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脳内モルヒネが氾濫したら・・・

人間を過度なストレスから守ってくれるという脳内モルヒネ。
一説によると合成麻薬の30倍の威力があるとも…
大きなショックでこれが溢れかえってしまった経緯からその後の状態、出来事~完全寛解までを綴った私の実体験です。


第一章【決壊への序章】

(1)寒い日の続く早朝に突然
 「もう死んじゃってるから …ゆっくり来ればいいよ――」
両親と同居している下の姉の方から電話連絡があった。

「機械に巻き込まれちゃって………救出されたけど、怪我がひどくて…輸血とかもしたんだけど、どうしても出血が止まらなくて・・・・・・」
父が運び込まれた病院からかけてきていた。

電話で話を聞いていると、どんどん動悸がしてきて息苦しくなった。

受話器を置いた直後は数分動けず……
少しでも足を動かそうものなら、ひざが砕けるように思えた。
体に力が入らない・・・・・・この時から呼吸もしづらくなっていた………

………………………………………………………………………………………………………
 しばらく呆然とした後、父が運び込まれたという病院へ向かった。

病院に着くと電話をしてきた下の姉と、父が勤めていた会社の社長らしき人がいた。
姉のたくさん泣いた後のような顔を見て、私も一気に涙が溢れ出る。

「怪我が酷くて、どうにも血が止まらなくって、ドンドン ドンドン血が・・・・」と、姉の横にいた会社の社長らしき男性が、自分の太もも辺りを指し示しながら説明してきた。

まだ処置が終わっておらず、亡くなってはいるが事故での負傷個所を縫合している最中だという。
遺体の損傷がかなり大きかったらしい。

死亡が確認されてから5時間後にようやく処置室に案内され、亡き父のもとへ。

顔に掛けられた白い布の下を見るまでは、まだ父が亡くなったかどうか分からない…人違いかもしれない………という思いが若干あったが・・・・・

処置室で顔を確認すると、また更に涙が溢れかえった。

「そんなに苦しまなかったけど、ちょっと痛かったかな」
遺体の処置を待つ間に駆けつけて合流した上の姉が泣きながらそう言った。

ほとんど即死の事故だったらしい。

勤めていた工場での作業事故で死亡したので、会社が葬儀屋も手配してくれていた。

遺体を自宅へ運ぶ車が到着するまで、霊安室で私たち姉妹3人と上の姉のご主人との4人で待機した。
霊安室はとても寒く、少しの待つ時間がやけに長く感じる・・・

 十数分ほど経って葬儀会社の運転手が霊安室に入ってくると、遺体を運んでいる証明書…(?)みたいな書類にサインをするようにと指示され、「家族の内の一人はこの書類を持って、ご遺体を運ぶ車に同乗してもらわなくてはなりません」と、言った。

書類は死亡診断書だったのかな…? 途中で交通事故にあった時のために、
” 最初から死んでます ” が証明できる書類が必要なのだという旨の説明があった。

上の姉がその "もともと死んでます証 ” を持って父の遺体を運ぶ車に同乗すると名乗り出て、先に父の亡骸とともに病院から出ることに。
父たちを乗せた車を見送ると、私は下の姉の車に乗せてもらい、実家へと向かった。

 実家に着くと先に到着していた上の姉や家族たちの他に、一番近くに住んでいる親戚のおばさんもいた。
逐一駆けつけてくれていたようだ。

傍らにいた母が私を見つけると、「あー、リョーちゃん」と言った。
いつもと変わらぬ様子で…

大丈夫?と声を掛けると、「何がぁ?」と笑っているので、私も少し笑ってしまった。
「ワケ分かってるのかなぁ?」 と、上の姉も失笑している。

母は認知症―――…というか、統合失調症っぽかったので、事態が分かっていないのかなぁ、、、とも思ったが・・・・・

 居間の奥の部屋を見ると、先に到着していた父が ” 眠っている ” のが見えた。
父が生前いつも寝ていた部屋、ずっと使っている布団で・・・・・・

今、生きてないなんて思えない………

見た限りでは本当にただ眠っているだけのようだ。
ひどい大けがらしいが、見えている顔の部分は全くの無傷で……

だが、頬に触れると冷たくなっていた。
背中には保冷剤が敷かれている。

病院の寝間着を着せられていて、めくれば負傷箇所がどうなっているか見られそうだが―――・・・

「気にはなるけど、見てみる気にはなれないなぁ・・・・・」
「…うん」

みんなが布団や寝間着をめくるのはためらった。
最後まで負った怪我の状態を確認する事は誰もないまま、父は翌日エンバーミングサービスへと連れ出された。

葬儀場にて―――

 エンバーミングが施され、棺に納められた父は亡くなった当日とは違う表情、………口を閉じて少し笑っているような穏やかな顔をしていた。

明るい父だったが、こういう顔で笑ったところは見たことがないというカンジの―――…白粉も塗られているようで、なんだか父ではないみたいな………
作り物の人形のように見えた。

「なんかドッキリみたいだねー…あれも噓じゃなかろうか?と思っちゃう・・・信じられない……」

通夜の後、自宅に戻ってそう呟くと「てってれ~っ‼」と言いながら、旦那が『ドッキリ』のプラカードを掲げるゼスチャーをしておどけた。

 私:「う~ん・・・ホント、そんな感じだよ・・・・・・」


(2)葬式躁病?
 通夜の翌日は告別式だった。
実家の家族たちは昨晩この葬儀場の親族控室で一泊している。

母は昨日、「ここに泊まるのー?…やだ~ぁ・・・家に帰りたい…」と、ごねていて、「お父さんがここに″眠ってる”んだから今日はここで寝るの!」と姉にたしなめられていたが、大丈夫だろうかー?

心配していたが朝 葬儀場に着くと、母も控室でくつろいでいた。
「あー、リョーちゃん来た?」と、穏やかな様子で問題なさそう。
自分の旦那が亡くなった現実すらないかのように・・・

 ノーメイクで来た私を見た下の姉が、「ちょっとは化粧しないと」と言いながら自分の化粧品を取り出すと、「別にいい」と断る私の顔に無理矢理ファンデーションを塗りつけてきた。

「いたっ!いたいーっ!」強めの力で塗りたくってくるので、そう言いながら嫌がり、顔をしかめてよけると、追うように更にスポンジを押し付けてくる。
「痛いってばぁ~」と言う私をいたずらっ子のようにキャッキャッと笑いながら・・・

このやり取りを見ていた上の姉も、私たちを見て大笑いしていた。
前日まであんなに泣いていた姉たちが…

 徐々に葬儀場の親族控室に親戚たちが続々と集まって、賑やかになってきた。
すごく久しぶりに会う親戚のおじさん、おばさんから、全然知らない人たちまで――――・・・

事故死の割にはまあまあ生きたせいか、親族の中で泣いている人は見当たらない。
むしろ、皆にこやかに談笑している。
久々の再会を喜んでいるようだった。

 私の知らない…おそらく親族であろう初老の女性が、「大変だったねぇ」みたいな感じで母に話しかけて来た。
私にとっては母が他人としゃべる現場を見るのは、今世紀初ぐらいの珍事だ。
母は言葉のサラダ状態なんだけど…と心配になって眺めていたが・・・

「お父さんの声が聞こえるの…見てるぞーって・・・私だけに聞こえるのかもしれないけど」と、母が対話していた。

『私だけに聞こえる』―――このワードを聞いて、おおっ⁉まともなことを言っている ‼ と、私は内心驚いた。

母には迫害されている内容の幻聴が聞こえているらしき言動がかなり以前からみられていて、「そんなことは誰も言ってない」とか、「何も聞こえないよ」なんて本当のことを教えても全く聞く耳持たずで、余計に怒ったりしていたからだ。

" 自分だけに聞こえている”  を認める発言をしているところは初めて見たので、感激した。

その後、母と喋っていた方が立ち去ると、一人黙って座り続けている母の目から涙がこぼれ落ちた。
うつむきかげんで少し微笑んだ穏やかな表情のまま、片目から一筋だけ……

父が亡くなってから母が泣くのを見たのは、この日この時が最初で最後だ。

母は微笑を携えたまま、歓談でにぎわう大勢の親族たちの片隅で、その涙を黙ってハンカチで拭っていた………………

 ………………………………………………………………………………………………………………………
 動悸が収まることはなかったが、親族たちがたくさん集まって談笑している空間では、なんだか少し楽しくもなった。
ところが・・・

葬儀会場に入り 、厳かなムードの中 家族席に座っていると、すごく悲しくなってきた。

焼香が始まり、家族は立ち上がり順番に黙礼をする。
参列に来てくださった方々が皆、悲痛な面持ちで頭を下げていかれるのを見て、私はまたボロボロと泣き始めてしまった。

この挨拶で立ち続けている時に、頭の中で脳みそが斜め前にズレる感覚がした。

あ、倒れるのかな と一瞬思ったが、ちょっとそういう感じでもなく……、黙礼の繰り返しに揺れ続けた脳がふわっと剥がれかけたような……数センチほどスコッと脳みそがずれたような・・・・・

後にも先にも感じたことがない 頭蓋の中の不思議な感触だった。

 父の事故死の電話連絡を受けた時から動悸がおさまっていないし、この二日間はよく眠れてない。
疲れなのか、頭や体全体がなんだかフワフワし続ける感じもこの時期、特有の感覚だった。

大きな悲しみに連日号泣していたが、家族や親族たちとはよく喋り、結構笑ったりもしていた。
大泣きと笑いを何度も繰り返す…そんな数日だったような気がする。


(3)精神的飽和状態から
 父の死の1週間後は、週1で習っていたフラダンスのレッスン日だった。

むやみなクスクス笑いが増えてきていた時期だった。

父を亡くしたばかりで悲しいのだが・・・なぜかオチャラけてしまう。
いつまでも落ち込んでいるのはよそうと思ってはいたが、戯けるつもりではない。
なのに…なんだか気分が・・・、体調も違う……・・・体に力が入りにくく、踊っても踊っても汗をかけない。

気持ちは焦るようなソワソワした感じなのだが、ヘラヘラしながらも力が入らないし、ずっと体が冷えたままだった。

そして、一週間前からの動悸もずっと治まることはなく―――――
ドキドキが止まらない・・・………………

 ………………レッスンが終わって家に帰って来てしばらくすると、さっきまで一緒だったフラダンス仲間のN野さんが電話をかけてきてくれた。

「様子がおかしかったけど、大丈夫?」みたいなことから始まって、悲しい気持ちや不安な思いを泣きながら話し出すと、親身になって聞いてくれるばかりか、今まで知らなかった彼女自身の家族のことまでも話して慰めてくれた。

レッスンの間は心を強く持とうと思っていたこともあってか・・・
N野さんと腹を割って話しているうちに、その反動のように号泣しながら苦しい胸の内を吐露し続けた。

 N野さんとは1時間ほど電話して、切った後程なくして上の姉から電話があった。
主な要件は実家のお母さんをどうする?みたいな事で…

・・・母には被害妄想型の統合失調症のような言動が10年以上前から出ていたので、父がいなくなっては…という相談だった。

 ――――父の生前に、「お母さんって、もしかして精神分裂病なんじゃないの?」と聞いてみたことがある。
「お前もそう思うか」と、亡くなる10年くらい前の父も言っていた。

母がおかしくなったのは私が実家を出た後からだと思っていたが、いつからなのかと尋ねたら、最初からだと答える。
でも、家事や育児ぐらいはできるだろうと思って結婚したのだと。

 かつて精神分裂病と呼ばれていた統合失調症は、二十歳前後の発症が最多で最初は周囲の人も気付きにくい軽い症状から始まるが、徐々に進行していくという話は私も本で読んだことがある。

父は結婚前から母の精神状態に気付いていて、それでありながら結婚したらしく、母がそんな風になってしまうであろう経緯なり、出来事なりに心当たりがありそうな様子にも見えた。

どうすればいいんだろう? と聞くと、「そっとしておいてやってくれ」と言っていた。
父がいてくれたから安心だった。

そんな風にそばで見守っていてくれる父はもういないのだから、お母さんを精神病院に連れて行った方がいいのでは?と、上の姉からの提案であった。

 私が本や人づてに聞いて知った精神病院とは、牢屋みたいなところに閉じ込められて、人間らしい扱いを受けないみたいな話だった。

もちろんそうではない精神病院もあるだろうし、私の知った話も都市伝説かもしれなかったが、この時は 、
――お母さんがひどい目に合うような所に連れて行かれようとしている――と思い込み、受話器越しに必死で止めようとした。
が・・・・・・

どうにもうまく伝えられない…何十分かの押し問答の末に………
「まぁ、とにかくお母さんは病院に連れて行くとして・・・」
と、姉が言った時だった。

「もおおおぉぉーっ!!!!!!!」と私が天を仰いで叫び声を上げていたのは・・・

それは、喉が張り裂けんばかりの爆音でありながら、悲鳴のような反射的なもので―――――
・・・・・・・続いて爆笑が止まらなくなっていた・・・。

第二章【脳内モルヒネ氾濫】

(1)決壊
 
意図することなく、反射的に出た悲鳴のような雄叫びの後に襲われた爆笑も意識で止められなかった。

立っていられないほどの大爆笑で、ソファから床から笑い転げまくり・・・異様に楽しいのだがお腹が苦しく、漫画のように腹を抱えて足をばたつかせながら本当に転がり回って笑い続けた。

ナニコレ???と思いながらも、ものすっごく楽しい。
あまりの腹筋の苦しさに一瞬爆笑も止まるものの、喋り出すと自然に早口になっていって面白くて爆笑。

誰に話しかけるというわけではないが、「可笑しい!お腹苦しっー‼ コレ腹筋に効くわ~」とかから始まり、一人でしゃべり続けていた。

これもしゃべろうという意図はないのに、勝手に口がしゃべるといった感じで、自然にベラベラベラベラ・・・次から次へと言葉が止まらなかった。

こんな今の自分をおかしがる発言やら、入れ代わり立ち代わりよぎり行く意味不明な事柄やらをひっきりなしに笑いながら。

膨大に溢れ出す言葉に急かされるようにしゃべりまくってどんどん早口になっていく。
後半は口がついて行けず、スキャットマンみたいになった。

これも無意識にペラペラと口が勝手にしゃべるので、おかしくってしょうがなく、死ぬほど笑った。

ところどころに大爆笑を挟みつつでまた腹筋が苦しいが、自然に早口になっていく可笑しさや、ろれつの回らなさにもドハマりしてまたまた爆笑。
そんな自分も異様におかしくて大爆笑……

止めたいのに止められず、腹の底から笑い続けた
爆笑の最中はお腹が苦しいがすっっっごく楽しい!!
異常な楽しさだった

 爆笑が始まってからは時間経過が分からない・・・何時間、いや、数十分程度かもしれないけど日をまたいだかもしれないと感じるほど笑いが止まらず・・・・・・

―――ただ、この時から時間感覚を失い始めた事はハッキリ分かる。

爆笑と独話が治まった直後は尋常でなく疲れ果てて、床からソファの座面へとしなだれかかっていた。

・・・・・・ひどい動悸と息切れだ・・・・・・

喉がカラッカラに渇いていたが立ち上がれず、激しい息切れや疲労のせいでしばらくはしゃべることができなくなった。

その後何時間座り込んでいたのかは分からない。
日付が変わったのかどうかも・・・・・(この時の時間経過の分からなさは、疲れて眠ってしまっていたのかもしれない)

 ソファーに上半身を預けたままの状態の時だった。
息子がリビングを通りかかったのに気がついて、やっとの思いで声を振り絞り、息も絶え絶えにお茶を持ってきてもらえるように頼んでようやく飲むことができた。

お茶が飲める体勢に上体を立て直すのも、コップを握るのも、こぼさないように口に運ぶのにもとても力が要った。
体がガタガタする・・・・・・

その後立ち上がり、歩くこともできるようになったが、痙攣みたいなものが止まらない…………
………って言うか、やめられない。

止めようとすれば数秒静止もできるけど、震えているのが自然で楽な感じだ。
全身の貧乏揺すりのように。

これでは外に出られないと自覚もできていたが、全身貧乏揺すりに様態が変化しだしたら次第に異常な恐怖感が・・・・・・

何に怯えているのか自分でも分からない
ただただ怖くて仕方ない
恐怖とゆう感情だけが強く迫ってくる

…外がコワイ・・・出るのが…、でも今出ないとどんどん出られなくなる、早めに出ないと永遠に出られない・・・・・・
何故かそう思い込んだ。

怖い・・・出なきゃ…出れない・・・出なきゃ・・・さぁ…やっぱりコワイ・・・

呼吸は整い始めて来ていたせいか、動悸の激しさが気になった。
(今考えると、このドキドキで異常に ”怖い” という強迫感に襲われていたのではないかと思う)

 何時間(何日?)そうやって家中ウロウロしていたのか・・・。
時間感覚は失いっぱなしだ。

 比較的長く震えを止めておく事ができる様になった頃、エイッ!ヤーッ!!と気合入れまくりで玄関を出た。

実家に行こうと行き先は決まっていた。
母のことが心配で、父が亡くなった日からは毎日実家に様子を見に行っていたのだった。

体を固く縮こめ、ビクビクしながら早足で向かう。
曲がり角から出てきた車や人に異様に驚く。

早く着かなきゃ・・・しゃべる自動販売機の前を通って『イラッシャイマセ』に飛び上がってビビりながらぎりぎり実家に到着。
精神的にギッリギリ・・・・・・

〜あの時必死だったけど、意味が解らない・・・・・・

今振り返ると、異常なまでの恐怖感は実家に到着した時点ですぅ〜っと引いていったように思う。
一人で歩いて帰ったが、あんなにビクつきながら“恐ろしい”思いをこらえて家路についた覚えはない。
全身貧乏揺すりも治まっていた。

 が・・・・・・・翌日以降なのかなぁ〜〜〜??
今度は“逃げる”が止まらない。
自宅でじっとしていても、意識だけが何かから逃れようと必死で焦っているのだ。

動機が激しく、呼吸も浅く、苦しい…疲れる・・・コレは1日のうちに治まっては またぶり返しの繰り返しだった。

この状態の頃、痛覚が異様に敏感になっていた。
少し触られるだけで『痛い』と感じる。
家族にも「痛いから触らないでっ!」と言って、痛みが走ることを異常に怖がっていた。

あと、目が覚める。
眠っていたわけじゃないのに、フッと目覚める感じ…
(この時に何が起こっていたのかは後に悟ることになる・・・)

 “逃げる” 感覚の合間にやたらと楽しくなってくることもあった。
なぜか気分が高揚してきてむやみにケタケタ笑う。

出ちゃった(氾濫)時ほどの大爆笑ではないし、長時間止まらないこともないが、些細なことで腹の底から笑える。
楽しくてしょうがない。

 そんな時期に警察に包丁を任意提出する夢を見た。
夢の中でキッチンにある料理包丁の所持が違法・・・だか、危ないと思って流し台の下にある扉の内側から一本取り出すとカバンの中に入れて警察署へ出頭。
「うちにこんな危険な物ありました」・・・って
                   ヘンな夢(笑)。


(2)病院行かなきゃ
 実家では、姉が警察行かなきゃ、病院行かなきゃ、銀行行かなきゃ、行政書士が・・・って事後の対応で毎日忙しそうだった。

この「病院行かなきゃ」が強く刷り込まれたのか、出ちゃった (脳内モルヒネが氾濫した)1週間後に自分が行かなくちゃいけないように思い込んで、事故直後に父が運び込まれた病院へ朝早くに向かった。

―――――なぜだか旦那、息子がついて来る………………

私は下敷きを持って行っていた。
コレ、病院の人に見せなきゃ…そう思い込んで知らせなきゃいけない(と狂った私が思っていた)ことを無地の下敷きに鉛筆でビッシリ書いていた。

こんなもの見せようとしていたってことは・・・この日、この時もかなり正気じゃなかったんだ………………と、今なら分かる。

病院に着いた時には、下敷きの存在は頭になかった。
謎の下敷きのことは忘れたまま、待合室に座る。
数分後・・・

「どうしましたかぁ〜?」と、病院スタッフが私を覗きこんで来た。
旦那がすかさず出てきてスタッフと喋る。
対応してくれている… 任せようと思った。

「◯◯クリニックに行ってくれって」数十分ほど別室に連れていかれて病院スタッフと話をしていた旦那が戻って来てそう言うので、ついて来ていた息子と共に3人でそのクリニックへ。

