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JR全線完乗の旅/第56回播但線/2023年6月4日


姫路お休み便。今回は播但線を選択。元兵庫県民ながら、沿線の竹田城跡や生野銀山を訪問する機会がなかったので、とても楽しみに旅立ちました。

■姫路駅「特急はまかぜ」キハ189系

大阪発で山陽本線から乗り入れる、播但線唯一の優等列車です。1975年の山陽新幹線博多開業で、実家の明石を通過する昼行特急は「はまかぜ」を残して全廃。小学生が日頃見ることができる唯一の憧れの特急列車でもありました。

■播但線(姫路〜寺前)103系

国鉄型通勤電車の代表格103系は、2022年3月に奈良線から、そして今年の3月には和田岬線から撤退。残るは播但線・加古川線・筑肥線だけです。

播但線の電化区間は寺前駅まで。構内には多くの103系が停車中。電車だけでなく気動車も留置されていました。

■寺前駅/観光列車「うみやまむすび」キハ40形

中でもひときわ目を引く気動車は、北近畿の主要観光地「城崎温泉」「天橋立」「竹田城跡」を結ぶ観光列車「うみやまむすび」です。

■寺前駅/播但線キハ41形

さらには、片運転台のキハ47形に運転台を増設して両運転台とした珍しい車両も。特徴のある切妻形の顔は、播但線でしか見ることができません。

■播但線(寺前〜竹田)キハ40形

国鉄型電車から国鉄型気動車に乗り換えて、竹田城跡の近い竹田駅を目指します。

竹田駅では竹田城跡を一躍有名にした「雲海に浮かぶ天空の城」の看板がお出迎え。

駅からすぐに駅裏登山道があります。しかし、竹田城跡の標高は353mで、山道を徒歩約40分かかるそうです。

駅前から山頂近くまでは、周遊路線バス「天空バス」が運行。マイカーも途中から一般車両乗り入れ禁止で、この可愛いバスのお世話になります。私も徒歩ではなくバスを選択しました。

バスの終点から遊歩道を徒歩20分で入口の料金所に到着。パンフレットをいただいて、城攻めの構想を練ります。

山頂の天守台から尾根伝いの三方に、石垣で区切られた「曲輪(くるわ)」が連なります。その規模は南北400m東西100mにも及び、廃城から約400年を経てもなお、石垣がほぼそのままの状態で残っています。

まず石段を登って北側に広がる「北千畳」に入ります。立派な石垣の先に広がる景色は…。

眼下に広がる谷筋は日本海に注ぐ円山川によるもので、下流部の和田山方面を俯瞰しています。播磨地方から続く但馬街道は、この先の和田山で山陰街道と繋がります。

北側の「二の丸」から南側に連なる「南二の丸」と「南千畳」を撮影。同じ標高なので階段状の石垣がわかりやすく写ってます。

「本丸」から最高所の「天守台」へ。

天守の建物については、何も記録が残っていないそうです。眼下には竹田の町が広がり、正面に見える朝来山の中腹は桜の名所「立雲峡」となります。この立雲峡から、雲海に浮かぶ竹田城跡を見ることができます。

「本丸」から「南二の丸」さらに「南千畳」を望む。その先の谷筋は円山川の上流部で、沿うように走る但馬街道と播但線は、この先の生野峠の分水嶺を経て、今度は瀬戸内海に注ぐ市川に沿って姫路を目指します。

逆に「南千畳」から「南二の丸」の石垣と、その先にひときわ高い「天守台」を見上げます。

北と南の両翼をじっくり見て「二の丸」に戻ってきました。竹田城の美しい石垣は、「穴太(あのう)積み」で築かれています。織田信長による安土城築城の際に活躍した、滋賀県大津市坂本町穴太に住む「穴太衆」の技術です。

「三の丸」から見た竹田城下町です。竹田城は築城の経緯は不明ですが、室町時代から記録が残っています。但馬・播磨・丹波の国境に近い交通の要衝で、それぞれの防御や攻撃の拠点の役割が考えられます。

その後、安土桃山時代の豊臣期に豊臣方の城主によって、総石垣のお城に大改修されました。その目的は豊臣氏の収入源であった「生野銀山」を守るためとの考え方があるそうです。江戸時代になり廃城となりましたが、現存する石垣の遺構は全国屈指のもので、「日本100名城」に選定されました。

次はその生野銀山へと思いましたが、時間を忘れて城跡を歩き回った結果、竹田駅には本来乗車予定だった列車が入線中です。実はメインに考えていた生野銀山ですが、訪問する時間は残されていませんでした。

最後に絵葉書の雲海の写真です。秋から冬にかけての早朝、無風の晴天で放射冷却が強いと雲海は発生します。仕事でトラックを走らせている時、地元島根県の山陰道からの斐川平野や、岡山道からの吉備高原で、雲海の上から美しい景色に遭遇することがあります。

麓の竹田駅に戻ってきました。竹田城跡は駅から少し離れると、山頂に少し石垣が見えてきます。

白壁の蔵と見間違えるような重厚な造りの竹田駅舎です。近年の竹田城跡の人気で建て替えられたと思いきや、明治39年の播但線が開通当初の竣工と知り驚きました。

■播但線(竹田〜和田山)キハ40形

竹田駅から一駅で、播但線は終点の和田山駅に至ります。和田山は山陰本線の京都方面や豊岡方面と、姫路方面を結ぶ交通の要衝。一方、竹田城も但馬国の拠点として、丹波国や播磨国に睨みを利かす位置にあります。旅と鉄道のコラボが嬉しいです。

■和田山駅/山陰本線223系5500番台
■和田山駅/山陰本線113系5300番台

まだまだ緑の地域色をまとった国鉄型電車が活躍しています。

■和田山駅「特急こうのとり」289系

和田山駅の奥に、レンガ造りの機関庫が見えます。旧豊岡機関区和田山支区の建物です。1991年まで機関車の点検修理で現役でしたが、現在は老巧化で立入禁止だそうです。悲運のディーゼル機関車DD54は、ここで修理されていたのでしょうか。

【画像は京都鉄道博物館Facebookより】

1966年運用開始のDD54形ディーゼル機関車は、エンジンなど主要機器に当時の西ドイツの技術が用いられ、外観もヨーロッパ風で人気がありました。寝台特急出雲の牽引機として山陰本線で活躍したこともありますが、度重なる故障で10数年の短期間で廃止となりました。最後の活躍の場がこの播但線で、小学生の頃は播但線と言えばDD54でした。

姫路までの帰り道、乗車したキハ40は生野峠に差し掛かると、極端にスピードが落ちて歩くように登って行きます。この坂がDD54にとって負担だったのかと思い、和田山の機関庫で修理される姿を想像しながら、唸るエンジン音を聞いていました。

《播但線の思い出》

これで播但線を完乗しましたが、前回播但線を走破したのは、1995年1月下旬になります。当時は前職の大阪支社に勤務しており、明石から通勤していました。阪神淡路大震災による東海道本線の不通で、通勤は困難を極めます。

朝は比較的早く開通した神戸までは列車。そこから神戸港と大阪港の間は臨時船。出社したその日は京都に1泊して、翌日の夜に大阪発で福知山線・山陰本線・播但線経由の姫路行臨時快速で帰宅しました。その後は神戸〜芦屋間に代行バスが運行開始となりましたが、忘れられない思い出です。

播但線
(姫路〜和田山)
65.7km
今回乗車 65.7km
【通算】 11026.2km


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