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No11-Japanese映画レビュー/パンズ・ラビリンス

 どうもtaka4です。今週もまたエッセイのようなものを書かせていただきたいと思います。
今週の金曜日に、学校のクラス分けテストがありました。大体、1ヶ月半に一回のペースで実施していて、これにパスするとより高いレベルのクラスに入れるというものです。結果はまだ分かりませんが、パスできていれば良いなあと思います。
 思えば、アメリカに来てもう3ヶ月が経ちました。英語のレベルは多分上がっていると思うのですが、結局それをどう活かすかのかは全然決まっていない状況です。というか、日本に帰ったら永久に使わなくて、履歴書の端っこに「アメリカへの留学経験アリ」と書けるだけの経験になってしまうのかもしれません。仲の良い友達は自分の国に戻って仕事を続けたり、こちらに留まってMBAの取得を目指していたりなどです。みんなどこかしら帰る場所や、行きたい場所がある中、何も望む未来がないことは少々不安になったりします。29歳の無軌道人生には希望があるのか、それとも無いのか。

ネタバレあり。あらすじは省きます。


 暗い話はこれぐらいにして、映画レビューを書きたいと思います。俺自身、あんまり映画レビューを書いたことがないので、勝手は分からないのですがとりあえずチャレンジしたいと思います。
 金曜日、クラス分けテストが終わった後、ギレルモデルトロ監督の「パンズ・ラビリンス」を見ました。2006年の映画で少々古いのですが、なぜ今見たのかというと先週授業で映画を扱う時がありまして、その時に紹介されたものの一つだったのです。あらすじなども全然聞いてなくて、映画を見た友達からも、少なくとも子供向けじゃない、恐ろしいファンタジーという評価だけを聞いていました。同監督の映画は「パシフィック・リム」と「シェイプオブウォーター」しか見たことがありませんでしたし、二つとも印象の違うこの映画なのでストーリは想像できませんでした。
 結論から言うと、面白い映画でした。正直、スペイン内戦後の時代背景とかはそんなに重要なじゃ無い感じがして、もっと単純に性差や、権力、そして子供の視点が入り混じっていて、悲しいけれど大きなテーマを持った映画だったと思います。特に性差についての描写は面白かったと思います。と言いますのも、悪役である独裁政権側の兵士だけでなく、ゲリラ側の男性も同様に愚かしい描かれ方をしていたと思うからです(ドクター以外)。印象的なシーンとしては鉄道(配給用の物資を積んでいる?)を攻撃しておきながら、ゲリラが何も奪わなかったシーンです。彼らにとって攻撃して「一泡吹かせる」ことこそが重要で、生きるために物資を手に入れようという気はサラサラない、つまり彼らの目的は他人を傷つけることでしかない。一方で、メルセデスは屈辱的な立場に置かれても食べ物を扱い、必要な物資を手に入れてゲリラを助けようとしている。あるいは、食物蔵の鍵を巡るシーンでのビダル大尉とメルセデスの対比も面白いです。ビダルは偉そうに振る舞っているくせに、メルセデスに聞かなければどの鍵が正しい鍵なのかも分からない。また、彼は自分の部隊が今何人なのかも部下に聞かなければ分からず、正確な人数を知って初めて自分達の分が悪いことに気づく。その癖、自分達はこの土地で生きていくとか言っています。
 つまり、支配者ぶっていても結局ビダルは命令するだけで家のことを何も知らず、本当の意味で家で何が起きているのかを知っているのはメルセデスの方という描かれ方がされていたのだと思います。そして、そのどちらにも属さない子供の視点としてオフェリアの視点がある。大人は彼女を基本シカトするし、彼女の言うことを取り合おうとしない。しかし、彼女はきちんと自分の周りを見ていて、メルセデスがゲリラを助けていることを見抜いていたし、今自分の周りだけで無く世の中自体がひどい状況であることを知っています。そして、ゲリラと独裁政権との戦いと並行して、地下にある幸福な王国の王女を目指して試練に臨む。