到着すると、旦那が私のことを診察して欲しいと受付に申し出た。

 …?おかしい・・・ なんで私が・・・旦那がおかしくなってるから助けてもらわなくっちゃー…

そう思って、「〇〇家に電話してください」と、受付最中に口をはさむ私。
実家に連絡をとって助けてもらおうと電話番号を一方的に言い出していた。

「だまれ!しゃべるなっっ!!」
数字(電話番号)を羅列する私に旦那が怒鳴る。
私は怯えて数字と「◯◯家に電話してください」を必死で受付の女性に訴え続ける。
旦那、「だまれ!!」で遮る。

受付の女性、うろたえながら私を見るが電話してくれないし、何も言ってくれない…

これが数分続いた後、奥から出て来た別の受付の方が「こちらの病院へ行ってください」と、紙を出してきた。
…………鉄格子のついた精神病院だ―――・・・

旦那がその紙を受け取ると、私たち3人は総合病院から紹介されたこの心療内科クリニックを出た。


(3)精神病院へ
 「どうやって行くんだぁ?…あぁ、そんなに遠くないなぁー」
心療内科クリニックから渡された紙を見ながら旦那が呟く。

 ―――連れて行く気だ。
そう感じたので、何とかして逃げようと思った。

旦那は受診させた後はまた連れて帰って来られるつもりでいるようだが、私はこの病院は入ったら最後、牢屋みたいなところに閉じ込められて出してもらえなくなる場所という風に認識していた。

どうにか旦那からは距離をとって・・・
早く先に家に入ってしまえれば……と思い、早足で歩いてみるのだが、ピッタリと私の横についてくる。

ゆっくり歩いてみせて油断している間に走り出してみるものの、すぐに追いつかれる。

私を掴んでいる手が離れた瞬間の隙を狙って走って逃げる……追ってくる。
息子も加担して私を捕まえようとしてくるので、途中にある公衆トイレの個室へと逃げ込んだ。

「おいっ!ちょっと診てもらえばすぐ終わるんだっ!!」
外で旦那が怒鳴っている…誰かが通りかかればおかしくなっている旦那から助けてもらえる・・・
・・・そう思いながら数十分ほど立てこもったが、誰も来ない。

他に出口もないし、逃れられそうにない…それに、息子も一緒に警察へ・・・なんてことになるのは避けたい…。

一旦トイレからは出て、おとなしく付いて歩くフリをしながら逃れようとした。
車に乗せられる前に家に入れれば・・・

そんな思いで自宅にたどり着くまでも何度か逃亡を試みたが、結局二人からは逃れられないと悟って自ら旦那の車に乗った。
余計なケガをするのも嫌だしね。


(4)診察
 精神病院に着いても、まだ私はあきらめなかった。

受付でいきなり数字を連ねる。
「◯◯家に電話してくだ・・・「お前は黙っとれえぇーーっ!!!」

旦那がかぶって恫喝してきた。
病院内も乱暴な様子で私を連れ回す。

医者に診せれば旦那のほうがおかしいって分かってもらえる。
そう思って逃げようとするのも、もう辞めた。

この病院にもついて来ていた息子は、じっと黙って待合室に座っていた。
その横で、旦那と私が初診アンケートのようなものを書いた後、待合室のままそれぞれ簡単な問診をされた。

数分後、息子が別室に呼ばれ数十分ほど話をして出てくる。
入れ替わりで旦那だけが呼ばれ、話している様子。
また数十分後に息子が呼びこまれ、待合室には私一人になった。

私を監視する者は誰もいない自由な状態· · · ·
この隙に病院から立ち去り逃れることもできそうではあったが・・・

ここへ来て旦那の振る舞いが病的なほどに乱暴だったので、旦那が精神病者としてこの病院に入れられることになってしまうのでは…と、心配になって待っていると、数分後くらいに私も二人が入って行った診察室へ入るようにと呼び込まれた。

医者1人がデスク前に座り、3人の看護師が立っている。
私は医者の前に座るように案内され、背後に旦那と息子がまだ座って聞いていた。

問診中は覚えている部分が少ないんだけど・・・

振り向いて旦那や息子に話しかけようとすると、後ろに立っていた看護師のうちの一人が、私の両肩をガッシリ握って怒鳴りながら医者の方に向き直させる。
もんのすごい力、勢いで。
医者からの問診の答えに迷って「どうかなぁ〜」と、振り向く時だ。

「自分だけがしゃべるの!」
「自分がしゃべればいいの!!」
「うしろ見なくていいのっ!!!」――---と、いった具合に。

終盤には、ちょっとでも体の向きが変わると凄いスピードでグイ!って・・・怒鳴りながら。

医者は淡々と問診を進めるだけ。
この看護師の態度に触れることも私の体に触れる事もなく・・・

 医者から私への質問が全然思い出せないんだけど、「お母さん、いつもこうやってよくしゃべる?」と、医者に聞かれた息子が「うん」と答えていたのは覚えている。
旦那もいくつか質問されていた。

 医者:「ここがどういう病院なのか知ってますか」
 旦那:「はい」

覚えているのはこれだけだが・・・

問診内容はほとんど覚えてないが、・・・ここで言う“覚えてない”は、単純に年月が流れて思い出せないというコトで…。

総合病院→心療内科クリニック→精神病院と、1日の中の話だが、この日に限っては記憶が飛んだ認識はない。
だが―――・・・

この病院に連れてこられる以前から度々遭遇した、起きていたはずなのに目が覚める・・・、フッと気が付く・・・という感覚は記憶を失っているからなんだ…と、後々分かってくる事になる。
それは、この病院で――――


第三章【閉鎖病棟へ】

(1)精神病者は私
 周囲からの扱われ方や状況で、 自分が患者とされている ・・・ と気付き始め、 「入院です」と言われて愕然とした。

この病院での入院とは閉じ込められること、入れられたらなかなか出てこられないことを噂で聞いていたからだ。
でも、ここで抵抗でもしようものなら保護室行きだ。
刑務所の独房のような…。

診察室から病室に行く途中にトイレに寄らせてもらった。
トイレの窓からSOSのメモを出そうという考えがあった。

 ―――最後の望み・・・…

だが、外へと通ずる窓はなかった。
もう、逃れられる期待は失った。

廊下で待っていた家族とともに、病室のある棟へと看護師に案内される…
診察を受けていた建物からはいったん出て外へ。
少し歩いて別の建物に入ると、すぐにエレベーターに乗った。

降りて右側に進むと、鍵のかかった両開きの鉄の扉の前に着いた。

「ご家族の方はここまでで・・・」そう言いながら解錠し、扉を開くとその2メートルほど奥に動物園の檻のような鉄格子の扉が見えた。

その奥の廊下に患者さんらしき方々の姿も見える。
床に倒れ込んでいる人、車いすに座っている人・・・・・

家族を鉄扉の外に残したまま、私だけが鉄格子の間近まで入るように誘導されて看護師と二人で中へと進む。
入った瞬間、奥からきつい消毒液のような匂いが漂って来て、気分が悪くなった。

外側の鉄扉は閉ざされ、家族の姿は見えなくなる……看護師はこの扉に再び鍵をかけると、奥の鉄格子の鍵を開けた。

中に入り、鉄格子の扉にも鍵をかけ廊下を少し進むと、すぐ左手に診察室があった。
奥にはナースセンターもあるようだ。

私は先ず診察室に入るように言われ、ここで看護師に手荷物を全部持って行かれた。
泣きながら若干抵抗する私から「いらないねー、いらないねー」と言いながらリュックとダウンジャケットを半ば強引に剥ぎ取る。

何もなくなったと思った。
家族も、なんにも・・・・・・・・・。
    ……号泣。

 泣き続けていると、「お昼は?食べた? まだ食べてないの?」と、看護師の一人が私に尋ねてきた。
食べていないことを知ると、「食事ある? 残ってる? 」と他の職員とやり取りをして昼食を用意してくれている様子。

朝から病院をはしごしてきて、もう正午をかなり回っていた。
だが、すぐにご飯・汁物・おかずという、給食のようなお膳が運ばれてきた。

廊下の作り付けのカウンターみたいな所で椅子を持ってきてもらって一人泣きながら食べていると、車いすの年配の方が右側に来て話しかけてきた。
「泣いとるのかぁ――-何が悲しいー、、、」

私は父が亡くなった時の話をしてもっと泣き出した。

「悲しいのかぁ――ウワァ〜・・・」
車いすの患者さんも泣く。
私、もっともっと泣き出す。

「も〜、泣いてちゃ食べられないから…早く食べちゃって」
看護師がそう言いながら車いすを引き、患者さんを遠ざけた。

ちょっと認知症っぽかったけど、精神病ってカンジではないおばあちゃんだった。


(2)入院患者の人たち
 鉄格子の奥のエリアには何十人かの患者さんがいた。
60〜70代くらいの人が多そうだ。

大半の人が上体を腰から折り曲げ、額を床につけてへたり込んで座ったまま動かないでいる。
掃除をしている人もいた。

膝を抱えてうつろな目でずっとちっちゃく揺れてる女の子―――彼女が一番若そう。
二十歳くらいかな・・・。

「あんた、今来たの? なんにも持ってないでしょう? これあげるわ」
そう言いながら、ポケットから乱雑に折りたたんだチリ紙の束をよこしてくるオバちゃん…
「あぁありがとぉございますぅ・・・」と受け取ったけど、精神病なんだろうなぁ・・・

こんな気の狂った人たちと一緒にされるなんて・・・正直、そう思った。

 看護師はナースセンターの前で「私達ここにいるから、何かあったら言ってね」と言って去ていた。

この鎖された空間の中には診察室、ナースセンターのほかに――――
 ・・・私の記憶では病室が4つあった。

すべて畳の敷いてある和室で、ベット2つとポータブルトイレが一つ置いてある部屋が一箇所ある。

入って一番手前右側の部屋が私が居て良い場所らしい。
たたみ十数畳ぐらいの和室に、10名ほどの患者さんがいる。

古びた大型のエアコンが備えてあるが稼働していないのか、とても寒い…
特に足元が。
私は 着ていたパーカーを脱ぎ、袖部分に足を突っ込んで丸まった。

「リョーさん、私が初めてココに来た時と同じことしてる〜 ! 」
部屋にいた同世代くらいの女性がそう言って笑った。
名乗った覚えはないが、なぜか私の名前を知っていた。

「今日来たんじゃーなんにもないよね?これ、私のだから使っていいよ」
パラソルハンガーに掛かった“まなみ”と書いたフェイスタオルを指差して彼女が言った。

このパラソルハンガーには10枚ほどのフェイスタオルが掛かっていて、それぞれに名前が書いてあった。

濡れた手で部屋に戻ってきた患者さんたちが、ここに掛けてある自分のタオルで手を拭いている。
ここに掛けっぱなしにしておいて、ここで使うというルールになっているようだ。

このタオルを一緒に使わせてくれていた まなみさん は、夜になった時も「私の隣で寝る?」とか、やたらと世話を焼いてくれていたので、本当に隣で就寝するまで 実は職員なんじゃないか と思っていた。
私の名前も最初から知ってたし。

 ベッドが置いてある部屋の前を通りがかると、「ちょっとアンタ〜、トイレ連れてってー!」と叫ぶ声が聞こえてきた。
見ると、ベットに横たわったおばあちゃんがこっちの方を向いて助けを求めている様子だった。 

斜め向かいにあるナースセンターを覗くと、看護師3人でお茶を飲んでいる。
「呼ばれてますよ」と声をかけると、一人の看護師に「・・・・・・…今、休憩中ー」と、憮然とした口調で言われた……数秒無視された後に。
        ―――― 何かあったら言ってねって言われたんですけど…

別の看護師が出て来てベットのある部屋へ。
「オムツしてるからいいのよーしちゃって。ここですればいいから〜」
おばあちゃんにそう言っている声が聞こえた。

寝たきり老人のようだ。
もう1台のベットにも高齢の方が寝ていた。

さっきの車いすの人といい、寝たきり老人といい、こんな厳重に鍵のかかった日当たりの悪い部屋に閉じ込めておく必要なんてないのに・・・。

「ここは家族に捨てられた人が来る場所なんだよ」
ある看護師がポツンと言った。
「こんなトコに居たら誰でもおかしくなるわ」
と、言葉を続ける。

ここでは患者さんを人道的に扱ってないと感じる看護師を彼女を含めて2、3人見た。
他人に対する態度がおかしい…自分たちのことを言ったのかな―――――

―――― ダレデモオカシクナル・・・

 肌着姿の初老の患者さんが水の滴る布を持って部屋に入ってくると、窓際へと駆けていくのが見えた。

「ああ〜、せっちゃーん… また服洗っちゃったの〜?」
そう言いながら看護師も入ってくる。

せっちゃんと呼ばれた女性は窓を開け(ここの窓は建て付けが悪いのか、広く開かない仕組みにされてるのか…20センチくらいしか開けられず、開けても目の荒い網のような形状の鉄格子がしっかりはめ込まれている)、絞りきれてない濡れた布を鉄格子の隙間へと突っ込み、広げようとしていた。

この光景は、私がここに閉じ込められている期間中、何回か見かけた。
どうやら自分の着ている服を脱いでは洗って干して………を繰り返してしまうらしい。

……う〜ん、精神病っぽい・・・。


(3)鉄格子の中での生活
 晩になると「ご飯だからこっちへ来て」と看護師から奥の部屋に呼ばれた。
「毎回ご飯はこの部屋で食べるからここへ来てね」と。

折りたたみテーブルがセットされたこの部屋で、入ってきたこの鉄格子の中のスペースで暮らしている患者全員がここに集まって食べることになっているらしく、何十人かの人たちが集まっていた。

「こんな生活でも住んでりゃ慣れるから」
「ここ、ご飯は美味しいよ」
「ねぇ」
「うん」
患者さんたちが口々にそう言っていた。

確かにご飯は美味しかった。
注ぎ分けられた状態でワゴンに乗せて持ってきた割には温かかった。
真冬なのに。

でもさっき昼食を食べたばかりの私にはもう食事は苦しかった。

「薬飲まなきゃいけないから、食べて」 「肉食べて」 「ご飯食べて」  「野菜食べて」「もうちょっと食べて…」くっ・・・くるしぃ、、いらなぃ、、、食べれな・・・ぃ……

私の訴えは聞き入れてもらえず、背後から複数の看護師が指示してくる。

「もう、さっき食べたばっか!いらないから‼ 」

私が強く言うと、「もういいわー、この子…」と一人の看護師が言い出してやっと解放された。
「薬は飲んでね」と、この日はその場で即座に薬を飲まされ、部屋に戻った。

 夜9時に布団を敷いて全員寝る。
10人ぐらいで寝るので部屋いっぱいに布団が敷き詰められたような状態だ。

消灯時間は9時と決まっていて、電気をつけることはできないのだそう。
夜中にトイレ行きたくなったらどうしよう…

私は部屋の一番奥で、その隣にはまなみさんが寝た。

 トイレの話だが、個室が7個くらいあって、まともに鍵がかかる所は1カ所もなかった。
扉はすべて付いているが鍵がない。

1つだけ鍵も付いている個室はあるんだけどコツがいるのか、かけたらなかなか外せない。
20分ぐらいかかってやっと出て来られる感じだ。

初めは鍵をかけないなんて抵抗があってこの個室を選んで入っていたが、めんどくさくなって鍵のない個室でも入るようになった。

誰かが入っていてもノックに反応がない事が多く、人が入ってるドアを開けちゃったってのも普通になってくる。
そうなると開けられるかもなぁーと思っても、まぁ…イイや・・・って気持ちにもなって、慣れていった。

やっぱりちょっと落ち着かなくてイヤだけど、かけた鍵が数十分後に必ず開けられるとも限らないし・・・
閉鎖病棟内で大声なんか出したら看護師に何されるか分からないから、助けも呼べないなぁと思ったのだった。

あと、ボットン便所で紙は備えていない。
自分で買って(家族に買って補充してもらう)トイレに行く時、使う分だけ持っていくのだ。

患者のオバちゃんにもらったチリ紙の束はホントに助かった。
気の狂った人が変なモノよこしてきた…と思ってたけど、彼女はまともじゃないか。

 夜中に目が覚めることなく、朝になって目が覚めた。
就寝から目覚めまで あっという間・・・前夜に飲まされた薬には睡眠薬が入っていたに違いない。

部屋には時計があり、目覚めてすぐ確認したら7時ちょうどだった憶えがある。
病室には扉が付いておらず、すべての部屋が廊下から見渡せる造りになっていて、時計は各部屋にあった。

カレンダーはないが、廊下には黒板があり 今日の日付と曜日、それと1週間分の予定が書かれていた。
見ると、1日か2日おきに“入浴”という文字と、“ 回診 ”と書かれた日が1日あった。

 「布団はたたんでそこの押入れにしまってね。今空いてる所は―――……ここだけか…ここがあなたのしまう場所」
看護師から室内の側面にある押し入れの説明を受けながら、一緒に布団一式をたたんで押し入れにしまった。

「これはあなたのもの」
そう言って小さめのダンボール箱を持ってきた。

中には洗面器、プラスチックのコップ、歯ブラシ、歯磨き粉、ハンドクリーム、ヘアブラシなどが入っていて、一つ一つに名前が書いてある。

洗面器やヘアブラシは自宅のものだ。
油性マジックで大きくフルネームが書かれてしまっているが…

ここに来てから病院のスリッパを使っていたが、この時に家族に持ってきてもらったらしき 自宅のスリッパに名前を書いたものを用意された。

それと、袋に入った新品のチリ紙。
これは少なくなってくると家族に注文させて病院側が持ってくるシステムらしい。

「自分のものは全部この箱に入れてココにしまって」
看護師がそう言いながら部屋の端にあった簡易テーブルの下にダンボール箱をしまってみせた。

 朝ごはんを食べ終わると、看護師から自分のコップに水を汲んで列に並ぶように指示があった。
他の患者さんたちも皆、水を入れたコップを片手に並んでいく。

列の先頭はナースセンターの前だ。
廊下に複数の看護師たちが出て来ていて、そのうちの一人は踏み台に乗っている。

ナースセンターの窓口付近に全員分の薬が小分けして準備してあり、一人の看護師がそこから一包ずつ取り出しては踏み台に乗った看護師A に手渡していた。

  看護師A:「はい、口開けて」(分包の薬を上を向いて口を開けた患者
       の口の中に投入する)
  看護師B:「水飲んで」(一歩進ませて)
  看護師C:「ちゃんと薬ごと飲むんだよ」(監視役のよう)

という手順で患者の列を進ませながら流れ作業で投薬を行う。

「毎食後に自分で水汲んできてここに並ぶんだよ」
私が薬を飲むのを確認すると、監視役らしき看護師が言った。

 「多治見さーん、こっちに来てー」
看護師に呼ばれ、向かいの診察室へ。
指示された回転椅子に座って待っていると、昨日私を診察した男性医師が入って来た。

私の顔を見て一瞬ハッとしたような反応の後、「僕のこと覚えてますか?」と尋ねてくる。
「はい」――――― 昨日会ったばっかりなのに、当たり前じゃん…。 
私はそう思いながら、少し失笑しながら返事をした。

この時は会ったのは前日だと思い込んでいる私だったが、数日間くらい記憶が飛んでいるのかもしれない。
もしくは、相当気が狂っている人だから覚えてないんじゃないかと思われたのかな――――

具合どうですかみたいなことを少し聞かれただけで、診察と言うほどの診察はされずに数分で部屋に戻された。
他の患者さんが診察室に呼ばれている場面を一度も見かけなかったんだけど・・・

自分が着ている服を脱いでは洗ってを繰り返してしまうせっちゃん以外の患者さん方には、精神病というような様子はそんなに見られなかった。

身体障がい者の方や、軽い知的障害やら認知症っぽい方は複数見えたが、彼女たちは決して精神病者ではない。

ここに初めて来た時には床に突っ伏して座り込んでいる患者さんがたくさんいて異様な光景に見えていたが、食事に集まる人や投薬を待つのに並ぶ人も何十名かの結構な人数だ。

あの時ずっと座り込んでいた人たちは活動して、生活して、まともな会話もできているようだ。
あのタイミングはたまたま奇妙な姿勢でじっとしていただけだっだ。

廊下のベンチで読書したり談笑している患者さんたちの姿は、街で見かけるような光景と何ら変わりない穏やかさで・・・

一人で膝を抱えてずっと揺れていた一番若い女の子も、よくナースセンターの前でタバコを吸っていた。

タバコはナースセンターから看護師が窓口越しに出してきて、「ここで吸ってってねー」と言って患者に渡していた。
看護師が管理して与えているようだ。

ナースセンターの前の廊下には灰皿が常設してあって、この一番若い女性以外の患者さんがここでタバコを吸っているのも見かけたことがある。
吸いたかったら看護師に言いに行けば誰でも吸わせてもらえるものなのだろうか…?

