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なにもないようで歴史の詰まった王宮前広場「サナーム・ルアン」【バンコク】

 2016年を境にして、それ以前の王宮前広場「サナーム・ルアン」とそれ以後のこの場所を知る人では、たぶん持っているイメージが違うと思う。2016年10月に前国王が崩御して、1年後の国葬のためにすぐさま周辺が封鎖されて葬儀会場が建設された。今はその名残で地面は鋪装されているが、それ以前は土がむき出しのただの広場だった。深夜になれば周囲には売春婦が立つような、治安の悪い場所でもあった。

 ただ、これはボクのように90年代から2016年までに来た人の印象であり、さらにそれ以前にここを知る人もまた違ったイメージを持っているかと思う。一見なんてことのない、ただただ広い広場であるが、サナーム・ルアンは歴史の詰まった場所でもあるのだ。

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 サナーム・ルアンは1782年に現王朝であるチャクリー王朝がこの場所で成立したときからあるとされるが、当初はトゥン・プラメールという名称だった。これがラマ4世王の時代(ちなみに今はラマ10世王)の1855年に「トーン・サナーム・ルアン」に改名され、今に続いている。

 当初は国王や王族の葬儀の場所だったようだが、改名後は王室の様々な儀式に利用されるようになった。そして1977年から、タイ国内では登記上ではボーラーンサターン、つまり遺跡あるいは文化遺産的な扱いになっている。

 バンコクを観光したことがある人ならみんな知っている週末市「チャトチャック・ウィークエンドマーケット」。BTSモーチット駅前にあり、イメージとしてはバンコクの郊外寄りにある。

 多くの人が驚く事実がある。実はこのウィークエンドマーケットは当初、このサナーム・ルアンにあったのだ。第2次世界大戦後、終戦まで日本と同盟にあったタイは戦勝国側に入ったものの、国民の生活は貧しかった。その打開策として当時の首相ピブーンソンクラーム元帥が1948年に打ち出したのが、タイの各県で最低ひとつ、タラート・ナットを作る計画だった。

 タラート・ナットは常設ではない市場のことだ。特に開催日時が限定されている市場を指す。このときにできたバンコクの非常設市場が週末のみ開催の、サナーム・ルアンに設置されたウィークエンドマーケットだった。その後、ワット・ポー斜向かいのサーンロム公園など近隣を転々とし、1958年から1982年までサナーム・ルアンで続いていた。

 今のチャトチャックのように屋根などがあるわけではなく、当時はゴザを敷くなどの簡易的な市場だったと聞いている。だから、3月4月は地獄のような暑さだったとか。

 2021年でチャトチャックは移設開業から39年になる。しかし、その前の34年間ほどはサナーム・ルアンにあったのである。ただ、この広場は王室の儀式にも使うし、政治的混乱の際にはいろいろ起こる。最終的には周辺の渋滞悪化で1978年ごろから移転が検討され、1982年にタイ国鉄が名乗りを上げて、タイ国鉄所有のチャトチャック公園に移った。ちなみに、正式にチャトチャック・ウィークエンドマーケットという名称になったのは1987年からである。

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 このように90年代以前を知る人と、ボクのようにそれ以降に来た人でもまた印象が違う。70年代や80年代は隣にあるタマサート大学の学生を中心にした反政府デモなども頻繁に起こり、治安維持にやってきた軍による銃撃で多数の人が亡くなっている。

 上の画像はサナーム・ルアンの北側の頂点の辺りから撮影したものだ。これよりももうちょっと西寄りの木で撮影された画像は世界的に有名だ。1977年にニール・ウールビッチ(AP通信)が撮影した『バンコク路上の暴力(Strike Lifeless Body of Leftist Student)』で、この写真がピューリッツァー賞のニュース速報部門を受賞している。

 サナーム・ルアンの辺りは2000年代に入った今も続いている政治的な混乱において、デモ活動はだいたいこの辺りでスタートするという、よくわからない伝統もある。また、心霊ライターとしてはこの近辺はバンコク旧市街とされるラタナコーシン島内なので、霊的なネタも数多に見られる場所として注目している。要するに、なにか起こる要素がたっぷりある場所なのである。

 ボクが初めてタイに来たころは広場の周囲に柵もなく、夕方から人が出てきて凧あげに興じる人もいたし、凧の屋台もいくつか出ていた。観光客から金を巻き上げようという詐欺師もウジャウジャいた。深夜は周囲に売春婦が立ち、路上にはマッサージのおばちゃんがゴザを引いて客を待っていた。

 サナーム・ルアンは一見なにもないような場所ではあるが、タイの歴史や、タイ人の泥臭い部分がたくさんある(あった)場所なのだ。

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