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物欲を抑えるには

はじめに

ミニマリストを志向してからというもの、自分の「物欲」と向き合う時間が増えたように思う。私は大学で軽音楽サークルに所属しており、ギターを弾いている。そのため、サークルのメンバーが新しい機材を買うたびに「自分も欲しい」という欲求に駆られていた。現在は、「あったら良いは、なくても問題ない」という信条のもと、ギター用品に限らず物欲をコントロールできていると考える。
そこで本noteでは「ミニマリストへの道」と題して、私なりの暮らしのミニマル化に関する考えを綴ってみたい。おそらく、シリーズ化していくつか投稿する予定である。

欲との向き合い方

物欲、食欲、睡眠欲、性欲… 

我々は、あらゆる「欲」に取り囲まれた生活をしている。特に物欲については、インターネットや物流の発達により、かつてないほど刺激されているのではないか。高度経済成長期に生まれた「横並び消費」が失速したのち、今度は「個性を出すための消費」が善とされるなど、次から次へと新たな「物欲」が生まれているといえる。物質的な欲求のみならず、マズローのいう「承認欲求」「自己実現への欲求」など、非物質的なものへの指向性は、特に近現代に特徴的な欲のあり方であろう。

物欲のしぶとさ

「欲」そのものは、善でも悪でもない。生物が進化していく中で、生き残りに有利であったのかもしれないし、また知識欲、利便性の向上を求める欲求などで生まれたインターネット、PC、スマホなどを、我々は存分に活用している。このnoteも、そうした欲求の産物を駆使しなければ作ることさえできない。

物欲が厄介な存在なのは、そのしぶとさによる部分が大きいだろう。いくら新しいもの・より良い暮らしを求めて何かを手に入れたところで、手に入れた瞬間にそれは陳腐化する。「これで最後」と思っていたのも束の間、すぐ別のものに気を取られてしまうのだ。「飽くなき向上心」といってしまえば聞こえは良いが、果たして本当にそうだろうか。

物欲を超えて

昨年、とある授業で「フェティシズム」という概念について学んだ。「呪物崇拝」と訳される単語で、「(西洋人にとって)役に立たないもの、訳のわからないもの(=石や棒切れなど)」を崇め、神聖視する「未開社会」の人々の様子を描写する概念である。
ところで、私たちが価値あると思い込んでいる「最新」「最高品質」の商品も、それを追い求める私たちの物欲も、「フェティッシュ」とは言えないだろうか。

つまり、物欲やその対象は、時と場合によって変化する、極めて相対的なものだということだ。
また、時間を置けばそれが単に「フェティッシュである」と感じられるようになる、というのは、社会や文化を隔てずとも、自分の中でも生じうる。このように考えると、自分の物欲を一歩引いた目線で捉え、「今、自分はこれを欲しいと思っているが、1分後の自分、1時間後の自分、1日後の自分は、これを魅力的に思うだろうか」といった態度が必要になってくるだろう。

終わりに

物欲のコントロールは、そう簡単にうまくいくものではない。だが、学生はその点ラッキーな存在でもある。アルバイトの収入も高が知れているし、ローンを組んだりするだけの、金融機関からの信用もない(もちろん、例外の人もいるが)。
「お金に不自由している」という状況を逆手に取り、「今あるだけのお金で満足できる方法を探す」「不足を楽しむ」工夫をすることで、就職後もミニマルに、満足度の高い生活を送ることができるのではないだろうか。

学生は、もしかしたらミニマリストに一番近い存在なのかもしれないのだ。

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