閉鎖病棟内で管理されずに自由に口にできるものはお茶だけだった。

大きめの保温ジャーが部屋に置いてあって、ここから好きなだけ飲んでいいからと看護師が言っていた。

薬を飲む時に使うコップに自分で注いで飲む。
入っていたのは ぬっるぅ〜くて、うっす〜い ほぼ無味無臭のお茶だった。たまに看護師がやかんでジャーにつぎ足しに来ていた。

このお茶を入れ変えたり、ジャーを洗ったりする事はあるのかなぁ・・・
やかんでお茶を追い足ししてるところしか見かけなかったけど…
  …秘伝のタレのように・・・

 三度の食事以外のものを食べることは一切できない。
間食している人も見たことない。

本を読んでいる人はいたが、それ以外に娯楽のようなものを持っている人は一人もいなかった。
筆記用具すら見かけない。
外部からの差し入れにかなりの制限がありそうだ。

 テレビは部屋の上の方に設置してあったが、リモコンは一人の決まった人(患者か職員か分からない)が握っており、好きなチャンネルが自由に見られるわけではなかった。

手が届かないほど高い所にあるので、スイッチの入/切 もリモコンでしかできない。
リモコンを持っているその人だけがスイッチを入れ、チャンネルを変えて、部屋を去る時に消して出て行ったりしていた。

 電話は赤色公衆電話がナースセンター窓口の内部に設置してあるのが見えた。
ダイヤル部分は室内の方を向いていて、患者が通行しても良い廊下側からは手が届かない。

利用したければ かけたい所を申し出て、ナースセンターにいる看護師が受話器を取って10円(ナースセンター内部から持ってきた)を入れダイヤルしてもらい、コードを伸ばした受話器をしゃべる人が窓口越しに受け取って使う。
自分で好きなようにはかけられない。

私は頼んでも使わせてもらえないんだろうな・・・そう感じた。
(まともな神経状態の間は、この病院に連れて来られた時に「○○家に電話して下さい」と必死に数字を伝えていた自分は気が狂っていたと自覚もできるのだった)

閉鎖病棟にいる期間、幾度かラジオ体操の音楽がいきなり館内に流れ出すと、何人かの患者さんたちが立ち上がって体操を始めていることがあった。

誰に指図されるでもなく、それぞれの人が部屋の中や廊下に出たりやらしてぶつからない距離をとって行う。
あの二十歳くらいの女の子も廊下で音楽に合わせて体操していた。

体操を強要されることはなく、看護師が指揮を取りに来たりすることもない。
そもそも、看護師が部屋に来ること自体が少ない。

お風呂の日も私を呼びに来る看護師はいなかった。
どこに浴室があるのかを私は知らない・・・自分が動き回れる範囲内に浴室を見たことがないし、私にはバスタオルもない。

まなみさんが、気にかけてくれていたようだが、
「わたしの・・、ぁ――バスタオルは・・・ぅ〜…ん・・・」
と口ごもり、貸すのを(1枚しかないので一緒に使う事になる)ためらう様子だった。

さすがに昨日今日会ったばかりの他人とバスタオルまで共用するのは抵抗があるらしい。
まなみさんの神経は極めてまともだ。

―――――二日目の夜もまなみさんの隣で眠った覚えがある。

 普段リラックスして暮らしている患者の皆さんだが、特定の看護師が来ると緊張が走り、こわばっていた。
そういう反応を呈する態度で日頃から接しているのであろう。

私も看護師に「触らないでっ!グチャグチャになるでしょう‼」と怒鳴りながら手を叩かれた事がある。

看護師が洗い上がったたくさんの洗濯物を部屋に持ってきてたたんでいた時、自分の服があるのを見つけたので手を伸ばしかけた瞬間だった。

スタッフ全員が高圧的なわけではなかったが、こんな調子で患者を人として扱っていないような看護師も数名いた。

だが、お医者さんたちは感じのいい人だった。
この病院で医者らしき人とは二人しか関わっていないが、二人とも優しそうで明るい雰囲気の人だ。

閉鎖された空間の中で患者が医師に遭遇することはめったにないが、たまに診察室への出入りで見かけた時には、にこやかに挨拶をしていた。

患者さんたちもあいさつしながら二言三言、言葉を交わしたりしている様子は、まるで街で近所の人に出会ったような普通の光景に見えた。

一度だけ女性のお医者さんが入ってきたのを見たことがあるが、あれは回診の日だったのだろうか―――――私は診察室に呼ばれて、この女性のお医者さんの診察…というか、カウンセリングのようなものを受けた。

陽気な人なのか、泣きながら喋る私の話を聞いて、「かわいそうだなーっ、アハッ!」・・・「かわいそーだなぁ〜、アハハハーっ!!」と目を合わせることなく楽しそうに笑っていた。

今振り返るとあの女性は本当に医者なのかなぁ??…と、疑問に思う。
あの時の、あのムードには適切でない反応……不謹慎ではなかろうかと……
まるで躁病の時の私じゃないか・・・
・・・この日も問診だけされて部屋へ帰った。

私が部屋に戻った後、先程の女性のお医者さんが病室に入っていて、他の患者さんたちに聴診器をあててまわっていた。

こっちにもまわってくるのかなーと思っていたが、さっきの診察室の問診だけでいいのか、私だけ触診みたいな診察には来なかった。

この女性のお医者さんの診察を受ける患者さんたちはみんなリラックスした様子で微笑み、おしゃべりしながら受診していて、終始室内のムードが良かった。
顔なじみなのか・・・、いつも彼女がここへ回診に来てるのかな・・・

そんな感じで、医師たちからはイヤな態度を取られることは一切なかったし、見かけることも一度もなかった。

鉄格子の中は患者・職員含めて全て女性だけで、入り口近くの診察室にたまに男性医師が来たりする事はあっても、それより奥に入る所は見たことがない。
病室内に診察に入るのは女性の医者だけだった。


(4)疑心暗鬼
 廊下にあった予定の書いた黒板だが、日にちが正確に書き換えられていなかった。

入院初日の、”◯月◯日火曜日”… この日はあっていた。
就寝した翌朝もちゃんと日にちは進んでいた。
水曜日と・・・。

一旦、木曜日まで進んだが、また水曜日に戻っている日があった。
その後この黒板の日付は私がここから出されるまでずっと水曜日のままだった。

何か仕組まれている…私を試す?だか、騙す…、みたいな・・・良からぬ策略を練られているように感じた。

ここへ来た日に診察室で看護師たちに持っていかれた私物の事も、取り上げられた… とか、盗まれた―――… みたいな、不当な略奪に合ったような気持ちが沸き起こった。

  ―――――病院が信用できなくて不安になる…

 ナースセンター内から漏れてくる話し声が気になって聞き耳を立てていると、かかってきた電話に「もうこっちもいっぱいなのよねぇ〜」と、新規入院を断っていると思われるやり取りをしていた。

「なんか違うみたいよー、トイレも自分で行けるしー」としゃべっているのが聞こえてきた時には、私のことを言っているのかなぁと思った。

自分のことについて職員たちが話していると思い込んだ時には不安でドキドキする。
私をどうするつもりだろう―――と…

こんな風に不安に過ごしていたからだろうか・・・私に奇妙な発想が起こった。
幻覚というか・・・・・・・・。

知り合いが乗ってくる飛行機が墜落してしまう――――とか、
世界恐慌が起きて銀行周辺がパニックになる――――とか・・・

実在の人物や街の風景を絡めながら夢なのか…、視覚情報を伴いながら………妄想というか、予知みたいなフシギな精神感覚が…
・・・短時間のうちに浮かんでは消え、を繰り返した。

悪い未来に意識を支配されている間は怖くて仕方ない。
迫り来る焦燥感に、ただただじっと耐え続けるだけだった。

そうかと思えば、転じてなぜか妙に楽しくなってくる時もある。

「うんこ出たらおしえてね」
看護師にそう言われていたので、排便があるとすぐに言いに行った。

「うんこ出たよー」     「うんこ出たよーうんこ出たよー」        
        「うんこ出たよー」   
  「うんこ出たよー」   「うんこ出たよー」     「うんこ出たうんこ出た」             「うんこ出たよー」   
         「うんこ出たよー」 ・・・・・・・・

看護師だけでなく、廊下や部屋にいる人・会う人、皆に言って回った。
“うんこ”って言うのが楽しくて仕方がない。

はい。はい。看護師が言うたび笑いながら返事をした。
患者のみなさんも笑う。

皆が楽しそうでますます楽しくなってくる。
よくウケるので何度も言う。  「うんこ出たよー!」


(5)夢見るまどろみ
 病院スタッフたちは、鉄格子の扉の解錠→扉開け出る→扉閉める→鉄格子施錠→鉄の扉を解錠→扉を開け出る→扉閉める→扉の施錠
という手順でみな出入りしていた。

私がここに足を踏み入れた時もこの出入り口から、この施錠の手順でだった。
出入りできるのはこの扉だけかと思っていたが、食事を運んでくる棚のように大きなワゴンをこの方法でこのエリアに入れるのは不可能だと思う。

鉄格子の先は病室4つ、診察室、ナースセンター、トイレ洗面台スペースだけでつきあたって全てだと思っていたが、ほかにもあるかもしれない。

特に入って左手の方はよく覚えてないし・・・曲がって入る廊下があったかも。
皆がどこでお風呂に入ってきているのかも謎だ。

だが、医師と看護師はよくこの鉄格子と鉄扉の二重施錠の所から出入りしていた。

病院スタッフの出入りの瞬間にだけ少し鉄格子越しに閉鎖エリア外のエレベーターホールが見える。
この瞬間、外の世界への憧れが強く沸き起こった。

何が欲しいとか、何が食べたいとかは一切思わない。
ただ ただ、この“檻”から出たい・・・。
エレベーターホールを歩いている人たちがとてつもなく羨ましい・・・

精神病とは全く思えない人たちまでもがたくさん閉じ込められて暮らすこの世界。
私はずっとここから出られず管理され、一部の看護師に不当に虐げられながら一生 ”檻の中” で暮らすのか・・・?

――――せっちゃんが洗濯した服を干す時に 見えた窓の隙間の外の世界は 輝かしすぎて・・・宇 宙 の よ う に 思 えた―――――――――――-‐‐
   ――--―---------------------ー----------------

 眠りたくても夜9時の就寝時間になるまでここでは布団を敷いてはいけないことになっている。
入院二日目の夜は8時頃から眠くて仕方がなかったが布団を出すのを許してくれない。

必死に眠たいのを訴え続けていると、就寝時間15分くらい前になって根負けしたのか、「まぁいいやー…もうすぐ9時だしぃー」と言って許してもらえた。

ここへ来て2回就寝した記憶があるが、起床した記憶は1回しかない。
二度目に私が“目覚めた”と認識しているのは・・・・・

………目が覚めると、(意識が戻った?)横たわった私の周囲に複数の人たちの気配があった。

多分、看護師たち―――そう思う理由は、気が付くと右腕に注射針が刺さっていたからだ。

目ははっきり開けられなかったが、話し声と押さえつけられている感じだと5〜6人の人が私を取り囲んでいたんじゃないかと。

薬液注入が終わると(採血かもしれないが)畳の上で仰向けになっていることに気付いた。

2日とも部屋の一番奥で寝たはずだが、廊下に近い位置に歪んだ向きで…、布団ではなく直接畳の上に横たわっている状態だった。
就寝から目覚めたワケではなさそうだ。

まだはっきり目覚めないうちにまた意識が遠のいていく・・・・・・なんとも具合が悪くてしょうがない。

  ―――死ぬんだ―――---------
殺処分だと思った・・・・・

〈一旦気を失う-----------------
「リョーちゃーん!!」という姉の叫び声でうっすら意識が回復する・・・・

「リョーちゃん、リョーちゃーん!!……返せ~っ!リョーちゃんを返せーっ!か~え~せーっ!!!」
…鉄格子の扉がある方から下の姉の声が聞こえてきていた。

「リョーちゃーん!リョーちゃ〜ん!!・・・」          ・・・また意識失う--------------------------------------------------------------

誰かのすすり泣く声で目が覚める・・・・鉛のように重いまぶたを持ち上げると、旦那と息子がわたしの枕元で泣いているのが見えた。

一瞬うっすら目を開けるのも非常にしんどい・・・すぐにまぶたを閉じる。

もう・・・、死ぬ・・・・んだ・・・・・………
残される家族がかわいそうで、目を閉じたまま私も泣いた。〉

 ・・・・・・・―――さっきよりは割とはっきりと意識が戻った。
注射を打たれた時と同じ場所、同じ仰向け体勢で寝転がっていた。

 あれ・・、死んでない……家族たちは?・・・??

一瞬混乱したが、状況から〈ヤマカッコ〉内の出来事は夢か妄想だったらしいと理解した。

なんともリアルな夢・・・、幻覚?

意識は宿り戻ったが、体が重い・・・。
起き上がりたいので一旦ゴロンとうつ伏せ体勢になった。

腕で床を押しながら膝を曲げ… 膝を立て…ようと思っても・・・
・・・どうにも立ち上がることができず…

両膝を曲げて正座の体勢で上半身を起こしておこうとするも、とてつもなく具合が悪くて上体の垂直姿勢が維持できない。

両膝を曲げたまま上半身が前方へと倒れていってしまう…………
……両手のひらを床について支えようとするも…
………………そのままズルズルと頭から床へ上半身だけ流れてゆく…

私は、初めてここに来た時に見た―――大半の患者さんたちがとっていた、 あの奇妙な姿勢・・・正座で額をつけて床でバンザイの体勢になり、固まって動けなくなった………………………………………

   ………………………………………………………………………………………………
 何時間だろうか…そんな体勢でへたり込んだままかなりの時間が過ぎて、トイレに行きたくなってきた。

立ち上がろうとしてみると、最初よりかは割と体が動く感じだ。
どうにか立ち上がるところまでは・・・  ・・・おっと、まだフラつく。
景色がよく見えないし、力が入りにくい…

数分で足が前に出せるようになりヨボヨボとゆっくり歩いてトイレへ向かう・・・・・・

・・・・・ようやく辿り着き排尿を済ませると手洗い場へ。
洗面台の上にある鏡を見るとなんだか変な色だ・・・紫のような青のような…赤も見える。

顔?私の顔の色?…鏡が汚れているのかな?
よく見ようと思っても焦点がちっとも合わない。

歩けるようにはなったものの、極端に視力が落ちていて景色が歪むし、ピントもボケボケだ。

体中が痺れていて感覚もおかしい。
麻痺しているようだが痛みという感覚はない。

この時は結局この変な色が自分なのか、鏡の汚れなのかは分からなかった。

部屋に戻り、横になる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おかしな考えにとらわれ始めた・・・・。

『万が一ここから出られたとしてもただじゃ済まない…捕まって殺される…どうしよう、どうすれば―――――
私が私であることを隠さねば。外で生きる場合、見つからないように名前を変えなくちゃ…
あぁ、体がしびれる・・麻痺している・・・麻痺…、麻・麻…………』

“麻”の文字を入れるように天から降りてきた・・・
”これから教える名前を使えば逃れられるから” と、神が伝達しに来たように思い込んだ。

❝神❞ から伊勢神宮に絡んだ発想に展開したのだろうか・・・
・・・外界を逃亡するイメージにとらわれながら“巳”の文字が降りてきた。

『以前、友人からお伊勢まんじゅうだよと言って貰ったまんじゅうの焼き印の“巳”の文字・・・アレは神が将来この名前を使うことになると予め示していたのかっ‼』
と、雷に打たれたように激しく閃いたのだった。

『麻巳と名乗れと告げられている・・・・ずっと前から私は麻巳となる思し召しを神から伝えられていたんだ!!!』

――――目からウロコが落ちる勢いで私は誤った思念に囚われた。

その後は、『檻の中から出られた私は「麻巳」という名前で私を始末しようとしてくる追手から逃れながらも家族と会えるように旅をするー』・・・
みたいな夢をごく浅いレム睡眠の中で見ていた。

神から与えられた「麻巳」という名のおかげで無事に逃れられ、家族にも会えるという夢を……エンディングは草原の中で家族との再会を喜んでいる場面だ。

現実は痺れて動かしにくい体を病室の畳の上にあずけているという事は分かっていた。

……こんな風に、夢と現実があいまいな幻想も絡みながらも、明らかにおかしいと思える思い込みが脳内モルヒネが氾濫した以降、覚醒時にも度々起きていた。

ー〇〇〇〇〇は、#####だから、xxxxxとなる・・・みたいなー 正気に戻るとなんともおかしな理論なのだ。

この入院期間中にも、______________の場合__________だったら・家族に会え・家に帰れる。

みたいな内容の妄想に取り憑かれ、
明日、_____だったら息子に会えるんだ!きっと_____だから明日目が覚めたら家族と一緒にいる事になる!!

という根拠のわからない確実な明るい未来が見え、部屋中飛び跳ねて回ったことがあった。

「まぁ〜あんなにはしゃいでー」と言いながら周囲の患者さんたちが見て笑っていたのも覚えている。
気持ちが高ぶってじっとしていられなかったのだ。

ウヒョヒョヒョヒョ〜♪ みたいな・・・。
こんな異常な高揚感もおさまると、なんでだからこうなるなんて思い込んだんだろ―――
あんな考えはおかしかった、狂っていた……、と思い改まるのだった。

私のキチガイには波がある。

間違った思い込みにも[陽の内容]の場合と[陰の内容]の場合とがあり、 ”今夜大地震が来る…10時に!!” と思い込んだ時には、浴槽いっぱいに水を溜め、ポットに熱湯を用意し、避難リュックに持ち出すものの準備をし………と、確実に数時間後に大地震が来る行動をとっていた。

これは精神病院に連れてこられる前の出来事なのか、出された後なのかが思い出せないんだけど・・・
・・・自宅にいた時の事で、この時も家族が困惑して旦那は怒って否定していた。


(6)記憶の欠落
閉鎖病棟の中で、気が付くと服が変わっていたことがあった。
自分の着ていた服が、である。

着替えた覚えは微塵もない・・・

ダウンジャケットはリュックを没収された時に一緒に持って行かれたが、服は初日に着ていたものでずっと過ごしていた。

が、ある瞬間・・・グレーのスエット上下を着ている。
自分が持っている服でもなかった。 

 ………???・・・!?
一瞬の放心の後、びっくりした…というか、ショックだった。

スエットを着ているのに気がついたのは立った状態であったからだ。
気絶とか、眠っていて目が覚めたら…って訳でもない。
スエットになる前の最後の記憶も思い出せない・・・。

記憶喪失だ―――と、理解した。
こんなことは初めてだと思った。
が、それは病院に連れて来られる以前から度々起こっていたことのようなのだ。

あの、寝ていたわけじゃないのに フッと目覚めるカンジ がしていたのは、記憶が所どころ抜け落ちているものだった。

記憶を失っている間、自分は何をしているのだろうか・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 記憶の欠落がひどくなってきていたので注射で目覚めてから何日目の事なのか分からないんだけど…

「多治見さん、診察室に入って」
ある日の日中、看護師にそう呼ばれた。

体のしびれが残っていたがかなり回復し、普通の速度で歩けるようにもなっていた。
視力は病前に比べるとかなり落ちているようだが、ひどかった時よりかは、ずっと見える。

閉鎖エリア内の診察室に行くと、そこにはあの男性医師と旦那が座っていた。
私も旦那の隣に座らされる。

医師と旦那が会話をしていた。
序盤は何をしゃべっているんだか意味が分からなくて、内容を覚えることができていない。

覚えているのは、旦那の「連れて帰ります」と医者の「大丈夫ですか」のやり取りの繰り返し部分だ。

旦那がやたらとアツく「連れて帰りますっ!」
医者がためらいがちに「…大丈夫ですか ?」
 旦那「連れて帰りますっ!!」
  医者「ほんとに大丈夫ですか・・・?」
   旦那「連れて帰りますっ!!!」

だんだん強い口調となりながら、医者に迫っていた。

何をそんなに怒ってるんだろう…と、私は不思議に思いながら眺めていた。

 その後、私には何だかよく分からないまま看護師に促され閉鎖病棟を出る準備に。
医者は「ほんっっとに大丈夫ですか?」と繰り返していたが、旦那の気迫に押されたのだろうかー
じゃあ…ということになったらしい・・・・・

