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ゲストハウスで出会った変な人たち【2】自作小説を添削させるおっさん


 ふと思い出したので、タイや周辺諸国のゲストハウスで出会った変な人たちを書いていこうと思い。ただ、適当に思いだしたときに書くので、不定期連載的な記事として紹介していきたい。第2弾はかつての話というよりはわりと最近のことで、タイ南部の都市ハートヤイで出会った人だ。

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 タイ語読みではハートヤイだが、ガイドブックではハジャイとも書かれているかと思う。タイ南部のソンクラー県にある都市だが、県庁所在地というわけではない。しかし、マレーシアとの国境に近いこともあって、ソンクラー県では最も大きな街なのだとか。

 ボクが初めてこの街に来たのは、1999年だった。観光で訪れ、プーケットに行ったが雨がひどく、またビザの関係で一度外に出る必要が出てきて、ハートヤイに向かった。

 このときに泊まったのが「キャセイ・ゲストハウス」だ。ここにしたのには理由があって、前年にインドのバラナシカルカッタ(コルカタ)で会った人にこのゲストハウスのことを聞いていたからだ。そのころはまだ海外で携帯電話が使える時代ではなく、またネットカフェはギリギリあったものの、ウェブサイトがあまりなかった。そのため、旅人たちはみな口頭で情報を伝え合っていた。だからこそ、カオサンや、カルカッタならサダルストリートがバックパッカーの集まる場所になった。情報交換の場でもあった。そんなボクもその人からタイ縦断の話を聞いていて、ハートヤイの話だけ憶えていたのだ。

 そういった安宿街には日本人ばかりが泊まりに来る日本人宿が何軒かあった。そんな宿には、誰が始めたのか旅人ノートなるものがあって、自分が旅してきた場所の情報を書き記して行き、新米はそれを読み込んで次の場所の情報を収集した。

 当然ながら、旅人ノートはこの時代にはもうマッチしない。そのため、ほとんどの宿でこの手の情報ノートはなくなっている。99年はまだノート全盛で、キャセイにはそのノートがあるとインドで聞きつけ、ただそれが見たくて来た。実際、当時のことは宿の様子、陸路で国境を越えてマレーシアに入ったときのルートは憶えていても、ハートヤイのことはほとんど記憶にないくらいだ。

 そうして十数年の月日が流れ、2014年の8月、「タイ 裏の歩き方」の取材もあって、ハートヤイを訪れることになった。

 ちなみに、ハートヤイは深南部3県ではないので、爆弾テロは滅多に起こらない。また、深南部3県でもあっても、ジャーナリストの方に話を伺うには、テロのタイミングはパターン化しているので、それが読めるならば危険ではないのだとか。

 さて、2度目のハートヤイも泊まりはキャセイだ。先の画像はキャセイの入り口で、2014年に訪れたときのものだ。驚くほどなにも変わっていなかった。なにより、入り口横の旅行代理店がまだやっているのか、と。

 実は1999年の訪問時、帰りのチケットで騙されてしまった。カオサン行きのVIPバスがあると言われ、フルリクライニングができる大型バスの写真を見せられたので信じたら、来たのはトヨタのハイエースだ。集合先にVIPバスがあると言い、地方の旅行代理店では複数の場所から乗客をピックアップして出発点に行って乗り換えというのはよくある。だから、あまり疑わずに行ったら、結局そこにあったのは同じハイエースだった。さらに行き先はカオサンではなく、バンコクの南バスターミナルだった。当時はセントラル・ピンクラオに近かったので、カオサンへはそう遠くはなかったから不便ではなかったけれど、ならばカオサンまで行けよと思ったものだ。

 そんなのを寄越しておきながらまだやっているのか。詐欺旅行社が潰れないことに驚きである。

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 キャセイにチェックインする。階段で3階か4階まで上がる、古い建物だ。ただ、古い分、中は天井が高くて広い。このときはアゴダで予約していたのだが、1泊200バーツしないくらいだった。当時のレートでは600円くらいか。直で予約するともっと安かったらしい。それでも安いのだが、しかも個室だ。不安になるくらい古くて広い部屋が、である。

