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橋本治『双調平家物語〈1〉序の巻 栄花の巻(1)』

 この一巻の殆どは中国の宮廷を中心とした数名の「反逆」の歴史物語に費やされている。平家物語も「反逆」の物語であるからだ。この完全に付け足しである、いくつかの中国の歴史物語がとんでもなく面白かった。歴史上悪者とされていたものは果たして悪者だったのか。あるいは、その「悪」はどのような「悪」だったのかと。「悪」が一種類でないのであれば、「悪」者もまた一人ではないのではないか。小説という形式によって、複数人の視点から歴史的出来事が描かれる。つまりあるものから見たときの「悪」物は、また別の人にとって当然のように「悪」者ではないのである。橋本はどうして「反逆」が起きたのか、その背景となる「理」がひたすら一つずつ書き重ねられていく。中国研究者ではない橋本が当たれる歴史的資料は限られていただろう。それゆれここでの「理」とは、生まれ・育ち・環境・他人との出会いを背景にした、そのようにしか動かざるを得ない心の働きを意味する。この本はあくまで小説である。
 「理」というからには必然だけあって、偶然というものはないのだろうか?当然ある。人は理由がなくても死ぬし(天災や本当に不慮の事故(中国宮廷では当たり前のように不慮の事故に見せかけた暗殺が起こる)、また寿命)、生まれ、育ち、環境、歴史的状況、他人との出会いという偶然がすでに生に深く埋め込まれている。しかしその偶然は前提であって、それによって導き出される人の心は必然なのである。これを別様に言えば、そのようにしか、つまり「人の心」と呼ばれるものを通じてでしか歴史的出来事は理解できないのである。心の「理」を持って古代中国を見ることで、物事の起こりを理解することが可能となるのだ。そして、「近代」という時代を経た現代のわたしたちとおなじように、歴史上の人物が、それぞれの内面と状況と個人的な事情とを併せ持つ「個人」として生きていたことを発見する。
 「理」となる心は一方で深遠さ、つまり他人にとっても自分にとっても到底理解が及ばない部分が存在する。心の働きを見ようとする小説は油断すると、その心の闇というか沼というかに足を取られてしまう。小説は確かに心の奥行きを描けるものであるからだ。しかしそこに足をつけこそはすれ、深みにはまらないので、読者は「理」を通じて把握することができる。もう一つの視点としてこの中国の歴史物語は、宮廷を舞台したあくまで男の社会なのである。男社会を生きる男たちの心情が手に取るようにわかるだろう。個人的にはこれが嬉しかった。

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