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少女は瓦礫の道をゆく 2.競馬場

 年末の競馬場前は、冷たい風が吹いているにもかかわらず大勢の人でごった返していた。
 見るからに風采の上がらない二人の男が、寒さに足踏みしながら入場待ちの列に並んでいる。
「相変わらずすごい人だな」黒っぽいジャンパーを着た男が言った。
「“アリマ良ければすべてよし”って言うだろ。みんなこの日に賭けてるわけよ」両手をパーカーのポケットに突っ込み、キャップをかぶった男が応じた。「まあ、ここでスっちまったら、正月も寂しく迎えることになるけどな」
「どうせはした金だ。持ってたってすぐ消えちまうさ」
 黒ジャンパーの男――坂巻忠彦は寒さに襟を立てながら言った。何いら月も散髪していない様子の頭髪、口には火の消えた煙草をくわえている。年齢は四十を少し過ぎたくらいのようだが、長い間うだつの上がらない生き方をしてきた証のように、目の下には暗い陰ができていた。
「その通り。せめてここで有効に使わないとな」
 キャップの男――小柴康範は脇に挟んだ競馬新聞を無造作に広げ、また閉じた。
「そういえば、お前、あっちのほうはどうなんだ?」
「あっちって何だよ」
「あれだよ。ほら、バンドのほうさ」
「ああ、そっちか」坂巻は面倒そうに顔をしかめた。「とんとご無沙汰だな」
「もうベースは弾いてないのか」
「ああ、弾いてない」
「もともとバンドをやるために会社をやめたんだろ」
「まあな」
「もったいないじゃないか。特技を持ってるんなら活かせよ」
 坂巻は一瞬面食らったような顔をしてから、すぐに不機嫌そうに言った。
「なに言ってんだ。俺がなんでこういう生活をしてるのかお前もわかってるだろ」
「まあ、おおよその事情はな」
「ならいまさらバンドの話なんて蒸し返すことないだろ。今日はおかしいぞお前」
「そうかな…。まあいいさ。ちょっとそう思っただけだ」
 小柴はそう言って“あちら”の方を見た。この男がまだ何か言いたいことがあるときの仕草だ。坂巻は小さく舌打ちをして言った。
「何なんだよ」
 小柴はひとしきりごった返す人の列を眺めてから坂巻の顔へ向き直った。
「最近ときどき思うんだけどよ、なんとなくお前はいつまでもこんなことやってないほうがいいような気がするんだ」
「へっ、どうした風の吹き回しだよ」
 坂巻は呆れたように肩をすぼめてみせた。小柴は手にした競馬新聞を丁寧に折り畳み、再び脇に挟んだ。
「まあなんて言うのかな、もともとお前はこういう世界で生きる奴じゃないってことさ」
「何だよそれは」
 坂巻は小柴を睨みつけ、苛立いらだちながらポケットを探った。煙草に火を点けたいのだが、どこで落としたのかライターが見つからない。
「そういうことは、俺が決めることだ。どういう世界で生きようが勝手だろ。余計なお世話ってやつだ」
「まあ、そうだろうけどよ」
「ベースだってもう持ってない。ずいぶん前に安値で売り払ったんだ」
「そうなのか?」小柴は意外な顔をした。「手癖がついてるから手放せないって言ってたろ」
「昔のことだ」坂巻は溜め息を吐いてまわりを見回した。
「じゃあ、もう音楽はやらないのか」
「そうだ」坂巻は不機嫌そうに火の点いていない煙草を投げ捨てた。「そういうことだ」
「そうか…」
 小柴は少し黙ってから、明るく声を出した。
「まあ、ちょっと気にかかってただけだ。気を悪くするな」
「もう悪くしたよ」坂巻はもう一度溜め息を吐いてから、パンパンと手を叩いた。「さ、気を取り直していこうぜ」
「だな。よし、パーッといくか~!」
 小柴も両手を大きく打った。場内に向かう列が動き始めていた。

