセコアドベンチャークラブ)を設立
し、体験観光のガイド事業を始めました。尻別川の清流に着目し、ニュージーランドで盛んなラフティング事業を導入したところ、この頃から体験型が主流になり始めた修学旅行のメニューに取り上げられ、しだいに注目を集めるようになりました。フィンドレー氏に触発されてオーストラリア人が同様の事業を立ち上げます。ラフティングから始まり、ダッキーやマウンテンバイクなど体験型のメニューを広げ、彼らのビジネスは平成10年代に入ると数万人の観光客を動員するまでに成長しました。ニセコエリアではバブル崩壊から冬場の観光入り込み数は減り続けていました。そして平成14年、倶知安町で冬に65万2000人あった観光入り込み数に対して、夏が66万8000人と初めて夏冬が逆転します(「倶知安町観光振興基本計画資料編」倶知安町)。

第2期は、ニセコに出来たオーストラリア人コミュニティーの口コミが本国のオーストラリア人を招き寄せる時期です。ニセコでの夏場の体験型観光が事業として定着すると、その担い手であるオーストラリア人がこの地域に定着します。冬になって夏場のガイドができなくなるとニセコのスキー場に職を求めるようになり、母国からスキー客を招く事業を始めました。そこに起こったのが2001年の9・11同時多発テロです。欧米への旅行が敬遠され、ヨーロッパのスキーリゾートと比べた場合の距離の近さ、時差の少なさからニセコが注目されるようになりました。おりからオーストラリアは好景気に沸き、高止まりした豪州ドルレートも日本への旅行を後押ししました。

時差や距離の近さという条件では白馬や蔵王などの国内主要スキーリゾートも同様ですが、ニセコが決定的に違ったのはオーストラリア人コミュニティーが既にあったことです。この頃、オーストラリアはバブル的な状況にあり、同国の企業家たちがニセコに不動産価値を見いだしてコンドミニアムなどに積極的に投資します。

このことを象徴するのが、日本ハーモニーリゾート株式会社が、ニセコ山系の主要ゲレンデの一つである「ニセコひらふ花園スキー場」を平成16年に買収したことです。同社は平成16年に日豪で設立されたリゾート開発の合弁会社です。合弁といってもメルボルンに本社のあるオーストラリアン・アルパイン・エンタープライズ(AAE)の出資が95%、日本側が東急不動産の5%ですから、ほぼオーストラリア企業といってよいでしょう。きっかけは、後にハーモニーリゾートの会長となるAAEのロジャー・ドナザン氏が妻でカンタス航空の会長でもあるマーガレット・ジャクソンさんとニセコを訪れ、そのパウダースノーに魅せられたことです。ドナザン氏は北海道新聞社のインタビューで進出の理由をこう答えています。

「答えは簡単です。ニセコ地域にはビジネスチャンスがあるからです。カンタス航空が今、世界の全路線に置いている機内誌9月号を見てください。羊蹄山を背景にジャンプするニセコのスキーヤーの写真をトップで扱い、『ディープ、ドライ、パウダー』と雪質を絶賛しています。オーストラリア人から見れば、近くて時差がなくて、標高があまり高くなくて空気が薄くないのも有利。現在の日本は地価も安定しているし、投資した分が回収できる時期だと判断しました」(北海道新聞2004・9・8)

同社はニセコのひらふスキー場「花園コース」を買収して設備投資を行うほか、カナダの通年型リゾート「ウィスラー」をモデルにリゾートタウンの構想を打ち出しました。

第3期は、国際的リゾートに成長したニセコに多くのアジア人観光客が訪れ、主客の逆転現象が起こる時期です。倶知安町では平成26年宿泊延べ数でオーストラリア人観光客が12万74人であったのに対してアジア人観光客が
12万1851人と初めて逆転しました(「倶知安町観光入込状況・2018・6版」倶知安町)。

象徴的なのはニセコハーモニーリゾートが平成19年8月に香港の通信大手PCCWグループによって買収されたことです。PPCWを傘下に持つ香港最大の財閥を率いる李嘉誠氏の二男李沢楷氏が主席(会長)を務める不動産部門担当子会社PCPD(パシフィック・センチュリー・プレミアム・デベロップメンツ)が、オーストラリアの親会社ハーモニー・リゾーツ・ニセコなどから株式を100%取得。PCPD役員の李智康氏が代表取締役に就任しましたが、コリン・ハックワース社長も代表取締役として残り、ドナザン会長もアドバイザーとして留まりました。日本ハーモニー・リゾートは花園スキー場を買収した後、提携パートナーを募ってリゾートタウンの構想を進める計画でしたが、提携先が見つからず構想が行き詰まっていました。そこに成長著しい中国資本が手を差し伸べた形です。PCPDはハイアット・ホテルズ・アンド・リゾーツとホテル・レジデンス運営受託契約を締結し、日本初のパーク・ハイアット・レジデンスである「パーク・ハイアット・ニセ
コ・HANAZONO」を2020年に開業しました。

また平成19年には「ニセコ東山スキー場」が西武グループからアメリカのシティグループに買収されましたが、これも平成22年にシティグループからマレーシア・YTLホテルズ&プロパティーズに売却されています。平成
30年6月、外資系不動産開発会社ウェルスプリング・リアルティ・インベストメンツがニセコモイワスキー場内に総面積28haの大型複合リゾートの開発を計画していることが新聞報道されました。高級ホテル2棟と戸建ての分譲別荘31戸を完成させるとしています。また世界的なホテルグループ、ザ・リッツ・カールトンも「東山ニセコビレッジ、リッツ・カールトン・リザーブ」を2020年12月15日に開業しました。ニセコの観光開発はオーストラリアからアジアへ、さらにグローバルビジネスが参入する新しい段階に入ったといって良いでしょう。

私の「北海道200年戦略」は、まさしくこのニセコの経験を全道化することです。バブル期に一躍脚光を浴びたスキーリゾートが衰退し、代わってラフティングなどのアウトドアアクティビティが主流となり、気がつくと再びスキーリゾートの時代になっている。従来型の観光理解ではニセコの発展は読み解けないかもしれません。ニセコこそコンテンツという視点で読み解くべきなのです。

一人のオーストラリア人の存在が体験型観光地としてのニセコを発見し、ここに集まったオーストラリア人インストラクターのコミュニティーが母国から多くのスキー客を呼び込み、さらにアジア人の集客を招いたというのが、ニセコのサクセスストーリーです。

さまざまな場面でロス・フィンドレー氏は発言していますが、彼は決して観光ビジネスの成功を求めてニセコを選んだわけではありません。彼にとって最高の遊びのフィールドがニセコにあったということなのです。フィンドレー氏に続くオーストラリア人も同じようにニセコを全体的な『遊びのための環境』として捉え、これを楽しむためのコンテンツとしてさまざまなアクティビティを開発していきました。スキーもラフティングもニセコを楽しむためのコンテンツとしては同列なのです。これを『スキーがダメになったからラフティング』と捉えるのは供給者サイドに立った従来型の観光理解です。この質的な違いは、観光というものを考えるときに大切な視点であると思います。北海道で『これをしたい』という純粋な『遊び心』こそ観光振興の原点であるべきでです。