「病室の自分の荷物(洗面器に、ブラシやら)を全部持って」
部屋に戻るとすぐ看護師にそう指示された。

言われたままに動く。
「これも持ってくのよ」と、使いかけのチリ紙も渡された。
まだ半分は残っている。

この部屋に入ってから見かけなくなっていた私の靴がどこからか知らないが出てきた。
履くように言われる。

鉄格子の扉に向かいかけて「あ、これも」と、ここで暮らす間、廊下で履いていたスリッパも持たされた。
これは自宅にあったもので “多治見” と記名がしてある。

外用の靴を履かされ、私物をスリッパごと持たされてもまだ私はピンと来ていなかった。

“檻” の外に出られることに・・・


第四章【釈放】

(1)シャバだ
 ああ、出られたんだ――…と気が付いたのは旦那の運転する車の中だった。

そばに看護師がいるうちは鉄格子の外へ足を踏み出した時でも心理的には拘束されているのと変わらない状態で、自由になれたとは思っていなかった。

視界から看護師の姿が消た時に初めて、閉鎖病棟から出られたんだなぁーという理解に至ることができたようだ。

それまで看護師の指示されたとおりに無心で行動している感じで、外に出られるというような喜びや感動は感じることなく出てしまった。

帰れるとは思っておらず、ただ指示に従わなきゃという感覚のままに・・・気付けば、あー、出たのか、、、という感じだ。
 ※ここでいう“気付いた”は記憶喪失を伴ってのものではない。

嬉しいことのはずなのに・・・体の痺れのせいか、なんか不思議で…ヘンな感じで…、自分がどこにも存在していないような・・・・・
  ・・・意識に違和感があった。

もう、あの病院に戻ることはない。

事態が掴めてくると、皆さんに何のご挨拶もせずに部屋を出て来てしまったなー…と、なんだか後ろ髪を引かれるような思いが残った。

「お前、顔どうした」運転しながら旦那が助手席の私に聞いてきた。
顔 ?・・・・・意味が分からなくてボーっとしていた。

「…まぁ、いいや」と、旦那はそのあと車内では何も喋らなくなった。  私が覚えていないだけかもしれないが・・・

注射で目覚めて以来、なんだかポワ〜ンとする。
ずっと白昼夢のようだ…。

―――――病院には火曜日に入って―――…、2回就寝した記憶があるから今日は木曜か、金曜日くらいだな。

そう思っていたが、家に着いてちゃんと調べてみたら次の週の火曜日だ。

…っえ?!また火曜日??記憶の継続が断たれている自覚はあったが・・・まさか1週間も経っているなんて・・・・・

入院期間中の記憶は自分で思っている以上にごっそりと抜け落ちていたのだった。
・・・ショック

 視力がけっこう回復してきていたこの日、自宅の鏡を見ると殴られた後のような怪我をしていた。
閉鎖病棟の鏡で見た青や紫の色は自分の顔のアザだった。

鏡像が歪んで見えていたので顔面の腫れには気づかなかったし、体中の痺れ…特に顔がずっと痺れていたので痛みは感じていなかった。

殴られた覚えはないのに・・・何されたんだろう 何があったんだろう 私が何かしたのだろうか・・?
―――――記憶を失っている間に私は、 私は、いったい・・・・・

「病院で何された」と旦那が聞いてくるが・・・・・

旦那の話だと、入院に必要な荷物を持ってきた時に顔に大怪我しているのを見たらしい。
私は帰るこの日まで閉鎖病棟内で旦那に会った記憶はないが旦那は見たと言う。
最初に見た時は、怪我がもっとひどかったのだとか。

「看護師に顔、どうしたんですか?って聞いたら、自分で畳の所で転んだって言うからー…転んだくらいであんな怪我するわけないだろ!って言ったら…なんかしどろもどろになって・・・おかしいと思って・・・」

家で旦那がそう話してくれた。
それで迎えに来たんだと。
あの時、診察室であんなに怒っていたのはそういった経緯があったらしい。

「でも、強制入院なんだろ?見た日は帰ったけど・・・」
強制入院だと思ってその日は帰ったが、後日、「取り戻しに行ってくる」と、会社を早退して迎えに来たんだって。

「閉じ込めてるだけじゃないか!あんなの病院じゃない ‼」と、旦那はご立腹だが・・・知らなかったのだろうか?
病院とは名ばかりの精神病院があることを・・・・・

「そうだよ。あそこは治療をしてもらえるわけじゃないんだよ。”ここがどういう病院だか知ってますか?”って聞かれて自分も ”はい ”って答えてたじゃん」

知る人ぞ知る・・・の都市伝説のような精神病院の実態を旦那はなんにも知らなかったらしく、私が聞いたことのある話や中で実際に見たことを少し教えてあげた。

初めて閉鎖病棟へと連れてこられた時、閉鎖スペースへと続く鉄扉を開くとエレベーターホールからでも鉄格子越しの奥の廊下に車椅子の方とかがいるのが見えていたし、この日は鉄格子内の診察室まで入って来たりもしていたので、「見たでしょう?」と聞いてみると、旦那も納得している様子だった。

「だけど、本当だったね…都市伝説じゃなかったぁー…本当にあった……ね」私がそう言うと、ちょっと青ざめた様子で黙っていた。

 自宅には、入院になった時に看護師に持って行かれたダウンジャケットやリュックが戻って来ていた。
奪われてなかったのか…良かった…と安堵し、”冤罪をごめんなさい…”という気持ちにもなった。

リュックの中には総合病院で見せようと思っていた下敷きも入っていた。 鉛筆でびっしりと文字が書かれたこの下敷き・・・
かつて伝えなくちゃいけないと思って書いていた文章は、読み返してみると意味不明、支離滅裂な内容だ。

恥ずかしい・・・見せなくて良かった――・・・
そう思いながら消しゴムで全部消した。

 家には、“入院に必要なもの”というメモ用紙があった。
病院から渡された物のようで、洗面器などが入っていたダンボール箱の中身の物の他に、タオル、バスタオルも書いてあった。

「バスタオルがなかったからお風呂に入れなかったわ」と言うと、
「持ってったぞ」と言われた。

名前を書いてバスタオルもフェイスタオルも持って行ったと旦那は言うが、私の手元には届けられていなかった。

だが、マジックで大きく “3F 多治見リョー” と書かれてしまったタオルが実際、家には複数枚あった。

タオルの他に、私の持っていなかったはずの下着と肌着、パジャマ3つ、スエットの部屋着が5組増えていた。
これも準備するものとして持ってくるように病院から指示があったもの。

病室内である日突然チェンジしていたグレーのスエット上下は、この部屋着の中のひと品だった。

新品のそれらの物には全て “3F多治見リョー” と書いてあった。
黒の油性マジックで1枚1枚にこれでもかっていうぐらいの大きさで記名がしてある。

肌着はまだこんなの売ってるんだといったカンジの、一昔前のババシャツとグンゼのモモヒキだ。

  私:「普段、こんなの履いてないじゃん」
  旦那:「だって、肌着上下って書いてあったもん」

もったいないから使って消費しようとズボン下に履いてみたこのモモヒキはこれまでに履いたどのボトムよりも履き心地が良く快適で、その後は夏場も風呂上りに履いてくつろいだりと、ヘビロテになる。

パジャマと部屋着は合わせて8組も買い揃えたらしい。

  私:「コレ、重複するんだけど・・・部屋着とパジャマって、一緒じゃ
     ない?」
 旦那:「だって、こうやって書いてあったもん・・・パジャマ3,部屋着
     5って・・・」
  私:「何もこんなにデカデカと名前書かなくても…」
 旦那:「だってわかりやすく書いてって言われたもん」

・・・・・素直かっ!

せっかく新品なのに――――・・・でっかく ”3F多治見リョー” なんて油性マジックで書かれちゃって、人に譲ることもできない。

この ”3F” というのは3階の病室という意味らしい。
そういえば、せっちゃんが洗った服を干す時、窓から鉄格子越しに見えたのは、ちょっと高い所からの風景だったっけ。

・・・ん?確かトイレはボットン便所だったはず・・・3階なのにボットン便所って…どーなってんの?下の階とか…どんな造り??・・・

そんな事も旦那としゃべって二人で笑った。

この日は久々に自宅で家族水入らずの食事・・・。
家族3人、みんなでこうやってご飯を食べられることが何よりも幸せだーと、しみじみ感じた。

しかし 顔がしびれて 食べづらいぞ・・・・・・・・

・・・・・・
後に “ 医療措置入院について ” というタイトルのピンク色の紙が家にあるのを見て、これがいわゆる強制入院だということを知った。
本人や家族の同意なしで入院させられますとか、不当勾留の申し立ては都道府県知事を通して厚生労働省に(逆だったかも)できます、みたいなことが書かれていた。

私を連れ戻しに行く事は旦那にとって決死の奪還作戦だったに違いない。


(2)キチガイの自覚
 正気じゃない時に自分が書いた(書いた記憶はある)意味不明の文章が書かれた謎の下敷き。
これは息子も見たらしく、「気ぃ狂っとるぞ…ワケ分からんこと書いて」と言っていた。

「ほら、これに・・ぁ 消してあるー・・。」
息子がこの下敷きを出して見せてきたのは、もう私が消しゴムをかけた後だった。

  私:「うん、憶えてる。おかしかったね・・・もう治ったから」
 息子:「本当か ? コレだけじゃないぞ。包丁持ち出そうとしていたんだか
     らな 」

包丁・・・?それは覚えがない。

  私:「寝ボケてたんじゃないのかなぁ」
 息子:「寝てねぇよ。メッチャ起きて歩いてたぞ。カバンに入れて持ち
     出そうとするからなぁ」

  カバン・・・・・・・・…。!

「そのカバンって…コレ?」私は夢で見た……、夢の中で自分が包丁を入れたカバンを出してきて見せた。
 息子:「ああ」

私が入院させられる前に見た 警察に包丁を任意提出しに行く夢―――――

夢だと思っていたが、キッチンで包丁をカバンに入れるまでは実際に行動していたのだった。

   私:「で?そのあと、そのカバンをどうしたの?」
  息子:「取り上げた」

現実で警察署に持ってってなくて良かった〜・・・

あれが夢でないとすると・・・夢で見ただけだと思い込んでいるけど、実際に行動していることって、まだ他にあるかもしれない。

あのカンジが夢で、あの感覚は幻覚で―――――・・・…

夢・妄想か現実なのか自分で今でも区別がつかない部分はあるが、アレは絶対に現実だという物事の区別はつく。
意識があっての気が狂っていた時のも絶対現実のやつと、アレは本当かどうか怪しいぞ、というやつは正確に判断できる。
それは判るのだった。

記憶を失っている時の出来事は把握できないが、ここで公開している事柄は確実に現実のやつだけで、夢であったことは”夢”と断定しているし、どうも怪しい・・・と感じるものは載せていないか、そう書くようにしている。

----------記憶喪失の部分は・・・当時、自分が何をしているのかを旦那に尋ねたら「お前は自分に都合の悪いことは全部忘れるんだーっ!!」と怒られた覚えがある・・・・・・。

病院内でおかしな妄想に取り憑かれたりしたことは覚えている。
間違った事を真実の様に思い込んでしまっていたなー…と。

病院に疑心暗鬼になっていたことも、奪われたと思い込んでいた荷物が家に戻っていたのを知って、被害妄想型の統合失調症みたいだなーなんて、自分でもおかしく思えた。

黒板の日付けが戻っていたのも何かの間違いで、私を陥れようとしてるなんて考えすぎだなー…って。
注射で意識が戻った直後のあのまどろみ感覚に至っては確実に幻覚・せん妄状態だ。

確かに私はおかしかったかもしれないが、今は正気だ。
もう、治ったんだ・・・。
退院直後はそう思っていた。

後は自宅で体のしびれと感覚のポワ〜ンが落ち着くのを待つだけだ。
家族がまた一緒に暮らせる。

穏やかな日々が取り戻せた、と思った。
だが・・・・・

おかしな妄想に取り憑かれたり、記憶の欠落が起こることはまだまだ続くのだった。
とはいえ、それが起きていない間は、自分はもうすっかり正常のつもりでいる。

体の感覚に違和感はあるものの、私は父が亡くなる前の、元の生活を営もうと外にも出るのだった。


(3) 外部との関わり
 
退院直後、翌日以降とかからもけっこう一人で外出していた。

体の痺れが残っていて力が入りにくいが、動かせないことはない。
傍目には体の動かしにくさは分からないようだった。

顔の方はケガがまだ治りきっていなかったので、「どうしたの?」と、よく聞かれていた。

変に隠すと家庭内暴力とか夫からのDVみたいなことを疑われそうなので、
閉鎖病棟に入れられて気がついたら怪我をしていた、殴られた記憶はない…と、皆にそのままを話していた。

旦那さんにやられたのかと思った〜、と言われた。
やっぱり・・・

こんな風に、外でもおおむねまともな状態でやり取りができた。
ホントにまともな時もあって、もうおかしな妄想や幻覚など起こらないと思っていたんだけど・・・

見当識障害というのだろうか・・・おかしな思い込みが起きている真っ最中にはそれがオカシイとは気づかないのだ。

よその人たちを巻き込んでの奇行もあった事を覚えている。

胸騒ぎがして実家に安否確認のため、電話をしてしまう。
  私:「お母さんは無事?…○○は?無事?」
  姉:「うん・・元気だよ」
  私:「声を聞かせて・・・」
などと言う。

実家の家族だけならまだしも、よその知人にまで電話をかけていた。
胸のザワザワが収まらず、どうしてもかけてしまう。

ところがこの時は、コールの間に何故かけているのかを忘れてしまって、「多治見です。あの・・・え〜っとー・・・・・・」と、言葉が続かない。当然切られる。

またしばらくしてかける。
何度も何度も繰り返しかける・・・。

自分でも、もう何なのか解らなくなっているのだが、どうにも胸がザワついてかけずにいられない。
おそらく、相手が仕事中の時でも・・・・・
  なんか、キレられたような覚えがある―――――

・・・この手記を書いていて思い出したんだけど・・・

(○○さんはもう生きていないかも…ついこの前は元気だったけど、今は私に連絡が入ってないだけで、もう死んでしまっているのでは―――……?) 

と、異常に不安になって安否確認せずにはいられなくなるのだが、声が聞けると電話をかけている理由がその不安と共に一瞬消えてしまっていたのだった。

おかしな妄想にとらわれていない時は至ってまともなので、
「私、キチガイになっちゃって…・・・」とよその人に話しても
「何を、言ってるのぉ〜 そんなことないよー」と、遮られて説明が続かないし、信じてもらえない。

キチガイ行動を見られちゃっても恥ずかしくて嫌だけど…。
記憶を失くしている間に外で変なコトしてなければいいなー・・・

そう、記憶の欠落も引き続きおこっていたのだった。

立っている状態で意識が戻るので気絶でもないらしいしー・・・
座った状態で戻るときは、寝てしまって起きただけかもしれない―――――

そういう事もあったかもだけど、やっぱり記憶にないだけで活動していることも多そうだ。

知らない間に物が無くなったり、知らないものが増えていたり・・・。

物がなくなった!……と思っていたのは、自分でしまう場所を変えていたのを忘れていただけだったりした事もあったけど、どうしても思い出せないヤツもある。
なくなったっきり出てこないものが・・・

増えているものは新品なので、記憶をなくした状態で買い物とかもしているようだ。

家に真新しい雑貨とかが増えていると、「お前、どっかの店から持ってきてしまってないだろうな〜」と旦那が言うので、レシートをとっておくようにした。

憶えている部分も、記憶の残り方がどうも薄いように感じたので、ノートに日記のように書き留めておくことに。
買い物のレシートは、このノートに貼り付けていった。

当時、このノートは記憶をつなぎ留めておくための重要な物のように思い込んでいて、ノートの表紙には、“見てもいいが、誰も何も書き込まないでください”というようなことをマジックで書いていた。

キチっていた当時の私は、真実ではないことを他人に勝手に書かれて記憶を操作されるのではないか…と、とても不安だったのだ。
「誰が書くんだ〜 見ねぇしー」と、旦那は笑っていたが、私は真剣だった。

自分が何をやっていたのか、何で物がなくなっているのか、増えているのか、解らないのはスゴく怖い。

記憶の欠落が起こると本当に不安で、
   ーーー覚えている一番最後の記憶はどこかな…・・・
というところからいつも探り始めるのだった―――――
――――――――――――――――――――――――――――――――――

 当時私は専業主婦で仕事はしておらず、週1で通っていたフラダンス教室が一番の外界とのつながりになっていた。
閉鎖病棟に入れられた日も、午後からはレッスンに行く予定だった。

閉鎖病棟を出た後、数回練習に行ってもいたが もう気が狂った状態で、ヘンな物を持って行ったりしていた。

その時は皆の役に立つだろうと思い込んでいた、後になって考えてみると、いらないガラクタ・・・・。

袋いっぱいのそれを先生は受け取り、そのままスタジオに保管してくれていた。

正気に戻ったらおかしなことをしたと気が付き、返してもらうように言う…
などなど、奇妙な言動を重ねていたなぁ・・・と思う。

振付を覚えることもできなくなっていた。
気は狂っていても踊れなくなる焦りと不安はあった。

・・・この不安からの繋がりかもしれない・・・・…安否確認せずにはいられなくなり、電話をしてしまっていたのは――

やたらと不安になって電話をかけてしまっていた家族以外の相手はここの先生だった。 昼も夜も、レッスン時間中にだって・・・。

夜にかけ続けていた時、旦那が受話器を取り上げて何か会話した後、
「辞めます」と言っていた。

「何なの?」みたいなことを言われたんだろうなぁ・・・・・。
後日、退会届を出すことになった。

このフラダンス教室に絡んだキチガイ行動は他の生徒仲間達にも多く目撃されてしまっているので、その頃から距離を置かれたり、怪訝そうに関わらないようにされたり・・・とか、ズバリ「アンタ、もう帰りなさい」と言われたりもした。

でも、変なものを持って行ったり、変なことを言い出したりしても親身に耳を傾けてくれたり、「こんなにいろいろ持ってこなくてもいいよー」と、優しく断ってくれる人もいた。

人生経験豊富な年配の方の中には、こんな風に気が狂ってしまう現象があることを知っていたり、身内になったことのある人がいたりするのかもしれない――
フラダンス友達の中にはそう感じる方が何人かいらっしゃった。

 私自身に病名を告げられたことはないのだが…
解離性同一性障害(多重人格症)なのかな―…と、自ら思ったこともある。

家に新しいものが増えるたびに、「どっかから勝手に持ってきたんじゃないだろうなー」といつも言うようになった旦那。

医者から解離性同一性障害に多く見られる行動…

勝手に人の物を取っていってしまう…窃盗や万引きに本人は自覚がない…交代人格によってなされたことで主人格は記憶を失っている…・・・云々という説明を受けたのではないのか、と。

精神医学に精通した方は知ってるだろうし、病的な私と接して「この人はもしかして・・・」と思われた方もいるかもしれない。

 まだ病態が安定してない頃……、私がフラダンス教室を退会した後、この生徒仲間10人ほどで外食した事があった。

お会計で人数分の食事代を合算して集めようとテーブルにお金を出し合った。
「ちょうどになったね」と、ある人が全員分の食事代と伝票を持ってレジに向かった後、テーブルの上に一万円札が無造作に1枚だけ取り残されていた。

この時には精神病に詳しいんじゃなかろうか…と感じるお友達、
――――私がキチガイな言動を起こしても優しく、いたわる様に相手にしてくれていた方たち――――…数人が最後までテーブル付近にいたので、私に解離性同一性障害に見られる搾取行動があるかどうかを知るため、お金を置いて試してみているのでは…と思った。

「おっ!えぇもん落ちとる!」
私はテーブルの上の一万円札を指さし、笑いながら彼女たちに聞こえるように言ってレジに向かった友達たちの後に続いた。

こんな風に、精神病になってからも キチった私と付き合い続けてくれる方は他にも複数人いた。

久しぶりにエアロビ教室に行ってみた時の事。
エレベーターを上がると、軽運動室前でI藤さんに会った。
この教室に誘ってくださった息子つながりのお友達だ。

彼女とおしゃべりしているとミョーに楽しくなってきて異常なほどはしゃぎ出した私・・・これは自分で制御できない。

ウッヒャヒャヒョ〜♪ となる私の手を引き、
「ちょっ、ちょっとそれは・・・」
と、I藤さんに端のシャワールームに連れて行かれた。

幸い誰もおらず、ここで話の続きができた。
最初はキャッキャッ!キャッキャッ‼と異常にはしゃいでしゃべっていた私だったが、父が亡くなった時の話になると、今度はボロボロ泣いた。

I藤さんは自分自身が次男との死別で苦しんだ当時の過去の事や、普段は辛くならないように思い出さずにしている事とかも話しながら慰めてくれた。「私がいつまでも悲しんでたら、あの子が天国で困っちゃうから」って…

