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パッポン2通りの思い出

 先日、本かネットで読んでいた記事に「かつてホストクラブの客は性風俗産業で働く女性が多く、ホストと傷を舐め合っている」という一文があった(気がする)。これが日本のホストクラブを指しているのでボクには真偽はわからないが、それは別として、その一文を見て思い出したことがある。最近のタイの夜遊びしか知らない人からするとかなりイメージが違うかもしれない、2000~2002年ごろの歓楽街パッポン2通りの話だ。

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 先に言っておくと、これはバンコク夜遊びそのものの話ではない。単にパッポン辺りで見聞きして来た地域やそこで働いていた人の話だ。古いことなので画像もない。

 パッポン通りはかつて有名だった歓楽街で、水着の女性がステージで踊るゴーゴーバーが多数軒を連ねていた通りだ。聞いた話ではパッポンというのはこの通りのオーナーの名前だとか。そのあたりの事実はわからないが、元々は普通にビジネス街だったらしい。1980年代前後にゴーゴーバーができ、いつの間にか歓楽街になっていたのだとか。

 パッポンというと、パッポン通りと東側で並行して走るパッポン2通りで形成される。パッポン通りがメインで、夕方から深夜までは通りは出店で埋め尽くされる。パッポン2はどちらかというとビアバーが中心になる通りで、観光客よりは欧米の在住者に人気のある店ばかりだ。

 パッポン通りのその出店は基本的にはボッタクリ価格で、2000年前後のゴーゴーバーも、ガイドブックでは安心と書かれていたキングス・グループでさえボッタクリ、不正会計の店しかなかった。たとえばキングス・グループでドリンクを1杯奢ってあげると必ず2杯でチェックされていたし、ちゃんとレシートの筒を見張っていないと勝手に伝票を突っ込まれて割り増しされた。

 今でもパッポンのボッタクリ店は2階にある店と言われ、それも事実ではある。しかし、実際には1階の店もボッタクリが著しかった。当時はシンハビールが80バーツで今の半額だったとはいえ、ひどいものだった。最近は多くのゴーゴーバーがドリンクを奢るときは伝票に客のサインを要求するが、これはキングス・グループ経営陣が評判の悪さを改善するために始めたものだ。

 現在、バンコクの夜遊びは最大でも深夜2時までが合法的な営業時間になっている。これは今のタイのゴタゴタの元凶でもあるタークシン・チナワット氏が首相在任時に厳しくしたためだ。業種によって違うが、ゴーゴーバーやビアバー、ディスコなどは深夜2時までと厳しく取り締まった。

 同時に営業スタイルもかなり厳しくなり、ゴーゴーバーでは水着着用が必須になった。それ以前はトップレスや全裸が一般的で、キングス・グループは女性の乳首に星のステッカーを貼って踊らせていた。また、ゴーゴーも3時4時までの営業はわりと普通だった。

 パッポン2のビアバーは24時間営業が大半だった。パッポン2のビアバーはビリヤード台が必ず置いてあって、客と従業員が延々と試合をしていたものだ。ボクはそのころタイ語学校に通っていた。パッポン通りのすぐ横だったのだが、中年フィンランド人の男性は学校が昼12時に終わるとパッポン2で飲んで帰っていたほどである。

 ちなみに、タイ人は手先が器用な人が多く、プールバー従業員は毎日毎日ビリヤードをしているので、並みの素人では勝てないほどうまかった。ハンデで片手だけとか後ろ向きでしか打たないとしてもらっても勝てないほどレベルが高かった。今もそのころから働いている女性はビリヤードの腕に自信のある白人男性をそそのかし、勝ったらタダで何回でもやらせてやるから負けたら3000バーツ(約1万円)出せという条件で勝負する。それで負けているところを見たことがない。

 パッポン2は近年は何軒かゴーゴーバーができているが、2000年ごろはスリウォン通りの角にあるピンクパンサーくらいだった。パッポン2の中央辺りに左右のビルに架かる橋があり、バンコク唯一と言われる橋の上のゴーゴーバーがある(まだある?)。この橋は元々24時間スーパーが入るビルが駐車場になっていて、もう一方のビルと結ぶ連絡橋だった。

 とはいえ、橋が丸々、通路になってはいなかった。橋の北側半分は美容院になっていた。この近辺で働く女の子がここで髪をセットしてから出勤するのだ。当時の女の子たちは、2~3日にいっぺん自宅で髪の毛を洗い、洗いざらしのまま店の近辺にある美容院に行き、髪をセットするというのが普通だった。こんなに暑くて埃っぽいバンコクに暮らしながら、数日に1回しか髪を洗わなかったのである。今はどうなのだろうか。

 さて、ここでやっと冒頭のホストの話になる。この連絡橋をビアバーなどが入る側(今のゴーゴーバーの入り口側)に渡る。この連絡橋が3階か4階にあって、その上のフロアがホストバーだった。規模がすごくて、ワンフロアまるっとぶち抜いたホストクラブだ。始業時間は不明だが、パッポンで仕事を終えた女の子がターゲットなので、明け方まで営業していた。

 日本のホストバーなどとはイメージが違い、足下も見えないくらい暗くて、スプリングが壊れているような安いソファー、正面にはスクリーンが貼られてカラオケが歌えるという店だった。つまり、タイ人向けバーの典型というか。内装は全然凝っていなかった。むしろあの時代からすれば、あれが都会的だったのかもしれないが。

 こんなボクでも当時はタイ語ができるというだけでモテたので、パッポンでもたくさんの女の子に声をかけてもらったものだ。そんな中にドラッグとホストにハマっている女の子もいた。タイの性風俗産業に従事する人は多くが貧困のためで、仕方なく働いている。今は遊ぶ金ほしさという子も増えてきているが、それでも家族のために働く子の方が多いだろう。2000年初頭は特にそういう子ばかりで、心のバランスが取れなくなって麻薬や浪費に走る子も少なくなかった。だから、ホストクラブに通っている子は、この世界に慣れきった年増よりも、案外、バンコクに来たばかりの寂しい若い子の方が多かった。

 そんなボクに声をかけてくる女の子も、結局ホストをやめられなくて、最終的にボクを同伴でホストクラブに行くという、今考えるとすごいことをしていた。ボクはボクでこんな世界があるのかと楽しんでいたけれども。タイ人向けの店なので、食事が結構おいしかったりするのもあったので、全然苦痛じゃなかった。

 さらに言うと、ホストたちのホスピタリティーがなかなかに高い。酔っ払った気の強いゴーゴー嬢を相手にするので、我々がゴーゴーバーで受ける彼女たちの接客なんかよりもずっとよかったりする。なんだかよくわからない日本人が来たけれども、ちゃんと気を遣って話を振ってくれたりなど、タイのホストもなかなか侮れない。だから、案外居心地はよかった。

 当時はラチャダー通りなどに朝まで営業している裏ディスコが何軒もあったし、ホストクラブも何軒かあった。その辺りもいくつか見てきたけれど、今、ああいう店はあるのだろうか。スクムビット通りのホストクラブには日本人ホストもいたし、当時はかなりむちゃくちゃな世界だった。今はだいぶ厳しくなっているので、ホストクラブもどうなっているのやら。聞いた話では、なぜか警察への賄賂などが一般的なバーの倍から3倍だそうで、経営は大変らしいし。

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