 こう言った感じで面白い映画だったのですが、一方で引っかかってしまうこともあります。それは何かというと、オフェリアの経験するファンタジーと、現実の彼女の状況がどう繋がっているのかなという点です。
 どういうことかというと、この映画を最後まで見ると分かるのですが、どうもパンも試練も全てオフェリアの妄想だった可能性があると思うのです。基本的にファンタジーの世界に触れるのはオフェリアだけな上、時に大人がファンタジーに触れているオフェリアを見ても、彼らにはそれがオフェリアが幼稚な遊びをやっているようにしか見えません。例えば、ベッドの下のマンドラゴラが見つかってしまうシーンでは、最終的に暖炉で焼かれたマンドラゴラが叫び声を上げますが、カルメン(オフェリアの母)はそれに気付きません。また、クライマックスでビダルがオフェリアから赤ん坊を奪い取るシーンでも、彼にはパンが見えていませんでした。パンが最後にオフェリアの弟に評して言った「あなたの母親を殺して生まれた子供だぞ」というのは、もしかしたらオフェリア自身の気持ちだったのかもしれません。
 と言ってもその辺は微妙で、特にビダルにパンが見えないシーンではパンが帰ろうとしていたのと、ビダル自身睡眠薬か何かをオフェリアに盛られて意識がハッキリしていなかったという要因もあります。思うに、パンの言う国が本当にあったのか、それとも無かったのか、それは視聴者にも分からないという、ただ有無に関わらず子供にだけ見える世界はあるというのが正しい見方な気がします。
 仮に全てがオフェリアの妄想であった場合、パンも妖精も大ガエルもペイルマンも、その他の魔法の道具もすべて存在せず(マンドラゴラはその辺にあった植物、チョークはただのチョーク)、オフェリアが考え出したものということになります。何故、そんな妄想をするのかと言えば、勿論今自分が強いられている現実から逃避するためです。これは別におかしいことでもなんでもないと思います。何故なら、オフェリアの置かれた環境は彼女にとって惨憺たるものであるにも関わらず、彼女には抵抗もそこから出ていくこともできないのですから。ただ、その妄想は完全に現実から切り離されて独立している。それなら、どういう妄想なら現実と繋がっているのかというと、例えばビダルの外見をした怪物を倒すとかが、そう言うものにあたるのかなと思います。
 もしもこの通りに映画が作られたのであれば、大事なのはオフェリアが逃げ込める妄想であるという部分だけなので、それ以外は試練の内容にしろ、怪物の設定にしろ全てが自由な訳です。言ってしまえば全てが、製作者側の趣味で作れてしまう。最初に書かせていただいた、オフェリアの経験するファンタジーと、現実の彼女の状況がどう繋がっているのかなというのはそういうことです。一方でパンズ・ラビリンスのプロットがある中で、他方でそれとは全く関係なく趣味で怪物がデザインされる。多かれ少なかれ、どんな制作物にも必然性だけでは捉えられない、作者の趣味のようなものがあると思いますので、もしかしたら一々目クジラ立てるようなことでは無いのかもしれません。しかし、この映画に関しては明らかにストーリーの重心は悲惨な現実の方にあるにも関わらず、パンやペイルマンのイメージが強く前に出過ぎている気がするので、単純に製作者の趣味部分では素通りできないところがありました。ファンタジー側の設定がすごく良いのも、この剥離を余計に際立たせているような気がしました。あるいは、現実とは全く関係ない、色々なおとぎ話から引っ張ってきたファンタジー設定の中に逃げ込むというのは、読書好きの子供らしい描写だという考え方もできるかもしれません。
 実は「シェイプオブウォーター」を昔見た時も同じようなことを考えました。シェイプオブウォーターのプロットもパンズ・ラビリンスに似たところがあって、敵として偉そうで成功した強権的な男がいて(しかも、この男は男で、自分より上の立場の人間の強権に悩まされている。これもビダルと同じ)、迫害されるマイノリティーたちがいて、その中の一人がファンタジーな存在と触れ合う。このファンタジーな存在がシェイプオブウォーターだと半魚人に当たると思うのですが、やはりこの半魚人の部分が独立している。ファンタジーな存在であれば、半魚人だろうと宇宙人だろうと、異世界人だろうとプロット上では構わないように見えるのですが、その割に半魚人の設定が作り込まれている。これがターザンなら、ジェーンがゴリラに育てられた男と交流するのは、ある程度必然性があると思います。なんと言っても、ジェーンはゴリラの研究者であり、研究のためにジャングルを訪れたのですから。しかし、イライザ(シェイプオブウォーターのヒロイン)は清掃員です。要するに、ここでもプロットとは無関係な趣味が独立しているように感じてしまいました。
 
 感想としては、パンズ・ラビリンスは面白かったと思いますが、シェイプオブウォーターと同じで現実の悲惨さの描写と、ファンタジーが剥離している気がしました。「パシフィック・リム」ではプロットと趣味が見事にマッチしていると思うのですが、こちらはこちらで現実(の悲惨さ)が無い。そんな風に感じます。

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