マガジンのカバー画像

枯れ寂びライカ Japan

15
ネットで遊んでいたら、ロマネ・コンティ1億2千万で売り出されていた。その高額に腰を抜かした。さらに、1945年生れでなんと71年もの。これで腰がくだけた。
運営しているクリエイター

#太宰治

ロマネ・コンティ1945

ネットで遊んでいたら、 ロマネ・コンティが1億2千万で売り出されていた。 その高額に腰を抜かした。 さらに、1945年生れでなんと71年もの。 これで腰がくだけた。 世界大戦が終わった1945年、稀なる好天気でぶどうの出来は最高。 空前絶後の当たり年にロマネ・コンティは、たったの600本。 そのなかで、いま1億円ほどの3リットルボトルは2本だけ作られ、 その1本が妖怪のごとく日本に現われた。 「わいんばー・ギンザ」。 銀座コリドー街で営んで開業35年、ワインバーの草分けだ

太宰治とストーブ列車

真っ赤に燃えるだるまストーブの金網にスルメを乗っければ、 ほどなく白く細い煙がたち反り返って、食べごろだ 十三湖のスルメを咬んで地酒でほろ酔いのままに 極楽列車は雪原をゆく 津軽の冬の風物詩、津軽鉄道のストーブ列車は 五所川原と津軽中里を一時間あまりでむすぶ 途中、金木で下り、太宰治が生まれ育った 斜陽館に立ち寄った 大地主の家だけに豪邸だ 津軽の風土と太宰の出自は 四度も自殺未遂をくりかえした彼の生き様に どんな係わり合いがあったのだろうか

太宰治の遺書

これが小学生の書いた作文なのか 文字、内容とも子供がつづったと思えない これこそ、持って生まれた文才なのだろう 太宰治が幼いころ鉛筆で書いた生原稿 青森でたまたま目にして驚きで声もでなかった 太宰は原稿を好んで毛筆で書いたといわれる 弘前出身で太宰の自伝を書いた 長部日出雄『辻音楽師の唄-もう一つの太宰治伝』によると 太宰の原稿を手にした古谷綱武は 和紙にすこしかすれるような墨づかいで書かれた きれいな筆の字におどろき さらにその内容に興奮 無名の大型新人現わると直感した

太宰治『津軽』

日本海の漁師町、小泊に路線バスで 着いたときはすでに夕暮れ なにはともあれ 太宰治と越野たけの像にむかった 太宰の小説『津軽』を手に 作家が古里を20日ほど歩いた その足跡をたどろうと 津軽半島をまわった 大地主10番目の子であった津島修治は 2歳から6歳まで子守のたけが 母親代わりであった が、あるとき育ての親は姿を消してしまう 『津軽』は、自分さがしの自伝小説で 山場は たけとの30年ぶりの再会だ   「修治だ」 私は笑って帽子をとった   「あらあ」 それだけで