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【短編小説】ナッツ、インザスモールディッシュ

 陶器のお皿。全体は白く、縁にトルコブルーのラインが入っているそれは、以前エスニック雑貨屋で一目惚れをしたものだった。あのお皿を見つけた時の、ささやかなときめき。とても可愛らしく見えて、お皿の後ろの値札の数字も魅力的で、迷わずレジに持っていったような気がする。何年前だろう。学生の時だったから、四、五年前になる。

 楽しいことは何故かすぐ忘れてしまうし、思い出すのに時間がかかる。記憶のタンスに大事に大事にしまいすぎなのだろうか。逆にネガティブなことは、適当に収納されるせいか、嫌になる程すぐ思い出してしまう。

 例えば、一週間前。
 会社の飲み会があった。いわゆる同期飲みというもので、同時期に入社した十人ほどが集まった会だった。
「ほら、フミカちゃん、食べなよ食べなよ」
 隣の席に座ったのは、総務課に配属された女の子だった。サラダや大皿料理を、他の人の分より多く私に配膳している。彼女の手首に着けられた、シルバーの細いブレスレットがせわしなく揺れて光っていた。

「フミカちゃんマジ癒されるよな〜」
 斜め前に座った、営業成績トップの男が顔を真っ赤にして言う。
「いっぱい食べな!な!」
 笑顔で露わになる歯が異様に白い。「そうだね」と曖昧に微笑み返して、目の前の料理を消費する。
 トイレのために席を立って、個室に戻ろうとした最中、引き戸をかける手が思わず止まった。中で、私の話をしている。

「な、またアイツ太ったよな!」
「そんなこと言っちゃダメだよぉ〜」
「いや事実だろ? 隣のリコちゃんと比べたら、厚みも横幅も顔も二倍だぜ!?」
「んも〜、やめてあげなよぉ」
「その割にリコちゃんだって笑ってるじゃん!」
「どうやったらあんなに太るのか謎ではあるよね」
「あ、余った料理あいつの前に置いておけば食べてくれるんじゃね?」
「ひど〜い」

 お酒でほてった身体が、すーっと冷めていくのを感じる。こんな場面は何回も経験してきた。だめだ。だめだ。私は踵を返してトイレへと戻り、鏡の前で、二、三回深呼吸をする。だめだ。冷めた熱がどんどん涙腺に集まる。だめだ、やめろ、泣くな。
 「事実だろ?」
 鏡の中には、適正体重を越した醜い女が、泣きそうな酷い顔でこちらを見ている。この醜い女は誰なんだろう。ジャケットの二の腕はパツパツ、弛んだ首周り、苦しそうなシャツのボタン。
 泣いたら負け、泣いたら負け、泣いたら負け。
 私は呪文のように口の中でもごもごと唱える。そうでもしないと、目の前の鏡を割ってしまいそうだった。

 高校生ぐらいまでは普通体型だった。上京して入った大学で、周りのキラキラした女の子に負けないように、自分磨きを頑張った。でもその頑張りが、違う方へ作用してしまったらしい。私は、たくさんものを食べては吐くようになってしまっていた。
 確かに痩せたが、その吐く行為が治るとどんどん太ってしまっていった。社会人になるとストレスも相まって、それが加速してしまい、今のこの醜い私に至る。


 陶器のお皿。袋からミックスナッツを数個出す。カラカラと小気味いい音がする。
 いつかはしなくてはならないと思っていたダイエットを、飲み会をきっかけに始めることにした。朝はナッツとギリシャヨーグルトとスムージー。そうは言っても時間が無いので、ヨーグルトとスムージーは買ってきたものをそのまま食べる。

 朝日が部屋に差し込んで、お皿に影を落とす。私はテレビもつけないまま、ナッツを食べる。よく噛んで食べると、満腹感も持続しやすいらしい。
 数年住んで馴染んだこの部屋に、私がナッツを噛む音が響く。何故かは分からないが、噛むたびに目頭が熱くなって、二個目のくるみを噛み終えたころに一粒涙が溢れてしまった。つぎにピーナッツを口に入れると、また涙が頬を伝う。
 あの日堪えた涙が、数日たった今になってあふれている。
 太った人間がダイエットをする。
 こんなに正しくて素晴らしい行為なのに、なんで泣いてしまうんだろう。痩せたくない訳じゃない。むしろ、痩せたくて痩せたくてしょうがない。なのに、なんで。

 人間は中身だ、外見じゃないなんて綺麗事は世に蔓延しているけれど、私はずっと違うと思って生きてきた。外見が全てだ。だから、醜い私はからかわれて当然なのだ。そんな場面に直面しても、真っ向で激昂する義理がない。
 私が、醜いのが悪いのだから。

 ナッツを全て食べ終えて、ヨーグルトにとりかかる頃には涙は既にひいていた。時計を見ると、家を出なくてはいけない時間が差し迫っている。
 洗面台に立ち、髪を整える。毎日見ている醜い女が酷い顔でそこにいる。
「あなたは美しいよ」
 絶対に他人からかけてもらえないような言葉を唱える。自分が言わないと、この醜い女がかわいそうだから。流しに置いた皿がカチャリと鳴る。
 肯定してくれるみたいで、なんだか少し嬉しくなった、夏の初めの朝だった。

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