Ⅰ藤さんはもっと辛い経験をしているのにこんな風に元気に過ごせるように努力してて、普段は苦しさを周囲には感じさせないように振舞っている…。そんなⅠ藤さんの内情を知って勇気付けられた、が――――・・・

親が先に死ぬのは一般的で、ほとんどの人が経験するような事なのに私だけこんなに狂ったりしちゃって・・・と、自分の情けなさに気付くとまた号泣してしまい……

こんな私であったがⅠ藤さんは、まともに関わり、いたわり接してくれた。
この日は1時間のレッスンの間中、ずっとおしゃべりして時間が過ぎてしまった。

 その日の晩、7時過ぎにお風呂に入っていると、旦那が、
「友達が迎えに来たぞ」と浴室に言いに来た。
「お茶する約束してるって言ってるぞー」と・・・

??そういわれても覚えがなく不思議だったが、「お風呂に入っている」と旦那が伝えると、30分後にまた迎えに来ると言っていたそう。

せっかくなので、再び迎えに来た友達の車で喫茶店に行くと、昼間に会ったⅠ藤さんを含む3名が集まっていて、私が集まる約束を忘れて風呂に入ってしまっていた事を、みんなで笑っていた。

約束した?私が?いつ? そう尋ねると、
「今夜迎えに行くって言ったじゃ~ん!」と、Ⅰ藤さんも笑っている・・・

昼間にエアロビ教室で会っておしゃべりした後、帰り際に約束したらしいが、私はそのことを憶えていない。
記憶が飛んだ認識もないのに………

「うっそぉ~……全然覚えてないわー・・・ゴメンね~…」と言うと、みんなもっと笑った。
「覚えてないのぉ⁉ 可笑しいっ~www‼」って・・・

こんな風に笑って許してくれる友達で良かった・・・

その後に話した私が狂っていた時の状況や、閉鎖病棟内での出来事やらをも笑い飛ばしながら聞いてくれる。
私が暗くならないようにみんなで気を使ってくれているようだった。


(4)病気の進行
 退院後、自宅でも異様にハイテンションな状態が続く時期があった。

退院数日後だろうか・・・自宅でやたらと良くしゃべる。
家族といると―――…いや、一人の時も。

誰に話しかけるという訳でもなく、ずっと一人しゃべり続ける日が連日あったりもした。

「頼むから3時までは自分の部屋から出てこないでくれっ!眠れない ‼ 」と息子に言われだした。
夜中も寝ずに一晩中独話が止まらないのだ。

誰も聞いてないのにものまねをして自分ウケして、ダジャレを言ってはまた一人で爆笑―――――

コレを朝9時・10時くらいまで。
日中の記憶が飛んでいるのは合間、合間で眠ってしまっているのかもしれない。

 閉鎖病棟を出た日からどこにも通院せず、薬も飲んでいなかった。
情緒が安定しない。

不意に始まる動悸につられるように焦燥感が湧いてくることもある。

恐怖感が募る…父が亡くなって以来、・・・救急車のサイレンが聞こえてくると・・・
家族の帰りがいつもより遅いと・・・・・心臓がドキドキしてどうしようもなく怖い・・・・・・

突然鳴りだした電話の呼び出し音に極端に驚いて、悲鳴を上げながら反射的に電話をカウンターから叩き落としたこともあった。

恒常的に動悸を感じつつ、記憶の継続性を欠き、高揚感と不安・焦燥感を繰り返しながら、おかしな妄想、思い込みも激しくなっていった。

突拍子もない、他人には理解できない理論(今の自分でも理解できない)空想に振り回され、数々の奇行に及んだ。

・今夜、10時に巨大地震が起きる・・・!と思い込み、避難に持ち出すための荷物をまとめたり、浴槽いっぱいに水を張りだした。→時間が過ぎても何もおこらず、自分がおかしいと10分くらいで気付く。

・人が助けにやって来る…と思い込み、鍵を玄関ドアの外に落としておく→??何で!?自分でも意味分からなさに気づき、拾いに行く。(数十分ほど玄関外に鍵を放る、拾う、を繰り返していた)

・準備出来た(何の?)合図を送らなきゃと思い、部屋のドアを思いっきりバタンと閉める(音が小さくて聞こえていないかもと思い、何度も何度も開けては強く閉め直してを繰り返していた)

・世界がヤバいことになるのを止めなきゃ…どうすれば・・、ああっ!そうか!コレで自動で止まるんだ!!と思い、浴槽給湯器の“自動”のボタンを押す。→押した瞬間に ん?なんのこっちゃ・・・と思いスイッチを消す。

・通信システムが搭載されてると思い、秘密の暗号(?)をブレーカーに向かってささやく・・・(ブレーカーが秘密を共有する仲間とつながっていて連絡しなくちゃと思い込んだ)

実際に何か行動を起こさなくても、あのビルが爆発する・・・とか強く思い込み、恐怖に怯えることもあった。

目を開けたらアウトになる(←意味不明)という強迫観念みたいなものにとらわれた時は、家の中で目をつむって……たまに薄目を開けて行動してたっけ・・・。

自分で覚えている奇行もあるが、そうでない変なこともしているのかも――記憶が抜け落ちているのだから。
しかし意識が正常に戻ると、これで治った、もう狂うことはない・・・と、その都度思っていた。

家族は退院後にも起こる私の奇妙な言動に困惑したようで、入院していた精神病院に飲み薬をもらいに行くことにしたらしい。

 昼間に突然、下の姉が家に現れて「私も仕事抜けさせてもらってきてるからあんまりいられないよ」と息子に言っているのを見た。

姉が突然やって来た…というか、気が付いたら家にいた。
この直前の記憶は抜け落ちている。

息子が出かけた後に、「今、病院に薬もらいに行ってくれてるから、待ってなさいよっ!」と、姉に言われた。

察するに、ひどいキチガイ行動に困り果てた息子が姉にSOSを出したのだろう。
薬をもらいに行ってくるから見張っててほしいー…、と。

病院に状態を説明して薬を処方してもらえるように頼んだのもおそらく息子だ。
他には誰もいなかったのだから・・・。

息子が持ち帰って来た飲み薬の袋には 私が閉じ込められていた精神病院の名前が印刷されていたので、あの病院で処方してもらったんだと分かった。

自分にとっては、この病院に入れられてから余計に具合が悪くなった(体中が痺れるような違和感は治っていない)ので、薬のせいだ 薬でもっとおかしくなったんだ という認識が強く、私はこの薬を飲むのを拒んだ。

薬を飲まず、奇妙な言動を続ける私に業を煮やしたのだろう・・・・・
その日の晩の事だったのだろうか――――――――・・・。

旦那と息子が二人で無理矢理私を押さえつけ、鼻呼吸を塞いで口を開かせると薬を押し込み、水を注いで鼻・口ともに両手で強く塞ぐと、
「飲め!飲めっ!!」と旦那が怒鳴ってきた。

それから逃れようと体をよじり必死で抵抗を続けていると、数分の格闘の後「飲むんだっ!! 飲めー!飲まなきゃ離さんぞ!!」と、電気ヒーターのスイッチを入れてやけどするほどの距離にまで近付けてきた。

私は皮膚の熱さに焦り呼吸もできなくなり、水ごと薬を飲み下すと、ようやく二人からの拘束をとかれ電気ヒーターも遠ざけられた。

「血が出てるな…」息子の声が聞こえてきたが、疲労と窒息しかかった苦しさとでしばらく動けずにいた。

後で鏡を見ると歯があたったのか、口の中から流血していた。
服も水浸しだ。

自分の意図に反して無理やり飲まされた薬は喉の途中でつっかかっているかのようで、この異物感とプールで息継ぎを間違えた時のような鼻がツーンと痛い感じは1週間ぐらい残った。
だが、口の中の出血はすぐに治まり、やけどはしていなかった。

7日分の薬を処方してもらってきていたので、この日から私は指示通りに薬を飲むことにした。
もうこれ以上、ケガや痛い思いをするのは嫌だ・・・

 精神病には拒薬という症状がある。
飲んだふりをして吐き出す患者もいるとか。

この話を家族は病院で聞いてきていたのか、薬を飲んだ後は「口開けてみろ、舌出して、持ち上げて」と、家族から毎回チェックを入れられていた。

こうして息子が病院へ行ってもらってきた薬を飲んでいたが、本人の診察無しで薬を処方できるのは2回までと決まっていて、それぞれ7日分処方された薬は底を尽きると、私はまた薬なしで生活するのだった。

妄想や幻覚が起きている時はその内容が正しいと思い込み、正気に戻ると、もうあんな奇妙な考えにはならないつもりでいる。
私は病院へ行く必要性をまるで感じない。

躁状態の時なんかは、むしろ元気いっぱいで自分的には絶好調だ。
楽しくてしょうがない。

間違った思い込みも、正気に戻るたびにもうこれで治った・これで終わりだ…と毎回思うし、顔のケガも、体中のしびれも日毎に回復してきているので、「病院行こう」と言われても、なんで??治ってきてるのに・・・と、思う。
「治ってねぇぞ。夜中に暴れてるのに」と、息子は言うが・・・。

暴れる?・・・そんな覚えはない――― たしかに一人ものまね、ダジャレ大会が止まらなくなる日はあったが、それはそれはチョ~楽しい。
自分で悪いと思っていない。

でも、記憶の欠落はあるから、もしかしてそういう時・・・?
 …いやいや、誰も怪我してないし、部屋も散らかってない。

  私:「暴れるってー・・・どーゆー風に?」
 息子:「個性が暴れる」
―――-----?? こう言われても、私は病院へ足を運ぶ意思がなかった。

「言うこと聞かねぇ~っ‼」とイラ立つ息子に、
「あの病院はイヤなんだろう………」と旦那が静かに呟いた。


(5)記憶障害

 フッと意識が宿り戻ると、まず時計を見る。

9時とか、2時だったりすると外の明るさ、暗さで午前か午後か区別できたのでショックが少なくて済むが、5時代だったとき、朝の5時なのか夕方の5時なのかが分からず、混乱し不安でたまらなくなったことがあった。

「パッと見て分からないからAM/PM表示じゃなくて24時間表示になるように設定して」
不安にかられながら旦那にこのことを話して懇願するも、「何ワケのわからんことを・・・」という感じで取り合ってもらえなかった。

記憶の欠落が起こると何してたんだかって、不安で怖くて たまらなくなるのに・・・

・・・いつから失っていたのか分からない意識が戻り、自宅のキッチンカウンターの下に座り込んでいたことがあった。

普段こんなところに座ることはないので、気がついた瞬間にここが自宅だということもすぐには分からなかった。
このアングルから部屋を見たことは初めてだった。

手には半透明のピンク色のクリアファイルを持っていた。
   …―――なんで私はこんなところに座って…こんな物を持っているのだろう・・・

…急に意識が戻るとビックリして、知っている場所でも一瞬どこなのか分からなかったりする。
―――ストリートビューの黄色い人みたいだ・・・―――

こんなことが外出先で起きたらどうしよう…記憶が飛んで、知らない場所で戻ったら・・・・・・

そう思うようになって、出かける時は必ず今日の日付・行き先・行く目的と、待ち合わせ時間や会う予定の人を書いたメモをかばんの内側に貼って外出していた。
時間も空間もワープしてしまうから…………

そんな記憶障害が顕著だった時期の、とある瞬間に・・・・・・

・・・
「一応、画像撮りますねー」の声で意識が戻った。
知らない人がそう言いながら、私の顔を覗き込んでいた。

私は、壁際のベンチに座っていた。
知らない景色だったが、内装でここは病院で、服装でこの知らない人は看護師だとすぐに分かった。

「画像」としか言われなかったが、それが脳のことだというのもすぐに察した。
もう、記憶の欠落が度々起こっていることは確実だった。

この日は特に意識のスキップが激しい。
画像撮りますね に「はい」と返事をした直後からもう失っている。

次に気がつくのは仰向けになった私の額に布がかぶさってくる感触、直後また飛んで、別の待合室に座っていた。
隣に旦那も座っている。(この時初めて旦那の存在に気づく)

同じ日であろう…診察室に呼ばれて中に入ると、脳の輪切りの連続写真がデスクの上にライトアップされてあった。

医者は、「脳は異常ないね。やっぱり家族の急死によるショックのものだと思いますよ」と言っていた。

「キレイな脳みそだねぇー!80歳までは生きられるよ」と言われた事も覚えている。
診察室へ呼ばれた後からは記憶が継続しているのだった。

会計を済ませ、薬を受け取り、旦那の車で帰った。
連れてこられた記憶はないが、旦那と帰ったので旦那が連れて来てたんだと思う。

初めて来る病院だったが、診察券とか薬の袋の印刷でそこは『 I医療センター 』という病院だと分かった。

意識がある時の私には病院にかかる意思なんてサラサラなかったが…
記憶を失っている間に連れて来られていた『 I医療センター』・・・

・・・成行きと言った感じで、今後 私は2週間おきにこの病院に通院することになった。

父が亡くなったあの日からは 季節が移り変わろうとしていた。


第五章【通院治療】

(1)息子の苦悩
精神科、心療内科はどこも激混みだ。

私が通院することになったI医療センターは、診察開始の数時間前に玄関ドアが解錠され、診察券を入れてもいいことになっていた。

受付カウンターに設置されている診察券入れの小さなポスト口から診察券を入れる。
診察時間になると、この順番が早い人から受付番号札がもらえる、というシステムだ。

朝イチの解錠しそうな時刻に息子が診察券を出しに行ってくれる。
こうしておけば、私は診察開始時刻にだけ行けば良かった。
息子は診察券の提出と、私の付き添いとで毎回2往復してくれていた。

早朝5~6時に出しに行ってくれていても、受付番号は7番くらいのことが多かった。
開院時間ともなれば、2、30人の患者たちで待合室はあふれかえっていた。

 精神科に通院するにあたって、
『”精神保健福祉法第32条″に該当する重度かつ継続の精神障害である』
と認められて、公費負担制度で通院できると病院から説明があったらしい。

この手続きも息子が一人で役所へ行き、済ませてくれていた。
薬代も公費から出していただけるそうで、無料で通院することができた。

 このI医療センターに通院し始めた頃に、担当医が「今の段階で病名をつけるとしたら…」と前おいて、

“心因反応  急性一過性精神病性障害”

と、メモに書き記して渡してきた。
にこやかで明るい雰囲気の、初診の日に「キレイな脳みそだねー!」と言っていた あのお医者さんだった。

精神通院を始めだし、処方された通りに薬を飲むようになってからも具合が良くなるにはまだ数ヶ月ほどかかった。

一人ではしゃぎ出すことが多かった時期は、買い物などに行こうとした時も息子がついて来ていた。
頼んだワケではないが、出かけようとするのが見つかると、黙ってついてくることが度々あったのだった。

 ある日、車関連の支払いの為に何十万円かをおろしてきておくように旦那に頼まれた。
この時、銀行にも息子がついてきた。

「息子です」・・「息子で~す!」・・・・・「うふっっ♥息子です♪」と、滑稽な身振り、ポーズ付きで受付の人に紹介した。
聞かれてもいないのに、何度も何度も…

すでに成人していた息子が、私の傍らに連れだって銀行に行くことはとても久しぶりで、楽しくなってしまったんだと思う。
この時の銀行員の反応は憶えていないが…

この後、「お確かめ下さい」と、引き出した現金が出てきたのでその一万円札を数えていると、ミョ〜に可笑しくなってきてしまって、数えられなくなるほどゲラゲラ笑った。

コレには銀行員もつられ笑いしながら「大丈夫ですか〜?」と言ってきた。
息子だけは笑っていなかったが・・・。

街で一人で爆笑しだすのを人に見られたら 恥ずかしいから息子はついて来ていたんだろうなー・・・と思う。
そうは言っても、私の外出のたびに家族の誰かがついて来られるわけでもなかろう………


(2)催眠状態?
 通院前の異様にはしゃいだり、記憶が飛んだりも続いたが、それらと被るか入れ替わるかでまた違った症状が出た。

傍目には違いが分からないであろう、意識の上での変化だった。

外部からの情報の入り方が、いつもと違う。
判断の脳を介さずに、スルスルと魂の髄へと直接注ぎ込まれるように入ってくる。
この感覚にはテレビのニュースを見ている時によく陥っていた。

何だか異次元の世界へと導かれていくような奇妙な感覚・・・。

こういう時は脳が楽な感じだ。
同じような脳感覚の時に聴覚がおかしくなることがあった。

蛇口からバスタブに湯を張る時のジャバジャバという騒音・・・その音に紛れてだんだんお経の声が聞こえてきた。
次第にお経の音量のほうが大きくなっていって、最後は蛇口からの湯の音が完全にお経へと成り代わる。

洗濯機の脱水の時にも同じようなことが起きた。

ぐわ〜んゎんわん・・・という騒音に紛れてアラビアンミュージックがかすかに聞こえ出したかと思ったら・・・
その音楽が次第に大きく、洗濯機の騒音は徐々に聞こえなくなっていき、終いには完全にアラビアンミュージックが流れていた。

こういう時はその時点で頭がおかしくなっているなぁと、気がつくことができた。
スルスルと流れ込んでくる情報の入り方もそれがおさまると、あんな感覚はおかしかった・・・と、当時から思っていた。

こういう事が繰り返し起こることによって、この状態になっている時は、どうやら催眠状態にあるらしいことが解ってきた。

何回も何回も催眠に入っていたので、催眠状態の最中に ……あ・今、催眠だなぁー…とか、直前に …これから催眠に入りつつあるなぁ…
ということが自分で分かるようにもなっていた。

見聞きしたこと、ふと頭の中に浮かんだことを絶対的に事実だと固く思い込んでそのように行動する・・・・・。
そんな時は催眠状態に振り回されている時だったのでは…と考えるようになり、催眠に入りそうだと気が付いた時には思考に気を付けなくっちゃ・・・とも思った。

この状態の時は与えられた情報はもちろんの事、何気にふっと思いついた、”〇〇だったりして” …みたいな、普段「な~んちゃって」で過ぎている事柄を全て現実、真実だと思い込んでしまうようだ。

 ある日の晩、自宅で[足が床から離れなくなる]という自己暗示に入ってしまって歩けなくなることがあった。

自己暗示なだけだと自覚していながらどうしてもとけない。
それは、お風呂に入ろうと思って脱衣所に移動しようとしていた時に起こった。

旦那が私のほうに寄ってきて、「風呂に入ろうとしてるなぁ~?」と、足を浮かせられなくなっている私を見て笑って言った。
こんなような症状が現れることが今後あるかもしれない事を医者から聞いて知っていたっぽい。

足が床から離れないけど、[動かすことはできる]の思いに至って、すり足で廊下を移動する。

足の裏全体が床に吸い付いているかのように、ゆっくりとしか進めなかったが脱衣所に到着すると[足は動かせるんだ]という上書きの自己暗示が効いて、[足が床から離れない]の暗示もとけた。

これも催眠の一種だと思うが、この時の覚醒状態は非常に良かったのを憶えている。
自分でも暗示に入ってしまった自覚があったし。

だがこんな風に、自分が今 催眠状態だなーとか、ヤバい状態にあるなーと、常に自覚が持てるわけではなかった。

何かが憑依したような…意識が何者かに持っていかれるような……この感覚以外の、別の奇妙な感覚によっても、私の神経はおかしくなっていった。

普通ではない神経・・・やたらと頭が冴えわたる時。
こんな時は妙に気分がいい。
無駄に高揚して元気いっぱいだ。

同音異義語に気が付くと、異様に楽しくなってダジャレを言いまくる。
次々に思い浮かんでダジャレのゾーンに入ってしまうようだ。
しょーもない事がひらめき続ける。

何でもない数字の並びに特別な意味が含まれているように思い込むひらめきのパターンも多かった。
レシートの数字や電話番号などが目に触れる時だ。

“◯◯ー✕✕✕✕”とは、✕✕✕✕人の中の◯◯人が生き残れるという意味が示してあったんだ!!
というカンジに――

全くの間違いをあたかも真実のように…
このヒラメキに翻弄されている間は本当に真実だと強く確信する。

このような情報は選ばれた人間のみに共有できるというひらめきが起こり、伝えなくちゃいけない(と思い込んだ)連絡事項をノートに書いていたりもした。
これも謎の下敷き同様、支離滅裂・意味不明の文言だったと思う。

この連絡ノートは差出人として、“麻巳”とサインしていた。
閉鎖病棟にいた頃のおかしな妄想で、神から示された名乗るべき と思い込んだ『麻巳』 という名・・・・・・・・。