 99年と2014年で変わっていなかったのは、虫が多いことか。でかいゴキブリやクモが出たりした。幸い、南京虫はベッドにいなかったので、なんら問題はなかった。あとはトイレがタイ式だ。和式っぽい形状なのだが、なぜか高い位置にあるため、酔っ払って、あるいは濡れた便器で滑ったりでもすれば、後頭部を打ちつけるか首の骨を折って死ぬのではないかという仕様だ。

 荷物を部屋に置いて、ロビー兼食堂に座る。このときはサムイ島から乗り合いバンで来たので疲れていて仕事をする気がなく、ビールを頼んで飲み始めた。ボクは昼間にビールを飲むのが好きではない。夜、じっくりと飲むのが好きなのだ。

 そして、何気なく棚に目を向けて、ボクはひっくり返りそうになる。旅人ノートがまだあったのだ。さすがに書き込む人が少なくなり、ペースは遅いようだが、ぽつぽつと書き込みもある。また、99年にボクが読んだものも残っていた。なぜ憶えているのかというと、キャセイをインドで教えてくれた日本人が自分のキャラをいろいろなところに書き込んでいて、それを99年にこの旅人ノートで発見して懐かしく思ったことを憶えていたからだ。同じ絵がまだそこにあった。

 さて、本題の変な日本人にはこのときに出会った。

 キャセイは、というよりタイのゲストハウスに若い日本人はもうあまり来ないようだ。特にハートヤイの安宿になんて来やしない。ここに来る日本人は50アップのおじさんたちだ。この中ではボクが最も若いおじさんだが、大体昔のバックパッカー用語でいう沈没組か、マレーシアに住む人がちょっと遊びに来る感じのようだった。

 その中にいた、常連らしき、60歳は超えていると思しきクアラルンプール郊外に住む日本人だ。なにやら近づいてきていろいろと話したのだが、ボクがライターであることを知ると、読んでほしいものがあると、部屋に引き上げていった。

 そして戻ってきたその手にはノートパソコンがあり、おもむろに開いて、添削してほしいと言ってきた。ボクは編集者ではないし、駆け出しのライターだと言っても、プロに見てほしいと返ってくる。プロってほどでもないけれども。

 しかし、どんなものか見たくて、一応読んでみることにした。しかし、これがひどかった。

 自作の小説で、私小説のようなものだったと思う。彼自身はいろいろな国の人に自分の経験(確か母親か兄弟のことを中心に書いたと言っていたような)を見てほしいと。そこで彼が考えたのは、多言語で書くことだった。

 そうして、一部の単語や文章が英語だとかマレーシア語かインドネシア語、ときどき中国語になっていたのだが、これが読みづらいとかの以前の話だった。ところどころが外国語で、あとは日本語、というか地の文はほとんど日本語だが、その日本語も日記レベルで読み進めることが苦痛になる。

 それで3行だけ読んで、「こんなにひどいものはない。出版できるとかのレベルではない」と返したら、そうか、と部屋に引っ込んでいった。

 悪いことしたかなと思ったら、それを見ていた別の日本人のおじさんが、「あの人はああやって新しく来た人に小説を読んでもらって感想を聞いているんだよ」と言った。当然ながら酷な感想がほとんどみたいだが、それでもめげずにああやっているらしい。なにがしたいんだか。

 ただ、そのへこたれない根性は、実際、ライターに向いているんだけれども。

 この変な人の話はふとこの人のことを思い出したから始めようと思った。ただ、思い返してみたらキャセイの思い出の方が強くて。それで、1回目は殺人者になってしまったたっさんを紹介し、これを2回目に持ってきた。いろいろいて絞りきれないので、3回目はいつになるかな。

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