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【中薬を故事で学ぶ】 大蒜の故事 〜張騫の命を救った萌草〜

紀元前139年、中国の漢の使節として、張騫(ちょうけん)は多くの贈り物と100人以上の隊を率いて西域に向かいました。彼らは過酷な旅を続け、ついに匈奴の地に入りました。しかし、新しい土地の気候や食事に慣れない彼らは、次第に体調を崩しました。そして、匈奴に捕らえられた彼らは、毒入りの食事を与えられ、多くの人が浮腫という病気を患い、張騫も重病になりました。

彼らは苦痛に耐えながらも、張騫は使命を果たすことを忘れず、涙ながらに仲間たちに語りかけました。「我々は堂々たる男子であり、漢の国への約束を破るわけにはいかない!必ず生き延びて、漢のために尽くそう!」と。

張騫は仲間たちと共に、生き延びるために食べられるものを探し始めました。すると、建物の後ろに「萌草」と呼ばれる野草を見つけました。地元の人々はその野草を食べる習慣がありましたが、張騫たちは初めて見るもので、食べられるかどうかわかりませんでした。飢えに苦しむ彼らは、試しに食べてみることにしました。

やがて解放された張騫は、命を救ってくれた萌草を持ち帰り、どこへ行くにもそれを持っていくようになりました。彼は萌草が自分たちの命を救ったと感じ、いつでもそれを食べることで満腹感を得ることができました。

しかし、北方の寒い気候では萌草は育ちにくく、持ち帰った萌草は小さく品質も良くありませんでした。それでも、張騫が持ち帰った少量の萌草は非常に貴重とされ、皇帝にだけ供される宝物となりました。

ある日、許皇后が萌草を使った冷菜を食べ、大絶賛しました。その後、許皇后の親戚の許二が宮廷を訪れた際、彼女は萌草を彼に渡し、「故郷の人々にこの宝物を味わわせよ」と命じました。

故郷の人々はこの貴重な萌草を供え、やがてその萌草から芽が生えるのを発見しました。許二は「この萌草が我々の家で根を下ろし、芽を出すことを望んでいる」と感じ、萌草を植え始めました。彼の丁寧な育成の下、新しく栽培された萌草は非常に大きくなりました。

許二はその萌草を許皇后に贈り、「私の食べていた萌草より味が良い!」と言わせました。侍従にその名前を尋ねられた許二はとっさに「蒜(ニンニク)です」と答えました。その後、許皇后は萌草を「大蒜」として冊封(位を授けてある土地に封ずること)しました。

おしまい


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