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枯れ寂びライカ Japan

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ネットで遊んでいたら、ロマネ・コンティ1億2千万で売り出されていた。その高額に腰を抜かした。さらに、1945年生れでなんと71年もの。これで腰がくだけた。
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#津軽

ロマネ・コンティ1945

ネットで遊んでいたら、 ロマネ・コンティが1億2千万で売り出されていた。 その高額に腰を抜かした。 さらに、1945年生れでなんと71年もの。 これで腰がくだけた。 世界大戦が終わった1945年、稀なる好天気でぶどうの出来は最高。 空前絶後の当たり年にロマネ・コンティは、たったの600本。 そのなかで、いま1億円ほどの3リットルボトルは2本だけ作られ、 その1本が妖怪のごとく日本に現われた。 「わいんばー・ギンザ」。 銀座コリドー街で営んで開業35年、ワインバーの草分けだ

太宰治の遺書

これが小学生の書いた作文なのか 文字、内容とも子供がつづったと思えない これこそ、持って生まれた文才なのだろう 太宰治が幼いころ鉛筆で書いた生原稿 青森でたまたま目にして驚きで声もでなかった 太宰は原稿を好んで毛筆で書いたといわれる 弘前出身で太宰の自伝を書いた 長部日出雄『辻音楽師の唄-もう一つの太宰治伝』によると 太宰の原稿を手にした古谷綱武は 和紙にすこしかすれるような墨づかいで書かれた きれいな筆の字におどろき さらにその内容に興奮 無名の大型新人現わると直感した

太宰治『津軽』

日本海の漁師町、小泊に路線バスで 着いたときはすでに夕暮れ なにはともあれ 太宰治と越野たけの像にむかった 太宰の小説『津軽』を手に 作家が古里を20日ほど歩いた その足跡をたどろうと 津軽半島をまわった 大地主10番目の子であった津島修治は 2歳から6歳まで子守のたけが 母親代わりであった が、あるとき育ての親は姿を消してしまう 『津軽』は、自分さがしの自伝小説で 山場は たけとの30年ぶりの再会だ   「修治だ」 私は笑って帽子をとった   「あらあ」 それだけで