 今年最後の重賞レースを目前に控えて、スタンドは異様な熱気に包まれていた。坂巻と小柴の二人はひしめき合う人だかりに揉まれながら、少しでもコースがよく見える場所へ移動しようとしていた。
「駄目だ、もう始まっちまう」小柴が背伸びしながら馬場の様子を窺う。「お前が煙草を吸いたいとか言い出すからこのザマだ」
「だからそれは謝ってるだろ」
「結局混んでて喫煙所にも行けなかったじゃないか」
「間に合うと思ったんだよ」
「お前はいつもそうだな。土壇場になるとグズグズして、結局やらず仕舞いだ」
「うるさいな、もういいじゃないか」
 坂巻は腹立たしげに頭を振った。相変わらず火の点いていない煙草をくわえている。
「しょうがない。このへんで見るか」
 小柴は移動するのを諦め、脇に挟んでいた競馬新聞を筒状に丸めた。
「ずいぶん昔の話だがよ」周囲のざわめきにかき消されそうな声で小柴が言う。「東京オリンピックの開会式のとき、国立競技場の入場者数は7万4千人だったってな」
「何だって? 聞こえないぞ」坂巻が怒鳴る。
「それが今ここに、10万以上の人間が来てるんだぞ。たかが競馬だってのによ」
「ああ、それで?」
「腹立たしくないか。まともにレースも見れやしねえ」
「へっ、俺たちだってその一部だろ。他の奴らにとっちゃ邪魔なろくでなしでしかねえよ」
「まあ、そうだけどよ」
 楽隊によるファンファーレが鳴り響いた。地鳴りのような歓声が湧き上がる。スタンドを埋めつくした観衆が丸めた競馬新聞を振りかざし、大声で一斉に叫ぶ。年の瀬に一攫千金を狙う者。ローンを早く返済して生活を楽にしたいと願う者。月々の小遣いを少しでも増やそうと懸命な者。いくら金があってもまだ足りないと巨額を馬券につぎ込む者。混沌と渦巻く夢と欲が、競馬場いっぱいに充満する。
「おぅし、いいぞ!」小柴も競馬新聞を振り回している。「この瞬間が一番好きなんだ」
「ハハッ、ろくでなしそのものだ」坂巻が火の点いていない煙草を投げ捨てて笑う。
〈各馬ゲートイン完了。出走しました!〉
 坂巻の耳に入れたイヤホンからラジオの実況が聞こえてくる。
〈おおっと、煽ったぁ! 8番ボールドリップが出遅れ!〉
 スタンドから落胆のどよめきが起こる。本命馬が出遅れたのだ。
「おら、行け。なにやってんだ!」小柴がひときわ大きな声で叫ぶ。
〈一番人気、芦毛の牝馬ボールドリップが大きく出遅れました。最後尾から追走する形。さあ、はたして巻き返せるか〉
 足音を響かせて馬群が正面スタンド前を通過する。本命の白い馬はまだ後ろだ。観衆の声援とも怒号ともつかぬ声が飛び交う。
〈残り600を通過。まもなく第4コーナーを回ります。最後の直線に入ったぁ!〉
 歓声が一挙に高まった。興奮する観客にもみくちゃにされながら小柴も坂巻も叫んでいる。
「よし、行け! いいぞ! 行けぇ!」
〈最後尾から芦毛が追い上げてきた。すごい差し脚だ。来た、来た。ボールドリップ、ボールドリップだ! ゴールイン!〉
 場内が割れんばかりの歓声に包まれた。出遅れた本命馬のまさかの逆転劇。10万人を超える人間の歓喜と失望が混ざり合い、風に馬券が舞い上がる。
〈最後尾からの奇跡の17頭抜き。驚異の末脚で期待に応えました、ボールドリップ! 本年度を締めくくるにふさわしい感動のレースでした!〉
 観客たちがざわざわと移動を始めた。巨大な生きもののようにひと塊になった人混みに揉まれながら、坂巻は不穏な気配を感じてイヤホンを外した。何か得体の知れないものが迫ってくる。
 ゴーッという音がどこか遠くから湧き上がってきた。観衆のどよめきにもかき消されることなく、有無を言わせぬ威圧感を伴って近づいてくる。
“あのときと一緒だ――”
 坂巻は両耳を掌で覆った。間近まで迫った音は、坂巻の体に触れるやワァーンという響きに変わって坂巻のまわりを回り出した。
 坂巻は必死でうずくまろうとした。だが、びっしりと寄せ合った人混みの中で立ったまま動くことができない。耳鳴りがし、脂汗が流れ落ちたが、苦痛を感じたまま立ち続けるしかなかった。喘ぐように息をしながら上を見上げると、上空に異様なものがあった。
 黒々とした雲――いや、それよりももっとまがまがしい暗い意思を秘めた塊のようなものが渦巻いていた。それがゆっくりと回りながら、さらに空の高いところへと上っていこうとしている。
“何だ、あれは――”
 坂巻は朦朧もうろうとする頭で懸命に考えようとした。だが、それが何であるのか、想像することすらできなかった。ただそこに、息も絶え絶えに立っているのが精一杯だった。

「アリマ良ければすべてよし、ってな。さぁ、一杯やりにいこうぜ」
 小柴が顔をほころばせながら言った。
「本命からの流しにしといてよかったぜ。これで正月も人並みに迎えられるな。お前はどうだったんだ?」
 坂巻は無言で馬券を小柴に渡した。まだ呼吸は乱れたままだった。
「なんだよ、また3連単かよ。狙い過ぎなんだよ、お前は」小柴は呆れた顔をして言った。「まあ、残念だったな。だが勝っても負けても飲むのがルールだ。一杯やろうぜ。おごるからな」
「ああ…」
「どうした、顔色が悪いぞ」
「いや、なんでもない」
 競馬場からの帰路、坂巻は商店街と交差する路地の向こうに奇妙な動きを感じた。何かの集団らしきものが素早いスピードで横切ってゆく。その様をぼうっと見ていて、坂巻ははっとした。
“馬だ――”
 馬群の一団が路地から広い通りへと軽やかに躍り出た。黒、白、栗毛、様々な色をした馬たちが足並みを揃えてアスファルトの上を駈けてゆく。
“あいつら、どこへ行くんだ――”
 坂巻は呆然とした足取りで馬たちの後を追った。
「おい、坂巻。どうした?」小柴の声が背後に遠く響く。
 やがて馬たちは足元からすうっと宙に浮き上がり、順繰りに空に駈け上がって行った。後ろを追っているのに、馬たちの顔がありありと目に浮かぶ。レース中の苦しそうに口を割った顔や鼻の穴を大きく開いて怒ったような顔ではなく、気持ちよさそうに、走ることそのものを楽しんでいるような顔。まるで笑っているかのように目を閉じ、馬によっては歯茎を突き出してあられもなく破顔しているようにさえ見える顔。そんなくつろぎに満ちた顔をした馬たちが空へと上ってゆく。あの異様にまがまがしい曇天ではなく、晴れやかに澄み渡った秋空のような空へ――。
「見ろよ。馬たちが上っていく…」
「何言ってんだ、お前」追いついた小柴が不思議そうに坂巻の顔を覗き込む。
「そうだ、お前たち…。それでいいんだ…」
 小柴は首をひねって言う。
「そんなに外したのがショックだったのか。やっぱりお前には競馬は向いてないのかもしれないな」
 坂巻はそんな小柴の声も耳に入らないかのように、空の彼方へ消えてゆく馬たちの姿を追い続けた。

(つづく)

Photo by Chris Kendall on Unsplash

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