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C56型蒸気機関車、汽笛鳴る

 9月23日、靖国神社にある博物館「遊就館」入り口に展示されている、静態保存の日本製蒸気機関車C56型の汽笛が鳴った。この汽笛が鳴ったのは実に40年ぶりだ。

 この日、汽笛吹鳴が行われたのは、第2次世界大戦時に旧日本軍によってタイとビルマ(現ミャンマー)間に建設された泰緬鉄道を最初に走った蒸気機関車、C56型の31号機だ。戦後、研究家によって発見されたこの機関車が昭和54年に日本に帰還し、靖国神社に奉納された。そのときに行われた式典以来の吹鳴だ。

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 当日は快晴で、暑かった。最寄り駅の九段下駅から第1鳥居を潜り、境内に向かう。遊就館は本殿を正面に見て、右手にある。ここは戦時中の様々な資料が展示されいて、チケット窓口の前にC56が展示されていた。

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 今回の式典『令和3年慰霊祭』は、当時、泰緬鉄道の鉄道建設に従事した日本陸軍の部隊、旧日本陸軍鉄道第9連隊の創設80年の節目でもあった。これに合わせて関係者や関係者遺族などが本殿などで行われた儀式に参列し、最後、遊就館にて遺族らによる黙禱セレモニーが行われ、その中で汽笛吹鳴が行われた。

 当日の遊就館は通常営業中なので、機関車の前に参列者の席が作られ、有志の組織「機関車C5631号保存会」の方によってC56型31号機の紹介などが行われた。

 この保存会は旧日本陸軍鉄道第9連隊の戦友会「鉄輪会」を母体とし、結成当初は31号機をタイから日本へ帰還させるための「C5631機関推進期成会」として誕生。会長は元陸軍少佐で、日本陸軍鉄道第9連隊にて戦時中に実際に泰緬鉄道の敷設を指揮した菅野廉一氏だ。しかし、今年4月16日に101 歳で逝去されたこともあって、今回の式典は同氏を始めとした保存会関係者への慰労と追悼の意味もあった。

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 この機関車が置いてあるのは遊就館の入り口で、ここまでは無料のスペースになる。機関車のほかにはゼロ戦や高射砲などの展示物もある。また、カフェやグッズショップもあり、ここでは海軍カレーが食べられたり、レトルトパックが購入できる。

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 C56機関車の横には泰緬鉄道の説明もある。泰緬鉄道は軍事物資輸送の補給のため、タイと当時のビルマを結んだ路線だ。日本軍兵士だけでなく、地元住民や連合軍の捕虜が建設に従事した。全長約415キロをわずか約1年3ヶ月で開通させた。

 こんな短期間で開通できたことで、連合国側からは日本軍による連合国軍捕虜虐殺の象徴として語られる。実際に過酷な現場で、山を切り開いて作り、また連合国側の爆撃などで破壊されては作り直すことを繰り返しながらの開通だった。映画『戦場にかける橋』の舞台になったクウェー川鉄橋の線路もその一部である。

 ただ、旧日本陸軍の鉄道部隊から戦後無事に日本に帰国できた方々の話はまったく違う。鉄道部隊では確かに捕虜を使役していたことは認めているが、決められた作業時間が来たら収容所に帰していたということで、虐殺だとか虐待という事実はないとされる。残念ながら、こういった事実は立場によって変わるものであるし、今や捕虜虐待が事実として語れ、実際のところはわらないのが現実だ。

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 今回の汽笛吹鳴は、この画像の金色の部品部分が鳴った。エアコンプレッサーでタンクに空気を圧縮してため込み、それを一気に放出するという方法が取られた。吹鳴の作業を担当したのは、この機関車の保存会のメンバーだ。メンバーの方によれば、圧力は規定通りのものであるとはするものの、今回のセレモニーで鳴った音量は、実際に運行されていたものと同じかどうかは不明とのこと。

