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今敢えて「ノーマスク」を謳う人達

だんちゃんに引き続き、他地域の「ノーマスク」を売りにした飲食店が閉店する、という話がXで流れてきた。

彼らは自分の信条を貫けたことに満足しているのだろうか。
人の幸せにはいろんな形があるだけに、全く関わりのない私には何もいえない。

この「自分の信条を貫く」というのは、フラフラしてるよりずっとカッコよくみえるし、それで大きな仕事をやり遂げられた人々を我々は「偉人」と呼んでもいる。

ただ、往々にして偉人と凡人とは比べられないものだ。偉人達は、例えばPDCAサイクルが爆速で回っていたり、政治的に誰かを動かしていたりしているものだ。単に挫けないだけではない。

そこを無視して「挫けないのがカッコイイ」と真似をすると、何に挫けないのかという点を見誤る。

新型コロナの「ノーマスク・反ワクチン」を2024年でも唱えている人達は思っているだろう。「あの頃あんなにマスクしてワクチン接種してた奴らが、今すっかり『そんなことあった?』みたいな顔して闊歩している」と。

ビジネスでノーマスクやってた連中を除く、多くのノーマスクを唱えてきた人々には、既に多数の人々の中に紛れてしまった層と、今だ意固地に「自分の信条を貫く」層とに分かれているだろう。

かわいそうなことだが、たぶん後者の人々は非常に不器用なのだと思う。

雑に括るなら「場の空気に乗れてない」。
医療機関や病院によくかかる人、介護業界など医療が身近な世界の人々でない限り、なんとなくコロナ禍が終わった気がしている人は多くなっただろう。多数派の作る空気感が、コロナ禍モードからアフターモードに変わってしまったのだ。

「コロナ対策」があったからこそ存在感のあったノーマスク派は、今やその話を引っ張るほど「時代遅れの人」ということになる。

「私は最後まで媚びぬ(どや)」は自分や取り巻きが思うほど周囲からかっこよく見てもらえない。「こいつら何と戦っているんだ…」と引かれるだけだ。

多くの人は病院のような場所で「マスクしてください」といわれたらするし、そうでない場所ならやりたいようにやる。そこに信念をかけるほど関心がない。なんならマスクをすることへの妥当性は理解しているのだから、ノーマスク派が「安全管理上のリスク」であることは変わっていないとみるだろう。

いまだに「マスクがーコロワクがー」言っている人は、潮目が読めないほどに不器用なのだろう。不器用度合いが高いほど、決められたことに従うほうが失敗が少ない。でも彼らは選んだ決めごとが他人とずれているため、真っ直ぐ進むほど潮目から大きく外れていく。

彼らには「空気に踊らされてフラフラしやがって」という思いがあるだろうし、その見方が間違ってるとは私も思ってはいない。
ただ、「空気」もまた人が作ったものである以上、実はかなりの人が「空気」作りに積極的に加担しているし、明示的に宣言する必要もないと思っている。多数派とはそういうものだ。

宣言しないと理解が及ばない不器用な人はここに乗り遅れ、結果「時代遅れの人」になってしまう。世の中なかなか厳しいよね。

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