気が狂っていたと自分でも思い、治っていたにもかかわらず・・・また狂い、こんな風に以前の幻覚妄想に引き戻されることもあったのだった。


(3)統合失調症?
 神の声を聞いているかのように脳が冴えわたる・・・こんな時は自意識過剰になる。
     ――私を消そうとしている集団が存在する――・・・・
そんな幻覚妄想に至った時期があった。

信号待ちで人が集まってくると、この周りの人たち、みんなが私を狙いに来ている集団ではないかと・・・。
そう感じると、皆が言葉なきサインを送り合っているように思える。

カバンを右手から左手へと持ち変える、髪をかき上げる、鼻をすする、咳払いをする・・・

人々のそんな動作が連絡手段であり、咳き込む人に続いてまた別の人が咳をしたりすると、あ…、今あの人が、あの人に返事をしたな・・・などと思い込んでいた。

私が気づいていないと思っているんだろうけど、分かっているぞー…、と警戒したりして・・・。

こういう発想は統合失調症のよくある症状として啓蒙書に紹介されているのを見るが、同じくよく例に挙がっている症状の”幻視”と呼ばれる、視覚情報としてハッキリ訴えかけてくる幻覚は私にはあまりなかった。

光線状の光が視界全体に飛び交うのが見えたことはあったが、これは幻覚だなと、その場で判断ができていた。

そういえば、統合失調症らしき症状がひどかった頃の母が、「レーダーがあたる、レーダーがあたる」と、よく言っていた。
(たぶんレーザーのことだと思う)

はっきりとした人間が幻視として見えたことはないが、自宅の廊下を歩いているとき、大勢の人たちが左右をすれ違って行くのを感じたことがあった。

モヤのような人影たちがぶつかることなく私の両側をぞろぞろとすれ違って行く――――・・・

一瞬、恐怖を感じたが、ありえない事という現実検討能力が正常に働いて、あぁ、幻覚症状だなーと、冷静に判断ができた。

リビングの椅子に腰掛けている時には、
   ――――今、子供の幽霊が目の前を通った――……
と、思った。

見えたわけではないが、人がいると脳が認識する。
廊下で透明な人たちとすれ違った時のような認識感覚だった。

この奇妙な幻覚が起こるときは、自分の頭の位置と同じくらいの背丈の人が歩いて行く。
だから、椅子に座っているタイミングでこれが起こった時は 子供の幽霊が通った…!という認識に至ったのだと思う。

幻聴は、私の場合は人間の声が聞こえる事はなく、物音の事があった。

私を追いかけてくる大勢の足音で ハッ! と目が覚める。
周りには誰もいないので幻聴だったんだ・・・と、思う。

今となっては過ぎてしまった出来事なのでこんな風に冷静に書き綴れるが、これらの幻覚が起きている最中は もんのすぅ~んごっく 怖い‼

いもしない人間の存在や足音を知覚しても、その場でこれは幻覚だと判断ができていたので騒がずに済み、閉鎖病棟に逆戻り……なんてことにもならずに済んだが、せん妄や錯乱状態にある人がどれほどの恐怖を感じているのか、いかに必死に逃れようとしているのかが分かるような気がする。

慌てふためき、保身に必死になるのも無理はない……夢のような恐怖感だ。

―――そう…、現実では感じないレベルで楽しかったり、おいしかったり、怖かったり、怒れたり・・・っていう夢を見たことはないだろうかー?

高いところから落ちてものすっごくコワかった~っ!とかー…
(落ちたことないのに)
ちょうどそんなカンジだ。


(4)狙われ・守られ妄想
 大勢の人たちの足音は幻聴だと即座に分かっても、私を狙ってくる集団が存在しているという意識の幻覚は、結構何日にも及んでいた。

  ―――たくさんの人に狙われているのに無事だという事は・・・
     …私を守ろうとしている集団が存在しているからなのだ!!――――

統合失調症様相の幻覚が続く中、私の頭の中でこんな間違ったひらめきが起こった。

交通整理や警備員の誘導が自分だけを守るために、一般人に紛れて保護してくれていると思い込んだ。

私にとっては、自分を消そうとしてくる集団と、守ろうとしてくる集団とが存在している世界が現実だった。
ちょっとした知り合いなどはバッタリ遭うと、どちら側だろう…と、思案する。

仲良くしてくれている人たちにも被害が及ぶかも…と思い込んで、幻覚妄想が激しい時の狂った私は、守ってくれる集団に見せれば保護が受けられるパスを作ったりしていた。
(これは幸い誰にも渡すことなくおかしさに気付く事ができた)

以前に数字によるヒラメキから思い至った、電話番号の ”✕✕✕✕人の中の◯◯人が生き残れる” という間違った思い込みがここでもまた絡んできた。

私の頭の中だけの現実物語に連動するかのように目に触れる数字を ”〇人殺されるんだ…”とか、”守られる人物が○○人確定したんだ…”とか思い込んでいた。
みんなが助かる方法はないか…と本っっっ気で悩み苦しんだり・・・

たびたび正気に戻るのがそもそもの私の幻覚妄想症状だったが、大抵その都度、その内容の妄想は完結していた。

だが、この 狙われ・守られ妄想に限っては日をまたいでの(何週間?何ヶ月?かの)シリーズ物だ。

この妄想は消えてもまた現れ、現れてはまた消えを何日にも及んで繰り返し続けた。
数字が目に入ると、とにかくこのストーリーに絡んだ間違ったヒラメキが起こってしまうのだ。

この時期になると、記憶が飛んだりはしなくなっていたように思う。
というか、毎日逃げて、身を守り、周囲の人間を敵か味方かを見極め――という作業に一杯一杯だったように記憶している。

誰かが狙いに来たと思い込めば部屋のカーテンを閉めきり、守ろうとする仲間に無事を知らせなくちゃいけないと思い込めばカーテンを開け、さり気なく窓際をウロウロしてみる。

マズいっ!敵が来た‼ と思うと身を隠す…を繰り返す日々――――
  ――――周囲の人をどっち側だ?と、観察して…………

…………あの頃、訝しげに凝視してしまった皆さん、ごめんなさい・・・・・


(5)通院状況
 医者:「付け狙われている妄想はありますか?」
I医療センターの精神通院を続けるさなかにそう質問されたことがあった。

 私:「守られてる妄想があります」
私の中では狙ってくる集団と、守りに来る集団とが存在していたが、後者の方だけを答えていた。

――――外部に危害を加える恐れがあるとみなされると、また閉鎖病棟に入れられるかもしれない――――・・・

狂っていながらもそんな知恵が働いて、狙われている内容のことは医者には言わずにおいていた。

・・・・・
そんな幻覚妄想もかなり治まってくる時期が訪れると、今度は頭がクラクラとする…めまいの様な症状が出始めた。

これを医者に話すと、「来ましたかぁ?クラクラ来ましたかぁ?!」と、やっぱりといった様子で食いついてきた。
向精神薬の副作用らしい。

薬は毎回5種類くらいを処方されていたが、リスパダールとかいう薬を減らしてもらって徐々にフラつきは弱まった。

このリスパダールという向精神薬は太る副作用もあるようで、受診後は帰り際に「太らないように」と毎回言われていた。

“リスパダールは確実に太る”という文献を読んだこともあるが、私の場合は逆にやや体重が減った。

体の痺れは日に日に回復していったものの、手と顔先はまだシビレが残っていた。
喋りづらいし、食べにくい。
咀嚼、嚥下の動作がとても疲れる。

『食事』という動作自体がとても疲れるのでゆっくりでしか食べることができず、途中で満腹感が来てしまっていたので、普段通りの量を食べることができなくなっていたのだった。
それでもこの頃はまだ少食の人並み程度の食事量は摂取できていた。

 なるべく薬は使いたくないという希望があったので、精神の具合がだんだん良くなっていっているような気がして来た頃、毎日食後に飲むように処方されていたワイパックスという薬を頓服にしてもらった。

「ほん っっとに 具合悪かったら、あんまり無理し過ぎずに薬、飲んでくださいね」と言われた。

「具合が悪いとは、どんな風に・・・?」
よく分からないのでそう訊ねたら、
「追い詰められるような・・・・」
という、これまたよく分からない返事が帰ってきた。

「あんまり無理すると、またなっちゃうから・・・」と。
様々な症状が出たので、どれにまたなちゃうのかも解らないんだけど―――

 外界の人たちとの関わりもありながら、自分の中での幻覚世界と本物の現実世界との折り合いもつけながらで数ヶ月の精神通院生活が過ぎていた。

記憶が飛ぶことはもうなくなっていたが・・・・・・

ある朝の早い時間、ふと気がつくと外に立っていたことがあった。    家のすぐ前の道路に・・・。
手にはエコバックを持っている。

   ―――これから買い物に行くのかぁ――・・・

買い物用のバックを持っていたのでそう思い込んだ。
(ココは覚えているが、まだ半分寝ぼけた状態だと思う)

  ―――寒いし、嫌だなぁ〜・・・
・・・そう思い、買い物に行くのはやめて家に入ることにした。

玄関に向かう時の足元が視界に入ったーーー・・・・   ?⁉?!‼

!なんと、右足に黒い手袋を履いている。
左足は室内のスリッパのままだ。

これを見てはっきり目が覚めた。
最後の記憶は昨夜ベットで眠ったところだ。
これは完全に寝ボケた。
これは記憶が飛んだ内には入らないな、うん。

‐-----記憶が飛ぶことはもうないよ―――。
私はそう思うことにした。

  ―――記憶喪失は怖い・・・――――――

 精神通院を続けながらだんだん良くなりつつあった梅雨時の頃、I医療センターで診てもらっていた担当医が、2ヶ月後に遠い他都道府県に転勤することになったという知らせを受けた。

後任の精神科医が決まっておらず、おそらく今よりもっと混む事になるだろうと言われた。
何時間待てば診てもらえるのか分からないから、別の病院に移ったほうが良いよ と、この担当医が勧める。

・・・・・
担当医の転勤があと一ヶ月ちょっととなった時に、自宅から一番近いN心療内科へ電話してみた。

だがこの病院は、初診は当日の朝の9時、開院時間にかかってきた電話の人しか受け付けておらず、初診の受け入れは一日3件までだと言われた。

受診したい日の朝9時に電話をしてくれと、9時前にかかってきても受け付けられないし、事前予約も受け付けていないからと。

そんな形式では9時にかけてみてもつながらないかもしれないし、3人までの初診の受付にも入れないかもしれない・・・。
そう思って、この病院はあきらめた。

当日の直前まで診てもらえるかどうかも判らないなんて、ずーっと不安でしょうがない。

・・・・・
その次に家から近そうなSクリニックに電話してみた。

予約を取るにしても、1ヶ月以上先の事―――
…まだ早すぎるかなぁと、思いながら探し始めていたのだが・・・・

一番近い日で予約が取れるのは、電話をしたその日から一月半も先だと言われた。
もう、予約でいっぱいなんだと・・・。

確かに、「精神科も心療内科も激混みだから、早めに次を探して予約とっといた方がいいよ」と転勤が決まった担当医に言われてはいたが・・・

もっと早く電話しておけば良かった―――・・・

もうどこをあたっても一杯だろうから、薬が切れてしまうかもしれないけどこのSクリニックに転院することに決めて、一月半後の予約を取り付けた。
・・・・・

 I医療センターには最初のうちは2週間おきに通院していたが、この時期になると4週間おきの通院でよくなっていた。
診察日には4週間分の薬を処方される。

I医療センターの担当医が転勤してから、Sクリニックの初診を受けられるまでに2週間の間 薬が飲めない期間ができてしまって不安になっていたが、さほど容体が悪化することはなく、初診の日を迎えることができた。

かつて向精神薬の服用を極端に恐れ、飲むのを拒んでいたりもしたが、I医療センターに通院するようになってからは、逆に薬が飲めないこと、規則的な投薬にブランクができてしまうことを不安に思うようになったいた。

I医療センターのお医者さんがとても良い先生だったので、医者を変えなくちゃいけないという事にも不安を感じていた。


(6)転院
 Sクリニックへの通院が始まった頃には、もう真夏になっていた。
初診なので、またしばらくは1〜2週間おきの通院となった。

もう記憶が飛ぶこともなくなっていたし、むやみにケタケタ笑ったり、はしゃいだりもしなくなっていた。

狙われ・守られ妄想も治まっていたが、監視されているのでは・・・という猜疑心が沸き起こっていた。

医療措置入院で閉鎖病棟に拘束されていた私…
旦那のゴリ押しで釈放されたけど…病院からは本来、牢屋の中にいなくちゃいけないと判断されている・・・。

医療関係の全ての人たちに連絡が回って、みんなで私を見張っているのでは・・・?
きっとそうに違いない―――と思い込む時は、やっぱりまだ神経がおかしかったのだろう。

 Sクリニックでの診察内容は、体と心の問診と、日常の生活活動ができているかどうかの確認だった。

「買い物できますか?」
「家事できますか?」
「テレビ見れますか?」

   ――・・・?⁉…テレビ? ww
最初のうちはこの最後の質問が三段オチのように感じていたが―――――…

心身の容体は 手先、顔先にまだ痺れが残っていて、I医療センターに通院していた後期の頃と比べると、不安が強い。

薬を飲んでいない時期があったせいだろうか…転院の不安からだろうか・・・・・
薬を飲めていなかった2週間の間はなんともなかったんだが・・・・・

頓服になっていたワイパックスも、再び毎食後に服用しなくちゃいけなくなった。

 閉鎖病棟に入れられた時から飲まされるようになった睡眠薬はその後、別の病院に通院するようになってからも習慣的に処方され、飲み続けていた。

自分から不眠を訴えたことはなく、眠剤を欲したこともなかったのだが・・・

就寝前に毎日服用するように処方されていた睡眠導入剤は、初めのうちはよく効いていて、朝までぐっすり寝て翌日それなりの活動もできていたが、次第に飲んでも寝付きが良くならない上に 翌日、目が覚めたら体がだるくて仕方がなくなってきた。

Sクリニックでは頓服として処方された眠剤だったが、眠剤を飲んでしまうと体が起ききらないようで、次の日は夕方までなんにもできない状態だ。 寝不足の不調のほうがよっぽどマシなくらいに。

そのため、どれだけ眠れなくても眠剤は一切使わなくなった。
そして、こうなると不眠症状が出てくるようになってしまった………

夜眠れないのは、昼寝をしているせいだと考え、昼間は眠くなっても寝ないようにしていたが、夜もやっぱり眠れなかった。

昼も夜も眠れていない日が数日続いたので、昼間でもいいから眠れる時には寝ておこうと思ったのだが、眠れない。
なぜか昼も夜も眠れない。

この症状はそんなに何十日もは続かなかったが、スゴく体がしんどくて、このまま眠れずに死ぬのかと思った。
それでも一日一日は、眠剤を飲んだ翌日ほどのしんどさではなかった。

Sクリニックの通院を重ねても、何だか気分が日に日に落ちていっていたように思う。
以前より疲れやすくなって、歩くのに足を前に運ぶのも、一歩一歩が重い…

食料品を買いに行くにも疲労感がギリギリな感じで、このころは明日・あさって、買い物に行けるかなぁ…と、スーパーから帰宅するたびに思っていた。


(7)うつ病?
 疲れやすいし、動悸や呼吸の浅さを感じてやたらと不安になる・・・
そんな症状が続いたある日、「新しい良い薬があるんですよ」と言って、サインバルタという薬を14日分処方された。

処方箋で薬局から薬を受け取ると「こちらをよく読んでください」と、薬の説明や服用の注意事項が書かれたリーフレットも渡された。

サインバルタという薬は抗うつ剤だった。
主成分が覚醒剤と同じで、飲みだすとやめることが難しいというウワサの抗うつ剤・・・・・
嫌だなぁと思ったけど、医者の指示通りに飲まないとかえって悪いとも聞く。

私は14日間の間、処方されたサインバルタカプセルを、指示通りに毎朝1錠服用した。

服用しながらも、抗うつ剤に対する嫌悪感みたいなものが消えることはなかった。
できれば抗うつ剤なんか飲みたくない…と感じながら毎朝服用する。

でも、勝手に急にやめてはいけないと説明書にも書いてある。
医師の指示通りに正しく服用するようにと…。

通院予定の次の診察日に、抗うつ剤を切ってもらうように頼んでみようか。
言うだけ言ってみて、ダメだったら服用を続ければいい・・・。

そんなつもりで医者に言ってみた。「抗うつ剤はもう、いいです」と。
それはダメだと言われるかも…と、思っていたが・・・

「そうですか」と、あっさり抗うつ剤は処方されなくなった。
飲み始めたら絶対、急にやめてはいけませんと説明書に書いてあったが・・・

医者が受け入れてくれたんだからいいんだろうな、勝手にやめたわけじゃないもん。
なんだ…すぐやめれるんじゃん。

この時はそんな風に気軽に考えていたのだが・・・・・・・・

・・・・・
抗うつ剤は飲み始めてから効果が現れるまでに2週間から1ヶ月くらいかかるのだとか。
この抗うつ剤の効果があったのか、ひと月後くらいに、働いてみようかなー・・・という気持ちになった。

あまり複雑な作業をこなせる自信はなかったので、単純なティッシュ配りの仕事でもしようと思った。

応募して面接してもらって結果を待って勤務日を決めて…と、勤務初日となったのは、働こうと思いたってから更に数週間ほど過ぎてからだった。

仕事をするという気の張った状態だったので、気分の変化にも神経が向かわなかったし、それなりに動くこともできた。

初日は指導の方と一緒に配る場所を数カ所めぐり、配り方の要領や、帰ってからの報告書の記入の仕方を教わるなどで、1時間ほどで終わった。

そして出勤2日目。
この日は3~4時間ぐらいの勤務だった。

ティッシュを配るだけなので頭を使うこともなく、難しくもないのだが、とてつもなく疲れた。

その日は疲れ過ぎが原因のような不眠状態で朝を迎えてしまった。

眠れてないし、昨日の疲れも全然とれてない。
今日も仕事があるのに・・・。

―――それは、今まで感じたことのない異様な疲労感・・・・・
少し出かけてみることすら、ままならなさそうな疲れ具合・・・・・

これでは仕事は続けられない・・・・・
そう感じて、この日のうちに辞めるという旨の電話連絡をした。

疲れぐらいで…って思われるかもしれないけど、しょうがない・・・・
正直に「とてつもなく異様に疲れて今日も出れそうにありません」と電話越しに伝えた。

中途半端に飲んだ抗うつ剤が、中途半端に効いて切れたのだろうか――――

とにかく、この時の疲れっぷりが病的にひどかったので、やっぱり私はまだ病気なんだろうなぁ…と、思った。

 その数日後もお茶に誘われて出かけて行ってみても、私はただ黙って座っているだけだった。
  ――――なんとな〜く気分が浮かない………………

無表情で座っていたと思う。
話しかけられれば返事くらいはするが・・・・・

「楽しくない・・・しんどいー・・・・、ウチで一人でいると死にそう」 なんて言っていた。
(今、思うと・・・すごく失礼だ―――楽しくないって言ってる…)

みんなが、 多治見さんは今はそういう状態なんだ…と理解してくれているようで、こういう気心の知れた友達とは、誘われればお茶ぐらいには行けた。

楽しくはないが、どこに居ようが、何をしようがどうせ楽しくない。

黙ったままブスっと座っているだけの私を気にせず、みんなはいつも通り楽しそうに談笑してくれていた。
家に一人でいると、ホントに死にそうだった。

日常生活や家事などもなんとかこなしつつ、疲れるなー・・・なんだかつまんないな〜…
みたいな気分が少しずつ大きくなりながら、月日が流れていった。


(8)むずむず症候群?
 このくらいの時期に、足を動かさずにいられない奇妙な感覚に襲われることがあった。

寝ようとする時や、疲れで横になって少し休みたい時とかに・・・
椅子に座っている時などもムズムズが起こったが、リラックスしたい時ほど、足を動かさずにはいられない衝動が強い。

休みたいのに…ウトウトするのに―――バタバタと激しく動かさないことには、とにかく治まらない。

人に説明するにも理解されない事だった。
旦那にこのことを話しても、「何だそりゃw」と、笑われる。

  私:「足が動きたくなる・・寝たいのに・・・」
 旦那:「寝りゃーいいじゃん」
  私:「足が…動くんだよねー・…・・動かすと気が済むんだけど・・」
 旦那:「じゃあ動かせばいいじゃん」
  私:「疲れるー・・・体を休ませたいんだけど・・・」
 旦那:「じゃあ、休めば?」
  私:「じっとしてると足が気持ち悪くて・・・」
 旦那:「はぁ?!訳わからんっw」