 また、メディアで報道された内容によると、機関車の保存会の説明では、この31号機は1936(昭和11)年製で、石川県の七尾機関区で1941年まで使われた個体だという。その後、船でタイへと運ばれ、泰緬鉄道の開通式で使用された。

 戦後、タイ米を食糧難の日本へと運ぶことを計画した連合国側などの事情もあって、連合国が押収した走行可能な多数の日本製蒸気機関車がタイ国有鉄道へと所有権が移され、この31号機もそのひとつとなった。そして31号機は1977年まで現役として活躍したと見られ、その後地方で放置されていたものを日本のC56の研究家が偶然発見。タイ国鉄と交渉し、1979年に日本に帰還し、靖国神社に奉納された。

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 バンコクから西へと車を走らせることおよそ1時間強。ミャンマーと国境を接するカンチャナブリ県には先述の映画『戦場にかける橋』の舞台となったクウェー川鉄橋が残っている。現在もバンコク都心部から見てチャオプラヤ河を渡った西岸にあるトンブリー駅から毎日数本、この橋の手前にある駅まで通常列車が走行している。タイ国鉄でいうと、この路線は南線の支線に当たる。

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 今ではタイ人外国人問わず、人気の観光スポットになっている。カンチャナブリの街中には捕虜収容所の跡地や資料館、外国人墓地がある。これら戦争関係の博物館などのほか、カンチャナブリ県内は温泉や滝など、自然豊かな観光スポットが多い。

 また、観光者向けに泰緬鉄道の一部、ミャンマー国境に近い辺りまで観光列車も走っており、当時の風景を垣間見ることもできる。

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 クウェー川鉄橋駅には静態保存のC56型も展示されている。C5623という番号があるので、これは23号機ということになる。C56型は1935年から4年間で160両が製造された。そのうちの90両がタイや当時のビルマに供出されている。製造番号でいうと、100番より若い号車が送られていたようだ。

 ちなみに、この23号機の塗装はタイ国鉄のカラーである。日本は真っ黒なもので、遊就館の静態保存31号機は日本の国鉄カラーに塗り替えられている。

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 遊就館では通常時は展示車体に七尾機関区を示す「七」の区名標が取りつけられているそうだ。一見タイ国鉄で走っていた様子がないように感じるが、日本国鉄カラーはただ黒色を上から塗っているだけなので、一部にタイで走っていた面影を発見することもできる。

 それは、31号機をうしろから見るといい。運転台のうしろに炭水車があり、その側面を見るとタイ文字が下地にあることがわかるのだ。上記の画像でわかるだろうか。

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 先の画像と同じものに白枠をつけてみた。本来は3文字あるのだが、光の加減で2文字しかわからない。

 このふたつはタイ文字で、ある単語の略が描かれていたのだ。その痕跡があるというわけだ。現在、バンコクの西にあるトンブリー駅横にある機関区に動態保存されているC56と比較を見るとわかる。

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 これがトンブリー機関区にあるC56だ。C5615とあるので、日本では15号機にあたり、タイ国鉄では713号として走っていた。ちなみに遊就館の31号機はタイにおいては725号という番号が与えられていた。

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 この機関車のうしろにやはり炭水車があり、その側面には「ร.ฟ.ท.」とあるのがわかる(赤で囲った部分)。これはローフォートーと読むが、正式には「ロット・ファイ・タイ」のことで、タイの列車、すなわちタイ国鉄を意味する。遊就館の31号機の炭水車の黒色の下に隠されているのは、このタイ国鉄の略称なのだ。

 なんて、さも自分が発見したように書いているが、実は下記のブログを書いておられる方、O氏から教えてもらったことだ。

 O氏とはタイで知り合い、いろいろと蒸気機関車のことを教えてもらった。今回の記事内で何度か「静態保存」、「動態保存」という言葉を使っているが、この言葉も以前のボクは聞いたことなかった。これも氏が教えてくれたことだ。

