「客観性の落とし穴 村上靖彦」を読んで
「エビデンスがあるのか?」
「データがそう示している」
なんとも言えない違和感を感じていたこういった言葉。
この本はこの違和感を説明してくれる。
客観性と数値が支配する世界は苦しい
近代になって自然や社会、心までもがデータ化していった。
客観化、データ化することが悪いということではない。
それがすべての真理と思い込むことで一人ひとりの経験をそのままの言葉で語ることできなくなることが問題となる。
客観的な数値が絶対に正しいと言われると、個人の経験、共同での経験が切り詰められてしまう。語ることすら憚られてしまう。
コロナ禍では非常にこれを感じた。
ワクチンの効果、マスクの効果、長引くコロナやワクチンでの後遺症…
実際にそこに症状や現実に起きたことがあるのに、エビデンスやデータといった言葉で否定されてしまう。
そもそもエビデンスがと言ってる主張にどれだけ真実があるのだろうか
コロナワクチンも当初は有効性95%と喧伝され、2回打てば大丈夫と言われてたが、あれはなんだったんだろう。
ノーベル賞を取った本庶佑さんはネイチャーやサイエンスに載ったものも10年も経てば1割くらいしか残らないという
こういったエビデンスがあるとか、この論文に出ているとか、データで示されてるとか言ってもそのくらいの確度のものらしい。
もちろん、客観的な妥当性を追求するのは大事だと思う。
ただ、エビデンスがと言っても、しばらくしたら実は違ってましたというものも多いということだ。
だったらエビデンスってそもそも何なのよ?
統計学という力
本の内容に話を戻すと、なるほどと思ったのが、統計学について書いてあったところだ。
科学哲学者イアン・ハッキングの言葉を紹介していた。
『統計学とは世の中が偶然に満ちていることを認めた上で「偶然を飼い慣らす」ための学問である』
そう、我々の日々の出来事は偶然に溢れていて思うようにならない。
そのなんとかならないものを統計学は捉えようとしている。
そういった意味では統計学は我々を助けてくれるものだ。
しかし、それは一定の傾向を示すものであって全ての真理を表している訳ではない。
統計学の前にどうにもならない現実があり、その事実は変わらない。
それなのに、助けてくれるものだったはずの統計データから外れた個人の経験はマイノリティとして価値のないものとして扱われてしまう。
数字やデータで示されるものを信じやすい現代人の思考にも原因があると思う。
それをうまく利用してくる人もいるだろう。
客観的な数値やデータが人や組織を介して説明される時、その客観性が薄まっていくのはなんとも皮肉なものだ。
どういう人物がどういう立場でその主張をしてるかも考えて、さらに元の統計データや数値を自分で理解して判断する能力が我々には必要なのだろう。
正直、一般人が論文などのデータを読み解くのはかなり難しいと思うが…。
ケアのコミュニティ
本の中では数値化されたものを盲信する現代の中で、一人ひとりの経験を復権させるために人の弱さを起点とした相互ケアのコミュニティを紹介していた。
人は誰しも、誰かをケアしながら、自分も誰かからのケアを受けている。赤ちゃんと親ですら。
一人ひとりの顔と声を基点としたお互いにケアしていく草の根的なコミュニティ。
確かにこれからの社会モデルとして求められる形なのかもしれない。
大変興味深い考えさせれる内容の本でした。
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