――――――――わかってもらえない……こんなにしんどいのに・・・・・

通院している精神科の先生に言ってみても、何か解らないようで、精神安定剤を処方されたが全く効き目がなかった。

コレには本当に困る。
動かすのを我慢してみると、その反動なのか、思いっきりジタバタ猛スピードで動かさないと、ムズムズの不快感から逃れられない。

眠れずに、まだ夜明け前の早朝に、少し遠い24時間営業の店まで歩き出したこともあった。
歩いている最中は、普通の感じでいられた。
特に、早足で歩き続けると。

かなり疲れて帰ってくるが、休みたくても足が疼く・・・・・
ハイテンションになるのともまた違う、とても疲れる気味悪い症状だ。

この変なウズウズが足だけではなくなった時期が少しあった。
体が気持ち悪い。
吐き気とかの気持ちの悪さではなく、あの足のムズムズが体中な感じだ。

のた打ち回ってわめき散らしたいくらい、とてつもなく気分が、体がイヤなカンジだ。
どこが痛いというわけでもなく、ただただ不快。

むやみに大声を上げているのが家族に知られたら また気が狂ったと思われてしまうので、声を押し殺して床をのたうちまわった。

どこか痛がれる所があるほうが、よっぽどマシだ。


(9)拒食
そんな奇妙な症状が出なくなった頃、食欲が極端に落ちた。
何の活動をする意欲もない。

家事は必要最低限の事は頑張ればできる感じだった。
かなり頑張ればだが・・・・・。

ホントはず〜〜〜っと寝ていたいけど…家族のために夕飯は作らなくちゃいけないから、かなり頑張った。
疲れるというか、眠いというか―――とにかく、理想はずっと寝ていたい。

でも、食後の薬は飲まなくちゃいけないし…で、昼食時にも一旦起きなくてはならない。
起き上がるのがものすごくしんどくてキツい中、耐えて堪えて体を起こす。

お腹も一切空いていないが、薬を飲むために何か食べなくちゃいけない。

食欲が全くなく、カロリーメイト一本も苦しくて半分を残していた。
カロリーメイト1本は2食分だ。
それでもこの頃の私には多すぎた。

朝はホント苦しくて、ひと口が限度だった。
こんなの食べていないに等しいから、昼はなるべくたくさん食べたい。

無理がきけば、3口いけた。
どうしても苦しいと、2口でギブアップ。
夜も2、3口が精一杯だった。

基本寝ていて、薬を飲むために無理して食事時に起き、薬を飲んではまた寝て・・・、夕食の支度、夕飯、片付けを済ませたら、お風呂に入って本格的に就寝―――という毎日だ。

一日の食事の総摂取量は5〜6口で、睡眠時間は20時間くらいだったと思う。

「お前はコアラか」と、旦那にツッコまれる程ほとんど動かず、連日20時間睡眠だったせいか、ここまで食べられなかったにもかかわらず、体重減少は数キロ程度だった。

排便も一ヶ月ぶりのように感じたある日、実際には何日おきに出るのかが気になって、カレンダーに記録して調べてみたことがあった。

次の排便は50日後だった。
50日ぶりの ごく少量のうんこは、ほぼ白に近いうす〜い黄土色で、乾きかけの紙粘土みたいな質感(触ってないけど)の、ぱそっとした感じで水に浮いていた。
ちょうど50日?!っていうのにも驚いたが―――

そんな頃だっただろうか・・・
自分がこの世に存在していることに違和感を覚え始めたのは・・・


(10)ど鬱
 生きてる感がないというか…ここにいながら、別の世界に漂っているかのような・・・
自分だけが膜みたいな物の中にいるような・・・

  ・・・私はこの世の異物…的な感覚・・・

自分がクロマキーで編集されて、この世界に無理矢理はめ込まれてるってカンジ?
違和感ありまくりの…あの輪郭がザラザラしたヤツ―――

そう、魂の輪郭線がザラつく・・・
生きていることが違和感でしかないのだった。

通院を続けるのも億劫に思えた。

いつまで通院しなくちゃいけないんだろう…どんだけ通い続けても良くならないじゃん・・・
・・・って、ある日首を吊った。

本格的に準備してではなく、衝動だった。
つま先がついた。

 ーーー私は一体、何をやっているのだろう・・・ーーー
この日は診察予定日、とりあえず病院に行こう・・・。

毎日、毎時間、毎分毎秒、意識があることに耐えなければいけないのがとてつもなく苦痛で、一秒一秒を過ごしていられなかった。
毎瞬がつらい…

生きていられなかった。
あの時はもう、どうしようも・・・どうしても・・・・
・・・・・試しにでも吊ってみないと、どうにも気が済まなかった。

どうせ死んでたかもしれないんだから、もうどんな薬が出てきても飲もう…抗うつ剤でも、何でも・・・
そう思いながら病院へ向かった。

 「テレビ見れますか?」の問診・・・この意味が分かった気がした。
見れていない。
見れない・・・つまらなすぎて…見ちゃいられない。
そんな状態だった。

この世のすべての物事が人ごとのようだ。
したい事もない、欲しい物もない、何にも関心が持てない。

ちょっと前までは何日間うんこが出ないかに興味があったのに・・・
食欲が一切なくても、ひさびさの排便がピッタリ50日ぶりだったことに
 ”おおっ!”と思えたのに・・・・・

何にも心が動かない……わざわざつまらないと思う事すらなくなってきた。
この世のすべてに興味がない・・・・・
消えたい・・・この時空に居続けられない・・・

テレビつけっぱなしでぼんやり時間を潰すということも、もうできなくなってしまっていた。

あぁー…1ヵ月生きれた・・・

今月は生きてたけど、来月はどうかな…

今回セーフだったけど、次回の診察日まで生きていられるだろうか・・・

この頃、月1回のペースで精神通院していたが、そんな風に思いながら息絶えたい中、毎日を生き耐え抜いていた。

そんな中、やっぱりまた抗うつ剤を処方されだした。
前回、14日分を処方されて飲んでからは、半年が経っていた。

抗うつ剤を飲みながらのドーピング生存・・・父が亡くなってからは2回目の春が訪れていた。

・・・・・
再び抗うつ剤を飲みだして数週間後からは、…気分は良くならないが、生きてはいられるような感じくらいにはなった。

手のしびれは治まったが、顔先のしびれはまだ残っている。
喋りにくくて、会話も楽しくない。
食べづらいので食事も苦痛だ。

でも、ピークの頃よりかは、はるかに食べられるようになっていた。
病前の健康な頃の三分の一くらいまでは食べることができるようになってきていたと思う。

一日一錠のサインバルタで1〜2ヶ月後、ここまで回復できた。

「最初は1錠からで、良くならなかったら2錠・・・3錠まで数ヶ月かけて増やしますね」そう医者に言われていた。
一日一錠から服用して、だんだん増やしていきますと、リーフレットにも説明書きがあった。

元気になるまでこの薬の量を徐々に増やしていくのが一般的らしいが、そうしてしまうとやめるのがとても難しくなりそう。

元気は出ないが、生きていられそうな感じにはなったので、「1錠のままで大丈夫です」と、診察の時に申し出た。

「飲めばいいじゃない、飲むだけなんだから」なんて医者は言っていたが、何かが起こって抗うつ剤が手に入らなくなったら大変だ。

規則的に毎日服用しなくなった時のとてつもない不快感…あの生きてはいられなくなるほどの、何とも言えない心身のカンジ・・・

抗うつ剤が手に入り続けても、薬を飲んでないと居ても立ってもいられない余生なんてすごく嫌だ――・・・

安定した軽いうつ状態……この感じのうちにまた仕事を始めようと思った。仕事があれば気を張っていられるので、鬱々としてもいられない。

とにかく、一生抗うつ剤を飲みながら生活するのは嫌だ。
生き甲斐や楽しみを作って断薬ができるようにしたかった。


第六章【転機】

(1)働いて存在価値を
 仕事を始めることに決めた私はさっそく求人情報誌を調達し、家から近くて私でもできそうなパート・アルバイトのページを探した。

歩いて十数分ほどであろう住所が記載されている居酒屋が、ランチ営業を始めるためホール係を募集してるという広告を見つけた。

喫茶店やファミレスでのホール係の経験は10年以上あるので、仕事内容としてはこなせそうだ。
勤務時間もランチタイムの3時間程度だし・・・と思い、この店に応募してみた。

電話連絡にて面接の約束を取り付けることができ、店に赴いてみると料理を作る人と運ぶ人との二人でまわるようなこじんまりとした店だった。

少しは体力も回復してきたような気がするし、そんなに忙しくなさそうな店だ…店長さんもカンジいい人だし――・・・

面接をしてくれた店長さんは30代くらいの若い男性で、明るく生き生きとした方だった。

この頃には躁状態になることは全くなく、1日1錠という少なめの抗うつ剤の力でどうにか生きていた私は明るくなれることはなかった。

無理に作れば面接のわずかな時間くらいなら明るく振舞えたかもしれないが、採用が決まればこれから何度も会わなくちゃいけない相手だ・・・

今後もずっとわざと明るく振舞いながら働くのはキツイので、私はあらかじめ自らを "おとなしい性格だけど、まじめに働きます!″ 的な風にアピールして面接を終えた。

今回探した求人情報誌の中ではこの他に検討している勤務先はない。   ここで決まるといいんだけど・・・。

そんな気持ちで合否結果の連絡を待つこと数日後、「採用です」との電話があった。

――――やったぁー!

週に2,3日の勤務で…という希望も叶った。

初日は私が休みの日にホール係をやるもう一人の新規採用の方との2人で仕事のやり方を教わった。
と、言っても、テーブル番号と伝票の書き方、それと原始的なレジの打ち方を聞いたくらいなのだが…。

ちっちゃい店なので難しい機械の操作はなく、ランチメニューも日替わりが2種類しかないので、覚えるのに苦労はしなかった。
来るお客さんも少ないし・・・・・ランチ営業初日は来客0だった。

その後の勤務日も3時間のうちにお客さんは10人程度の日が多く、体力的にハードではなかったのでこの仕事は続いた。

それなりに疲れはするが、毎日ではないし時間も短いので助かった。
いや、ティッシュ配りを始めた時も短時間勤務だったはず……

あの頃と比べたらずいぶんと疲れにくくなっている。

まだ心が元気になってきたようには思えないが、出勤してしまえば仕事もこなせて 家で過ごすよりかは気がまぎれた。

そう、出勤時間までの数時間を生き潰すことがまだ苦痛な感じではあったが、前みたいに たまらず首吊る程ではない。

テレビは相変わらず見られないが、生きることは我慢できた。

出勤時間までは、横になって目を閉じて耐え忍んだ。


(2)自分自身が楽しめる事を
 趣味もあったほうが良いと思い、息子や旦那からパソコンを教わった。

息子からは病前のかなり前にも教わったことがあるが、ちっとも覚えられなくて何回も同じ事を質問しているらしく、キレながら乱暴なニュアンスで説明されるので、長続きしたことがなかった。

旦那に教えてもらおうとしても同じことになるしー・・・
3回くらい挫折して諦めていたが、今度こそ本腰据えて覚えようと思った。

「趣味を作ろうと思って…」そんな風に言うと、旦那も息子も前より丁寧に教えてくれた。

おかげで、パソコンで友達とメールをしたり、情報の閲覧なんてこともできるようになった。

・・・・・
パソコン自体も趣味として本気で覚えてみたが、ダンスをまた習いたいと思えるようになってきていた。

パソコンで検索して情報を得るという技術も身についたので、市内に近々オープン予定のダンススクールがあるという情報を入手できた。
ずっと気になっていたヒップホップだ。

習ったことのないジャンルのダンスだし、歳も歳なので ちょっとついていけるかが不安だったけど……

『新オープンでみんな初めてのスタートだから安心!』と広告がうたっていたことに踏み出す勇気が持てた。

  ――――それと…

かつて初めて市内にヒップホップのダンススタジオができた時、私はすでに三十路を過ぎていて、もうおばさんなのにヒップホップなんてなぁ〜…と、引いてしまっていた。

  そのまま年月が経ち――――

40歳を過ぎた時に、30代なんて全然若かったな・・・始めだしておけば良かったー…ヒップホップ・・・…と、感じたのを思い出した。

今ココで始めださなければ、50を過ぎた時 また同じように感じるんだろうな・・・
・・・40代なんてまだ全然若かった…って―――

10年後に同じ後悔をすることになるのは嫌だったので、勇気を振り絞って申し込んだ。

 初回は無料体験レッスン会で、私を含めて3人の生徒が集まった。
私以外の2人は中学3年生で、同級生のお友達だという女の子二人組だった。

予想はしていたが、自分だけスゴいオバサン・・・だけど、二人ともダンスを習うのは初めてだそうで、レベル的には問題なくついていく事ができた。

先生もとても丁寧に教えて下さる方で、基礎中の基礎…入門編みたいなことからゆっくりとしたペースで教えてくれる良い先生だった。

超~~スローモーションな動きから振付をこなしていって、それをだんだん速く動けるように繰り返して練習する・・・複雑な部分は4拍…もっと短く2拍だけーーーという具合に……

こんな風に踊れるようになっていけるのか・・・!と感激し、これは続ければ1曲踊れるようにもなれそうだぞ !! とも思えて意欲も増した。

そんなこんなで初日の体験レッスンはとても楽しかったけど、とっても疲れた・・・。
でも、慣れればこんなに疲れなくなってくるのかも…そう思って入会した。慣れないようなら辞めればいいしね。

初回のレッスンの翌日以降は、疲れすぎて三日間下痢をしてご飯もあまり食べられなくなったけど・・・・・。

ーーーよっぽど習いたかったらしいーーー
来週からのレッスンではどうかなぁ―――・・・

毎週三日間もお腹を壊すレベルで疲れるようであれば退会すればいいんだから・・・とも思いながら入会したのだが、レッスンを重ねるにつれてそこまで疲れ果てる事もなくなってきたし、基礎から丁寧に教えてくれる良い先生に巡り逢えたおかげでだんだん踊れるようにもなってきた。

嬉しいし、ものスゴく楽しいっ…‼
  ―――そうだ、ダンスが好きだったんだ――・・・

半年前は再び踊りたい気持ちになれるとは、思ってもみなかった。
月1の精神通院・一日一錠、抗うつ剤の服用を続けながらではあったが…、以前の自分に戻っているように思えた。

この頃に、ず~っと続いていた顔先の痺れがようやく治まった。
違和感なく喋り、食べることがやっとできるようになった。

気づけば、飲食店の出勤前にテレビを見れるようにもなっていた。

この勤め先の店長が作る料理がすっごく美味しくて、だんだん食欲が戻ってきていた。

顔先の痺れが同じ頃に治まって、食べにくさも感じることがなくなったので、一人前を普通に完食できるまでになった。

ただ、ヒップホップの体験レッスンの翌日は胃腸の具合がメチャクチャ悪くて、サラダだけにしてもらったのだが・・・

店長がすごく心配してくれて、種類豊富に野菜を使って作ってくれたおかげでおいしく食べられた。

この店長の美味しいまかないのおかげで、私の拒食症状は完全に治りきったのだった。

そんな生活にも慣れてくると、私が重い精神病であると認められる――…
『精神保健福祉法第32条』――に該当している精神病患者だなんて事が自分でも信じられない。
見張られ妄想も意識過剰だったな〜と、おかしく思える。

神経もまともに戻ったようだった。
ただひとつ、疲れやすさだけは回復しきっていないように思えた。

・・・毎日20時間寝ていたことを思えば…
        ・・・かなりマシにはなったが・・・


(3)減薬
 最終的には薬なしで生活していけるようにしたい。
医者にもそう話していた。

疲れやすい以外はすっかり元気で元の状態と変わりなくなった頃、抗うつ剤をやめていけるようにと相談した。

いきなり飲まなくなるのは、かえってひどくなるのでいけないという。
この ”ひどくなる” のレベルというのがハンパないってのは経験済みだ。

毎日飲んでいた抗うつ剤を、まずは1日おきに服用するように言われた。
コレを、2ヶ月くらい続けるのだそう。

具合が悪くならなければ、次は2日おき。
コレも2ヶ月ほど続けて様子を見て大丈夫なら3日おきに飲む。

抗うつ剤のおかげで元気に活動できているだけの場合、減薬の途中でまた症状が悪化するという。

「具合悪くなったら、また毎日飲めばいいからねー」
完治の確率は低いらしく、医者がそう言っていた。

・・・・・
かつて私が14日間だけ抗うつ剤を飲んで急にやめた時に襲われたとてつもない具合の悪さは、離脱症状だったのかもしれない…。

一度大変な思いをしているので、今度は慎重に、焦らず、減薬を進めようと思った。

早くやめたいのはやまやまだったが、断薬に至る事は憧れ程度に留めて、絶対やめるとか、いついつまでに…なんていう目標なんかは掲げないほうが良さそうだ。

焦ってムリに減らすと――――…離脱症状は ほんっっと大変だ・・・。

前回の失敗もあったので、
” やめられなくて ずっと抗うつ剤と付き合い続けての人生になっても仕方ないなー……現にそうやって生きている人は大勢いるんだから―――"
くらいの気持ちの余裕でもって臨むことにした。

1日おきから、2日おきに…そして3日おき。

今回は何十日・百何日もかけ、かなり段階を追って慎重に減らしていったおかげで、一度も心身の具合が悪くなる事はなかった。

3日おきでの投薬で数カ月が過ぎたころ、元気なままだったので、
「じゃあ、一回お薬 切ってみましょうか」と、いうことになった。

「ダメだったらまた飲めばいいから、一旦やめてみるってことで――」
医者はこれで完治できたようには感じていない様で、診察終わりにそう言っていた。

抗うつ剤を再び正しく服用し直してから断薬に至るまで、一年足らずだった。

これは私が聞いたことのある話と照らし合わせた限りでは、かなりのハイスピードだ。

このまま薬を飲み直す日がまた来なければ・の話だが………

断薬したばかりの頃は、まだ薬剤の血中濃度が下がってないので、うつ病が完治していなくてもしばらくは元気でいられるという。
血中濃度が下がりだした2〜3ヶ月後が危ないんだとか・・・

医者も最後に「ダメだったらまた飲めばいい」と言葉添えしていたように、1年足らずでまた具合が悪くなって精神通院の再開となる方が多いという話は私も聞いたことがある。

薬を完全に断ち切ったという事を友達に話したら、「抗うつ剤って、飲み出したら普通そんなに早くやめられないんだよぉー!? スゴイね〜!!」
と、喜んでくれちゃってる様子だったが・・・

今後、私はどうだろう…? --------どうかな~・・・
   ・・・・・・と、若干不安に思いながらも…

まぁ、おいしいまかないを作ってくれる優しい店長のもとで仕事も続いているし、ダンスが最高に楽しいしぃー !…大丈夫だろうと安心していた。

  なのに・・・


(4)喪失
 ・・・カナシイシラセ・・・

プロダンサーで、副業としてインストラクターをやっていたダンスの担任の先生が、本業のダンサーの仕事が入ったのでこのスタジオには教えに来られなくなるという…。

幼児クラスは後任のインストラクターに引き継がれるが、私の参加していたオープンクラス(年齢の上限がない)は生徒の集まりが悪く、なくなることになったと・・・。

確かに3、4人から増えることはなく、一人、また一人と減って、最後の1ヶ月間は生徒は私一人だけだった。

この先生が気に入っていたのに・・・残念だけど、オープンクラスがある 他のダンススクールを見つけなくちゃ………………

………………………
時を同じくして、働き始めてから一年以上を過ごし、拒食症が治ったこの飲食店が閉店することになってしまった。

ランチタイムの売り上げは赤字だろうな~とは察していたが、夜のバーの経営状況も思わしくないということで、来月に店を閉めて就職することにしたって――――・・・
そう 店長から聞かされた…。

優しい店長もいるこの店の仕事があるおかげで、存在意義や責任感を持ってここまでやってこられた感があった。

新しい仕事、見つけなくっちゃ・・・
せっかく慣れて、店長もいい人だったのに・・・・・
もう四十過ぎてるのに、働き口見つかるかなぁ・・・・・・

私の頭の中にぐるぐると不安が渦巻き始めた。
抗うつ剤を完全に断ち切ってから3ヶ月後くらいに、自分を維持できている主要要素を一気に二つとも失うことになるとは………

…………………抗うつ剤の血中濃度が下がってくるであろうこの時期に不安を抱えた私は、話を聞いてくれそうな気心知れた友達を捕まえては悲しみを吐露していた。

………………………
だが、なくなることになったものは仕方がない。

ダンススタジオは10年以上前に市内に初めてできた、あの例の30代の頃の私が入るのをためらったダンススクールに入会することにした。

最初に習い始めた新オープンのダンススクールでは全員が初心者だったが、入りなおした所では元から2人の生徒さんがいて、やっぱり二人ともまだ中学生と、とても若かった。

ここで習い始めてからすでに数年経っているといい、二人ともかなり上手だ。
前のダンススクールでの受講経験なくしてここに来ていたら、きっと挫折していただろう・・・。

私は8ヶ月間だけだったけれどもヒップホップを習って、そこそこは踊れるようになっていたので、あまり彼女たちの足を引っ張ることなくレッスンに参加することができた。

先生も私のレベルに合わせて指導してくれるし、ここでもまた楽しくダンスを続けることができるようになれてホッとした。

と・習い事はまぁ、入れてもらえるだろうけど・・・、

問題は仕事だった。
働きたくても入社できるとは限らないから…。

・・・・・
パソコン操作ができるようになっていた私は、求人情報のページを連日眺めてアタックしていた。

紙媒体の情報誌よりも掲載がとてつもなく多いなーと思ったが、全国各地の求人が見られたり・・・と、インターネットならではの閲覧でむやみに情報量が膨大なだけだった。

この時もやっぱり近所が良くって、条件を絞りに絞って徒歩圏内のカラオケボックスに応募してみた。

パソコンから応募ができるようになっていたので、入力して送信。

――――パソコンに返事もないし、電話も来ない・・・

連絡がない場合は電話してくださいとも書いてあったので、電話してみると
「今、店長がいないので、店長が来る予定の◯曜日の◯時にかけ直してください」と、言われた。

言われた日時にかけ直してみたが、また店長がいないと言う。
今度は、「店長が来たら折り返し電話します」と言われたので、電話番号を伝えて切った。が―――

何日経ってもこの店から電話がかかってくることはなかった。
  ―――歳がいってるからかなぁ〜
もう、この店はいいや・・・・・

次にパソコンで応募したところは少し家から遠かった。
スポーツクラブの受付の仕事だ。

スタジオプログラムにダンスも取り入れているスポーツクラブで、わずかながらでもダンスに関わった職に就けることに憧れていたので若干 遠くてもやってみたいと思った。

このスポーツクラブからは、履歴書を持って面接に来て下さいと電話があった!