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 静態保存は遊就館の31号機のように、もう動くことはなく、展示されるだけの状態の機関車である。一方、動態保存は動く状態で保管され、整備などを行っていけばいつでも動かすことができる。

 先のトンブリー機関区にある713号は動態保存だ。つまり、走行可能な状態である。この機関区にはほかにC56型であればもう1両、715号がある。この2両は近年、カンチャナブリ県が主催するイベントに呼ばれ、クウェー川鉄橋をショーとして走行している。

 C56の動態保存は日本にもある。京都鉄道博物館内のC56の160号機、それから大井川鐡道で走る44号機だ。44号機もまたタイから帰還した車両で、今だと『きかんしゃトーマス』の赤色のジェームスのカラーで運用されていたことで知っている人もいるかと思う。44号機も朽ち果てた状態だったものを研究家が見つけ、1979年に日本に戻り、大井川鐡道でタイ国鉄の面影を残しつつ、日本国鉄バージョンに戻された。2006年から2010年くらいまではタイ国鉄カラーで走行していた時期もある。

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 動態保存は特にそうだが、こういった蒸気機関車の保存は実は大きな問題を抱えている。それは、部品が劣化しても交換ができないことだ。オリジナルの部品メーカーはほとんどがなくなっている。そのため、手に入れたくても中古パーツすら存在しない。

 タイ国鉄の動態保存機関車も同じで、タイ国鉄職員たちの職人技でなんとか保っているものの、この先、というか近い将来には動態保存が困難になる。

 そして、なんとかこういった機関車を維持しようというのが保存会のメンバーたちだ。有志の一般人たちが集まり、知恵を出し合って維持をしている。これが現状だ。

 今回のセレモニーにおいて、31号機前部には通常展示時にはないプレートが掲げられた。それはタイのSLチームへの感謝への言葉だ。

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 というのは、この画像のホースが随分と劣化してしまっていたことに保存会は頭を悩ませていた。この部分ももう手に入らない。保存会としては今回のセレモニーでなんとかきれいな姿で31号機の関係者にお披露目をしたいところ。

 そんなとき、O氏が長いタイ駐在員生活を終え、昨年日本に戻ってきて状況が変わった。O氏はある日、タイに関係した蒸気機関車ということで遊就館に31号機を見に来た。そのときに保存会のメンバーと知り合い、ホースの話を聞くやすぐにタイの保存会メンバーに問い合わせた。運よく、サイズ的にピッタリなホースが手に入った。

 これが先のプレートで掲げられたメッセージの裏事情である。ちなみに、この一件もあって、O氏はそのまま31号機の保存会メンバーとなった。氏はタイの保存会のメンバーでもあるので、両国の保存会に所属する唯一の存在となる。

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 トンブリー機関区では今も数機の動態保存機関車がある。タイ国鉄職員はもちろん、保存会メンバーも特に走行イベントがあるときには機関区に駆けつけ、整備の手伝いをする。現在はC56よりは日本製のパシフィック型という蒸気機関車の方が走る機会が多い。上の画像はそのパシフィック型の整備の一場面だ。

 ボクが意外だったのは、今回のセレモニーで見かけた保存会メンバーが意外と若いことだった。イメージでは中年男性以上、あるいは戦争や国鉄に関係しているような年齢層なのかなと思っていた。しかし、20代くらいの若い人も少なくない。考えてみればタイの保存会メンバーも平均年齢は意外と若めではある。

 ボクが小学生のころはまだ「戦後」という言葉が巷にあふれていた。だから、戦争を知らない世代とはいえ、身近に戦争がまだあったのも事実だ。今の若者はなお戦争を知らない世代。そんな戦争時代の昔の機械を、戦争とは無縁な若い人が守っていく。なんだか人間の強さや、文化継承の意味を垣間見るような気分になる。館内に鳴り響いた汽笛の音は身体の芯を震わせるような深みがあった。

 実際の映像をここに載せておく。吹鳴は式典の半ばと最後に行われた。

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