『やがて海へと届く』を読んで
自分にとって身近な存在の人間がある日いきなりこの世からいなくなったら……
『死ぬ』と『この世からいなくなる』の違いは、遺体が『ある』か『ない』かの違いになるんだろうか。
自然災害などで行方不明者が出たとき、「遺体でもいいから見つかってほしい」と残された家族が答える場面をよく目にする。遺体が見つかった瞬間、その人が死んだことを認識し、きっと自分の心の中での別離が完了するのだろう。
人間と動物を同じレベルにおいては顰蹙を買うかもしれないが、僕が中学生の時に飼っていた犬が僕の不手際で逃げてしまい、そのまま二度と戻ってくることはなかった。その日から数週間一生懸命に探したが見つかることがなかった。「どこかで元気にやっていてくれたらいいな、新しい素敵な飼い主に出会えるといいな」というような気持ちが後悔とともに頭を離れることがなかった。
大学生になってまた犬を飼うことになった。この犬は16年間生き、僕は最期を看取ることができた。この犬と遊んだり、話しかけたり、散歩に行ったり、エサをあげたりしているときには、生物学的には不可能なはずではあるが「もしあの犬が今も生きていたら……」と思うことが何度もあった。
この犬の最期を看取った後、あの犬のことを思い出す頻度がそれまでよりずっと少なくなっていった。そして看取ったこの犬のことを思い出す頻度も、この犬が生きていた時にあの犬のことを思い出すよりずっと少ない。
自分勝手なのかもしれないが、遺体があることで完全な別離ととらえることができ、自分は自分を納得させようとする。また誰かに対する説得の材料とすることもできる。
でも遺体がないなら、どこかで自分はその現実にすがってしまい、自分の心の中の『その人』を成仏させられないでいる。自分の中でも「生きている可能性はゼロに限りなく近い」と思いながらも、その一方で終戦後数十年を経て戻ってきた日本兵の話や数年ぶりに行方不明だった友人や家族やペットに出会えたドキュメントに自分を重ね合わせて、別離を拒み『その人』と自分をつなぎとめようとするもう一人の自分がいる。
そして「その人が帰ってくるかもしれないから」という思いが、自分を新たな変化から遠ざけてしまう……
この本の主人公、湖谷真奈も東日本大震災で親友のすみれが行方不明になり、自分の中の『すみれ』を手放すことができず新しく変化できずにいる。自分が変化できないまま、彼女を取り巻く環境~職場、すみれの元カレ、すみれの遺族~がどんどん変化していく。
物語の終盤あたりで手放すことができ、今までとは少し違った自分の人生を歩み始めることができるのだが、そのきっかけはものすごく平凡なものだった。一言でいうと「俗っぽく、平凡でつまらないもの」なのだが、それは人それぞれであり、そういったもので人は変われるのだと新しい価値観を得た気持ちになった。
でもそのきっかけを俗っぽく、平凡でつまらないと思う僕は真奈と同じ状況にいたら、たぶんずっと忘れられずその喪失感や悲しみからの脱皮ができず、幼体のまま死んでしまうかもしれないだろう。
少しネタバレになってしまうかもしれないが、この本は奇数章と偶数章で物語の視点や場面が変わる。偶数章を読んでいると妙に生々しく物悲しい不思議の国のアリスを読んでいるような気分になる。偶数章が章を重ねるごとに、ぼんやりとした、でもはっきりとした光景が脳裏に展開される。そして物悲しさと恐怖と諦念が、じわじわと浸水する水のように、心に湧き出て足元一面を覆ってしまう。それは最後の偶数章を読んでもそれは変わらない。
でもいい小説に巡り合ったな、と思う。これをアニメ映画で見てみたいとも思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?