初めてパソコンから応募した先からはコンタクトをしてきてもらえなかったので、コレ通じてるのかなぁ~ーと、パソコンの機能とかを不審に思っている中での連絡だったので、この電話がかかってきただけでもうれしくなった。

履歴書を準備する手間もなんだかワクワクして、楽しい。

だが、ここでは面接までは相手にしてもらえたが、後日、履歴書が不合格通知とともに送り返されてきてしまった・・・・・

この後も面接で落ちるとか、もう決まっちゃいましたとかで相手にしてもらえなかったり…だとかの あーどこーだ が何件かあった後・・・

家から一番近いコンビニで募集している広告を見つけた。
時間も9時から13時と、ちょうど良い。

コンビニは作業が多そうで、大変そうだけど、勤めていた飲食店がなくなってから1ヶ月以上……
…………………新しい職探しを始めだしてからは2ヶ月が経っており、うつ病の再発が心配だった。

店がなくなるという話を聞いて以来、不安が募っていた。
とにかく仕事を持っていたいと思い、ここに応募してみることにした。

ここではすぐに店長に連絡がつき、面接の約束も取り付けることができた。

店長は頭髪 控えめの優しそうな男性だった。
志望動機や経歴などの面談の後、「今、何か病気してたりしますか?」と訊かれた。

「いいえ」
 “今”と言っていたから、精神病の事はわざわざ言わなくていいだろう…… 
   ――言わずにおこう…
そう思って、首を横に振った。

新しい環境の中での再発は多いらしいから、本当はまだ心配なんだけど……

うつ病 治りたてホヤホヤなんて知られたら不採用になっちゃうかもしれない・・・
もういい加減、仕事が決まりたかった。

店のオーナーにも連絡してからじゃないと合否は決まらないから…と、この面接の日、コンビニ店長は言っていた。

「採用になりますかねぇ・・・?」そう不安げに尋ねると、
「多分、大丈夫だと思いますよ」と、書類を整理しながら微笑んでいた。

このコンビニの店長さんもいい人そうだー…何より、検討してきた勤務地の中で…そして、今まで働いた中で歴代一番の近さだ。

ここに決まると良いなぁ・・・。


第七章【断薬後の再生】

 やっとこのコンビニに働き先が決まった。
初めての職種で、覚えることも多そう・・・。

不安だったので、一応頓服で処方されていた精神安定剤の残りを1錠、職場に持って出勤していた。

断薬してからまだ半年も経っていない。
出かける時も、常に財布に頓服薬を忍ばせて生活していた時期だ。

初出勤の日は、商品の棚出しの他にレジ打ちをする先輩の傍らに付いて袋詰めをする作業をした。

簡単なことなのだが、箸やスプーンを入れるのを何回も忘れてしまったり、電子レンジの操作に手こずったりとで、緊張してしまった。

「作業を覚わるまでは来れる日は毎日来てください」との事だったので、数日間続けて研修に入った。

昨日見ていたレジはとても難しそう…だいぶ先にこういう機械の操作は教わるのかな~と、イメージしていたが、勤務2日目からはレジ中心のトレーニングだった。

バーコードをピッとやればいいものばかりでなく・・・とにかく操作が多い。
この処理はどのタブから入ればいいんだっけ――??
で、そのタブはどこにあったけ???

バーコードで販売する商品以外が来ると、いちいち迷子だー・・・パソコン画面ぐらいの面積に一度に表示されている情報量が多すぎるっ…!!

画面のどのあたりにどの要件のタッチすべきタブがあるのかすごく探すし、

1個目を開けてもまた次に進む選択タブがびっしり出てくるし・・・・・、

画面タッチじゃなくキーボタンの操作だったりする時もあるし・・・・・、

画面の中でもキーボタンででもどっちでも操作できるやつもあったり、なかったり・・・・・と、それはもう複雑だ。

ようやく合計金額まで進んでも決済方法もいくつもあり、特定の商品は○○では払えない…とか、残金不足分が他の払い方法と併用できるのもあるけど、できない組み合わせもあったり・・・で、何が何だかー??

「よく見れば画面のどっかに書いてあるんだよ。誰でも操作できるように作られてるんだから、レジは」と、指導してくれてる社員の人は言うけれど…

確かに、画面の中に次にするべき操作や、入力できていない飛ばしてしまった操作をエラー音とともに案内するガイド説明文も出てくるが、テンパって読むことができない。

焦ってしまって、読んでいるつもりでも視線が文字の表面をスルスルと滑り流れ続けているだけで、内容が全く入ってこないのだった。

手順を暗記しておかないと お客様をとても待たせてしまうことになるので、画面のどの辺にどのタブがあるのか、それを押したら次の画面はどこに何が書いてあるのかも細かくメモして、必死に覚えた。

私のメモ帳を見た高校生のバイトの先輩に、
「メッチャ書くなぁーそんなに書かなくても~www」
と、笑われちゃったけど・・・

店で走り書きしたメモも膨大な量となり、自分でもどこに何が書いてあったのかが見つけ出せなくなる状態に。
退勤後に自宅に戻ると、毎日大学ノートに整理し直してまとめていた。

1年後には1冊使い切るほどビッシリで、後に読み返すとこんなことまでメモしておいてある……と、自分でも呆れる・・・・・・

   ――――キ カ イ ハ ニ ガ テ――-------------

複雑なレジ操作の他にもコンビニの仕事は作業が山ほどで、息つく暇もないほど次から次へと仕事に追われた。

もう全て済んだな~・・・なんていう瞬間が本当にない。
勤務中は精神病の再発を不安に思ってる間さえなかった。

それが良かったのかもしれない…。
いや、この複雑な作業に何とかでもついていけて、だんだん覚えていけたのだから、もう完治の自信を持ってもいいぐらいだったのかも・・・・・

勤務日も十何日かを超えると、先輩に傍らで見ててもらえなくても、自分ひとりでおおむねレジ操作ができるようになっていた。

「よくここまで覚えられたと思います!ありがとうございます‼」
トレーニングに付き合ってくださっていた社員の方にそう言うと、
「いやー、多治見さんの努力の成果だよ~」と、ねぎらってくれた。

ここでも、また良い人と巡り会えたおかげで前進し続けることができて、本当に運が良かったと感じる。

前の飲食店の店長もすごくいい人だったが、新たに勤めることになったこのコンビニのスタッフの方々もいい人で、念のために…と持って行っていた精神安定剤が必要になる場面は一度もなかった。

やっぱり疲れやすさが病前ほどにまでは回復しないがー…

………………
以前は1日4時間の勤務でこんなに疲れていたような気はしなかった。
毎日8時間勤務なんて普通だったのに・・・

今ではたまに延長して5、6時間働くと非常にくたびれる…。
毎日なんて6時間でも無理そうな感じだった。

まぁ、ここでは基本4時間で帰れたので、辞めなくちゃいけなくなる程に疲れきることはなかった。

同じ時期に入り直したヒップホップのダンススクールにも通い続けることができて、こちらも短時間ずつではあるが毎日のように家でも練習した。

ダンスに集中していると何もかも忘れられる…
        ―――――――それは それはもう、何っもかもっ!!・・・

あの閉鎖病棟に入れられてからここまで来るのに、2年以上の月日が流れた。

・・・・・
このころ、入院していた閉鎖病棟の見える場所まで行ってみた事があった。

他の患者の皆さんを見捨てて、自分だけが逃げ帰ってきたような罪悪感がずっとあった。

  ……みんなはどうしているんだろう――――

かつての仲間たちの姿が見られるわけではないのは分かっていたが、なんとなく見に行ってしまった。

自分が閉じ込められていたスペースは、せっちゃんが着ている服を洗ってしまった後、干すために開けた窓の隙間から見えた景色でだいたい見当がついていた。

通りからは少し奥まった場所だったが、見上げると建物の3階より上の部分がちょうど道路からでも見えていた。

かつて私が閉じ込められていた病室であろう3階部分の窓の鉄格子に、湿った感じの布が引っ掛けてあるのが見えた。
それは数年前にあの窓の内側から見たことのある光景・・・。

  ――――せっちゃん…、まだあの中にいるんだ・・・

・・・あの頃の記憶・意識にグーっと引き戻される………         今、私がいるこの場所は…手の届かない宇宙のように憧れ、渇望したあの窓の外………! 

今こうやって自由に外を歩くことができている自分がなんだか不思議に思えた。

みんなはずっと外に出られることはないのだろうか…          ………まなみさんも、まだあの中に?

――――みんなのことを思うと胸が苦しい・・・・・

「あの病院のことはもう忘れろ」と、旦那が言っていた。


月日は流れ――――
 人並みに一人前を食べられるようになってから、
「リョー、いっぱい食べられるようになったじゃないかぁ~」
と頻繫に言っていた旦那は、コンビニのパートにも慣れ切った時期になっても食後にしみじみとそう呟くことがあった。

食欲が出てきてからは6年以上、抗うつ剤を断ち切ってから一度も何の向精神薬を飲むことなく5年以上が過ぎ去った頃にも。

このコンビニのパートも、なんだかんだありながらも結局6年近く続けることができた。
接客業なのでそれはまぁ色んなことがありましたが・・・

精神病も、思えば色んな症状が出たものだー・・・。

顔先の痺れに限っては閉鎖病棟にて注射で目覚めて以来、一年半もの間ずっと治らなかったが、脳内モルヒネが氾濫してからというものの 奇妙な症状がそれは目まぐるしく発現・消滅し、ありとあらゆる病態を呈した。

精神科医から正式な病名を告げられたことは一度もなかったのだが、おおむねの精神疾患は全種経験したのでは無かろうか・・・?と思えるくらいに。
 ―――精神病のフルコースだー。

主に、躁うつ病なのかな…?

こんなにまで病的ではないにしろ、以前からその傾向はあったようにも思う。

母の統合失調症のことを調べるために精神医学の本を読み漁るようになってから、自分自身がどうやら鬱持ちであろうことには気が付いてもいた。

医者から診断名を出されたことはなくても、今回、自分がこのような状態になってみて[私は双極性障害に違いない]と、自負(?)している。

再発を繰り返し、完治はしないという噂の…
だとすると…、今の状態は……、ただの寛解・・・?

「そんなふうには考えないほうがいいよ」
そう言ってくれる友達がいた。

そうだ、誰だって明日はどうなっているか分からない・・・
・・・―――いつ、何が起きるか…それはみんな一緒だ!

とにかく、今は心身共に健康で正常に時間も刻めているっ‼

いつ起きても良し・何着ても良し・ヘアメイクして良し・何時に何食べても良し・外に出て良し・何買っても良し・好きなテレビ見て良し・電話して良し・いつでも風呂入って良し・字書いて良し・楽器演奏して良し・歌って良し・踊って良し・エアコン付けて良し・好きな時間に寝て良し・夜更かししても良し・・・・・

トイレに鍵だってかけられる。

あらゆる事が制限されざるを得ない昨今だが、閉鎖病棟での生活と比べたら日常を構成する要素の何もかもが限りなく自由だ。

・・・・・
近年、私が入院させられていたこの閉鎖病棟に仕事で出入りをしていた事があるという方と知り合った。

出入りをしていたのは、ちょうど私が鉄格子の中に閉じ込められていた時期のようだ。

その方の話によると、スタッフルームには病室内が監視できるモニター画面がずらりと並んでいるのだそう。

「私もその中に入れられていたのよ。精神病、ひどくて」そう話すと、
「あなたがそんな精神病者には見えないよ?」と、驚いていた。

 牢屋みたいなところに閉じ込められるほどのキチガイになったら最後、二度と正常には戻れないというイメージがやっぱりあるらしい。
私も最初はそう思っていた。

治ったばかりの頃は、旦那も「ホントに治ったの?」と懐疑的だった。  正気に戻ってはまた狂いを何回も何回も繰り返していたから仕方ない。  

私がギャグで分かりボケをかましても、
「リョー・・・、ギャグか再発か分からん……」と、ベソかき顔で困惑されてしまう。

自分でもあの当時の私を客観視したら、正気に戻ることがあるとは到底考えられなかっただろうし、時間感覚が狂いだした当時は自分でももうずっとこのままなんだと思っていた。

時間が分からなくなったから、もう社会には出られないなー…と。

今回、こんなキチガイがここまで回復することもあるんだっていう事を広く知ってもらいたくて、この手記を書きました。

そして、閉鎖病棟に入れられているのは不当に閉じ込められているとしか思えない人たちがほとんどだという事も…。

病室に入れられた時は自分が一番キチガイのくせに、なんで私がこんな人たちと一緒にされるの?って思ったものだが、そもそも壊滅的に狂っておられるような方は私以外いなかったし、みんな穏やかでいい人ばかりだった。

家族には受け入れ難いクセなり、神経症みたいな事とかで不都合だから連れて来られたのかなー…とか・・・想像してしまう。

認知症や身体障害者の方たちも・・・

福祉施設で働いてる人から聞いたんだけど、職員の手にも余る状態の利用者を家族から「もう閉鎖病棟へ入れてください」と頼まれて連れて行ったりすることもあるのだとか・・・

あんな隙間程度にしか窓も開けられず、陽当りも悪く、廊下からは外界とを隔てる鉄格子が入院患者から丸見えで…いかにも閉じ込められてる~っ ていう感じの閉鎖病棟へ―――

―――今、あの閉鎖病棟を見に行ってみても、手前に大きい建物が建ってしまって、鉄格子のついた病室の窓は見えなくなった。

あの寒々しいコンクリートの建物は・・・
消毒液くさい閉鎖エリアは・・・
もう目に触れることはなく、心と頭の中にあるだけとなってみると、なんか嘘みたいな世界だー・・・

でも、本当にあった… 都市伝説じゃなかった・・・・・
一度入れられたら、なかなか出てこられないという……
みんなはまだ“檻”の中なのだろうか―――・・・

旦那が言う通りに、もうあの病院のことは忘れたほうがいいのだろうか…
 ・・・み ん な の こ と は・・・・・・

~エピローグ~

後に、キッチンカウンターの下で 座り込んだ状態で意識が戻った時に 手に持っていたピンク色の半透明のクリアファイルは、フラダンスの曲の歌詞が書かれたプリントに振り付けを書き留めていた紙を入れていたものだと思い出した。

空っぽになったそれを手にしていた時は、なんか見たことあるファイルだなー…としか思わなかったし、長らく思い出せずにいた。
中身は今も見つかっていない。

おそらく、記憶をなくした状態の時に自分が捨てていたんじゃないかと思う。
なぜなら・・・

父が亡くなる前から通っていたフラダンス教室は厳しめで、次々と新しい曲の振り付けを覚えなくちゃいけないので、大変だった。

覚えてしまえばとても楽しいのだが、覚わるまでは神経がキュウキュウと縮む思いだ。

このピンクのクリアファイルには、振り移し途中のメモ書きをした歌詞のプリントを入れていて、覚え終わるとブルーのポケットファイルに入れ替えて保管していた。

振り移しが完成したブルーのファイルの方は今も中身が残っているが、書きかけの、これから覚えなくちゃいけないプリントだけがない。

記憶をなくし、苦しい本心のままに行動した私が、私の知らない間に捨てたらしい――――

そう思う事象がもうひとつある。

保険証券が保管してあったファイルからも、証券がなくなっていた。
空っぽになったファイルポケットに、油性マジックで意味不明な走り書きがしてある………………

度々来る追加の契約の勧誘やら、保険内容の確認書類の保管やらで、以前から嫌気が差していた。
保険なんか入らなければ良かったと思うくらい 面倒臭くて…

そんな私の本性が暴走して捨ててしまったんだろうなーと、思う。
この変な走り書きをするのは、狂った私しかいない。

・・・・・
知らぬ間に増えているものは、いつもの自分と変わらないセンス、好みの物ばかりだった。
これを理由に ”私は多重人格症ではないぞ!” と思う。

ただ、似たようなバッグや服は普段買わないようにしたり、本当に使うかどうかをちゃんと考えてから買うようにしているのに、むやみにカワイイ物が増えちゃってるな〜と、感じる。
こういう買い方は普段の私らしくない。

記憶をなくしている間は、理性を失った言動をしていたようだ。

旦那が言っていた…自分に都合の悪い事は忘れる―――
息子が言っていた…個性が暴れる―――

なんか、家族には迷惑かけたんだろうなぁ・・・・・・

当時のことを旦那、息子に尋ねても、「思い出したくもないなぁ」「うん」と、二人で頷き合っていた。

記憶をなくしている間の自分の様子を知りたいのに。

近頃は、眠れない日や気分の波 程度の事はそりゃあ、人並みにはあるにしても、一時期の著しく狂った状態……記憶の継続を欠く事や、おかしな妄想・幻覚にはもう何年も陥っていない。

脳内分泌物のバランスが整ったかのようだ・・・

だが、”疲れやすい” の症状だけが今でも残ってしまっている。
あまり疲れない日もあるが、やけに疲れる日もあって・・・・

波がありながらも、すこ〜しずつ、年々良くなってきているような気もするような・しないような。

長い年月が経って歳もとった。
疲れを感じるのは歳のせいか、まだ治りきっていないのか、自分でもよく判らない。

いや、これから治りきる日が訪れるにしろ、その先はやっぱり年々の老化による様々な不調や故障が起きてくるものであろう。

今、疲れやすさが気になっても、ただ観察して・自覚して・自分の裁量を見極め・周囲の人たちの迷惑にならぬよう・多くのことを引き受けすぎずで、他人とも自分とも付き合っていくのが賢明かもしれない。

疲れやすさから逃れようとせず、うまくコントロールしてなだめすかして…凌ぎながら、今やらなくてはいけない事と、できる範囲内のやりたい事とができれば良い。

失ったものをいつまでも思い煩い苦しむよりも、今現在 獲得できている好きなものや楽しみに意識を向けていたほうがきっと幸せだろう。

・私は今日、朝起きられた
・好きな服に着替えられた
・外を歩けた
・好きなお店に行けた
・欲しい物が買えた

好きなものも自由に食べられる…食べたい時に、好きなテレビを見ながら・・・

欲しい物があるのも、食べたいと思えるのも、テレビを見たがれる事さえ…過去を振り返ってみると 今の私ったら幸せまみれじゃないかぁ~‼

これは出会い運の良さが紡ぎ出した幸せ…
私は巡り合う人に恵まれている。

私も周りの方たちが幸せになっていくような関わり方が出会う人たちと出来ると良いな~って思う。

この先、自分がどんな状況になっても否定せず、感謝の気持ちを忘れず… どんな展開が待ち受けていてもっ!

…………あ、うつ病が再発した場合はやっぱり無理かも…?!

END

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