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白村江の戦いからの倭人伝と鞠智城址

ネット社会が形成され、文字解説を手に入れ易くなってありがたい。
ググるという言葉が生まれたのだ。
凄い革命的な出来事だと、私は思っています。
それ以前は、「百科事典、辞書を引く」しか無かった。
でも「ヒャクル」とか「ジショル」とは言わなかった?
早速、ググることに(^^)

「白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)は、663年10月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)での百済・日本連合軍と、唐・新羅連合軍とが交わした戦争のこと。」

ナルホド!
日本史か世界史の教科書に載っていたに違いないと思うけれど、私は歴史音痴だった為、記憶には残っていません。

「白村江の戦い」を知ったのは、実はもうちょっと厄介な経緯がありました。

鞠智城址公園

私たちは10数年前に、義父の介護をする為に菊池市へ越してきました。
ある日、菊池市郊外をドライブしました。
ゆるい山道をクネクネ走っていると、突然、目の前に奇妙な塔が出現したのです。
私は、そのインパクトに言葉を失くしたのを覚えています。
結構、大きいのです。

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菊池市と山鹿市の境付近に発見された山城?
「八角形の鼓楼」が建つ姿は何とも見慣れない光景で、否応無く興味のアンテナが伸びるし、知りたくなります。
コレは何ですか?
ググり、ググってゆくと、新たな疑問が浮かびます。
興味の力っていうのは凄いものですね。

いったい何時、誰が、どうして何の為に?こんな山の中に?作ったのか?
5w2H的な疑問が湧かずにはおられなかった。
歴史音痴な私をして「暦爺」になりそうでございますよ(^^)

聖徳太子様が始められた遣隋使制度は、何時しか遣唐使と名を変えるのですが、学生の頃には「似たようなもんだから何でもいいんじゃねぇ」的な興味無き選択科目外のこと。
中国は隋から唐に変わったのかあ!と、今更ながらの発見であります。

朝鮮半島の三国名は覚えておりました。
高句麗、新羅、百済です。(^^)
日本は「倭国」と呼ばれていた様子。
中国は国取り物語の最盛期で隋を倒して唐になり次は高句麗に襲いかかろう!としていた!
三国も又、力の限りを尽くして国取り物語中です。

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さて、倭国はどうだったのか?
倭国は地方に人々が寄り集まってクニが出来始めていた様子。弥生時代後期にはクニが始まっていたようです。佐賀の吉野ヶ里環濠集落跡がありますよねぇ。行ったことありますよ。

ココ菊池山鹿辺りにも三カ所の環濠集落跡があります!ʕʘ‿ʘʔ
かなり賑やかな土地に成っていた。らしい!

そうなると、川を使って水運が始まり、海運が育ちます。「海の向こうには何があるんだろう?」男のロマン心に火が付いてしまう。
倭人は百済と縁が出来て交流が始まった。友好関係が深かったらしい。

さて、唐は高句麗を治め、新羅に援助し百済を撃ち落とし新羅を手中に入れようと企てた。
上手いやり方ではあります!

百済は好戦的な国ではなくて、新羅から何度も何度もやられて滅んでは倭国を頼って復興します。

やっと建て直したところを、とうとう唐・新羅連合に攻めらた。
…白村江の戦い… 
百済・倭国連合は敗北します。
百済の王族や民を倭国に避難させる事に。

慌てたのは当時の大和朝廷でした。
直ぐにでも唐が攻めて来はしないかと大騒ぎ。
それで太宰府政庁を置くことになる。
博多側からの攻撃に備えて太宰府の周囲には水城を設けた。
水城が攻め落ちた際の避難に山城の大野城を建設した。
一方で、有明海側からのルートも考慮して基肄城(現基山)を建設し侵入に備えた。
更に、籠城の際を考慮して資材や食料保管庫として用意したのが「鞠智城」であります!この三城以外にも対馬、広島、四国に数カ所の山城を設けている。

興味深いのは、これら山城は百済の民が協力して建設されたと云うこと。
それであの八角鼓楼が…建てられた訳であります。(^^)

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★復元された校倉造の倉庫

663年白村江の戦いの影響により、福岡から熊本に及ぶエリアには、千三百年を経て今も城址と地名が残っている。

どうです?鞠智城址公園のルーツって、凄くないですか?





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