小説•わたしが殺されずに済んだ話(短編2話収録)
I 都市の最果てでわたしが殺されずに済んだ話
「オレは盲目だ。しかし、正しい道を示すことはできる」もぐらが言った。
もぐらの声が響いた。カラオケを思い出したが、もちろん、そんな気分じゃない。わたしたちは薄暗い土管の中にいた。
「都市の最果ての、南の山地に位置するこの暗渠は、住人がいなくなったため、長いあいだ水路としての役割を終えている。単なるぬけがらなのだ。多少のドブ臭さは残るが、おそらく他のいかなる場所よりも最も安全であり、風雨も雪も避けられる。だから、オレはこのぬけがらにずっといるー」
キー、キー、と小動物の声が響いて、あちこちで泥水が跳ねている。ユーリは顔をしかめ、口元を押さえて歩く。ユーリの黄色い紐のスニーカーも、わたしのワークブーツも、みるみるうちにドブの色に染まる。
わたしはSNSで政府批判を主張するちょっとしたインフルエンサーで、ユーリは名の知れた元ジャーナリストである。彼女のような反骨精神の人間と行動を共にするだけで身の危険性が高まるのは致し方ないが、過去に情報をやり取りしているうちに、行動を共にするようになった。
政府の連中どもは、わたしたちごく普通の住人のことを反乱分子、またはResidence of Resistance(逆賊どものお家)と総称してきた経緯から、短く「レジ・レジ」と呼ぶ。
「オレは盲目だが、正しい道がわかる。この嗅覚で、あるいは本能で」もぐらが言った。「さあ、前を進むがいい。この道だ」
「ありがたい」わたしが答える。するともぐらが言った。
「なぁTD、ここまであんたたちを連れてきた。もちろん、タダじゃないのはわかってるよな?報酬が必要だ。オレにも生活がある」「ああ、もちろんだ」しかし正直なところ、こいつが見返りを求めるとは予想していなかった。今日明日を食い繋ぐカネしか持っていないし、カネに交換可能なモノも身につけていない。
「ユーリ、きみは何か持ってるのか?」
「母の形見の指輪と安物のイヤリング、軍用ナイフしかないよ」
もぐらがクスッと笑った。「こいつをもらおう」もぐらはわたしが腰に巻く、弾帯付きのホルスターに手をかけた。盲目だというのに、手探りすることなく、迷いなくホルスターを掴んだのだ。中には回転式拳銃が入っている。それはわたしの、いや、わたしたちの命綱だ。
「ダメだ。これを手放すわけにはいかない」
「その道を行くと、100mもすれば梯子に出くわす。わかっていると思うが、マンホールの先はK山の裾だ。かなりの勾配になってるので、面食らわないように。山を登り…あえて道なき道を選んだ方がいいだろう。山の反対側を降りると、そこは国境の向こう側だ。自由の身。そうなれば、おそらく、拳銃を使うことはないだろう。山の向こうに行けさえいいんだ。あともう少し。さぁ、報酬を寄越すんだ」
「むしろ国境近くになるほど、拳銃が必要となるはずだが。見張りがウジャウジャいるはずだ。この中を丸腰で登山しようってほど狂った話はない」
「さ、行こうよ、TD。こんな馬鹿な話、聞いてらんない」ユーリが細い顎でわたしを促した。わたしは腰からホルスターを解くと、もぐらの前に放り投げた。
「何やってんの?」
「これまでのことを考えてみたんだ。もぐらがいなければ…もぐらが案内してくれなければ、我々は確実に二人とも命を失っていただろうからな」
もぐらは手探りもしないでそれを拾い上げ、素早く自分の腰に巻いた。
「これからのことが大事でしょ。わたしたちは命がかかってんだから」
「しかし、感謝を示すということは、人としてのマナーだ」
もぐらは銃口をわたしに向け、次にユーリに向けた。そしてクスッと笑って、銃口を前方に向けて言った。「さ、行け。あっちだ!」
そしてもぐらは、土管がL字型になって別の土管との合流地点になるところへと走り、消えていった。
ユーリとわたしはくるぶしまである泥水の中を走った。その間、ユーリはわたしを罵り続けた。
「TD、あんたほどの馬鹿はいない。その銃を手に入れるのに、あんたがどれだけ苦労したか覚えてんの?もぐらに救われたからって、銃をやる馬鹿がどこにいんの?自殺行為でしょうが!あんただけならいいよ、好き勝手すれば。わたしの命だってかかってんのよ。もぐらだって、こんなところで暮らすのは安全じゃない。だから、貴重な命綱を手に入れたんだよ、あいつは。あいつの笑みを見たの?あの不敵な笑顔。してやったって、顔だよ、あれは」
ユーリが先に走り、梯子を上り、マンホールに手をかけた。華奢に見えて、力のある女なのだ。マンホールのフタが開いた。先に外に出るのは危険だが、ここまでくると、危険の度合いはどちらが先に出ようと似たり寄ったりだ。武器といえば、ユーリの軍用ナイフだけなのだから。
ユーリは外に出た。わたしは梯子を上りながら、風の唸り声がする頭の上に、何か不穏な空気を感じていた。そしてはっきりと、ユーリが叫ぶ声を聞いたのだ。だが、今さら後戻りしてもどうにもならない、とわたしは悟った。この配管のぬけがらを駆けずり廻ったところで、限界があるだろう。わたしは丸腰なのだ。
外を出たところの勾配に、二人の“下手拿捕(ゲシュダポ)”※犯罪人を捕らえる連中という、わたしたちが使う呼称…、がいた。一人がユーリを後ろ手に掴み、もう一人がわたしのこめかみに銃口をあてた。わたしは両手を挙げた。下手拿捕の軍服を見ると、金糸で縁取りした赤い肩章に星が一つだけあった。
「もぐらが盲目だと信じて疑わなかったのかな?」
一つ星の下手拿捕がクックと笑った。
「ほら、やっぱり!スパイだったんだよ、あいつ。騙してやがった!目が見えてたんだよー」
ユーリがもがきながら、髪を振り乱し、叫んだ。
「もぐらが下手拿捕に『案内』してくれた!馬よりも馬鹿なあんたは、そのことに感謝して、そのお返しに銃をくれてやったのよ」
わたしは両手の掌をこれ見よがしに一つ星に見せて、言った。
「この無抵抗な人間を、反乱分子として処罰するつもりかい?」
「改正国家緊急事案法第十四条二項の条文に基づき、都市保安警察構成員は刑事訴追等手順の一切を省き、自身の判断に於いて対象人物を処罰《処刑を含む》…できる、つまりは国家にとって正当なことだ」
下手拿捕が引き金に指をかけた。発砲音。もう一度、発砲音。ユーリの背後の一人は制帽の後ろから血を流して倒れ、わたしの目の前の男は、わたしに倒れかかってきた。軍服の心臓のあたりが赤く染まっている。
「ほらよ!」
一つ星の背後から現れたもぐらが、わたしにホルスターを投げて寄越した。
「向こうにも土管の出口があるのさ。さ、行け」「なぁ、もぐら。何でわたしから拳銃を取り上げたんだ?」
「待ち伏せしている相手に、真正面から挑んで勝てるとでも?」
「もうおまえは拳銃がいらないのか?」
「死体ってのは厄介でな。銃弾一つで、持ち主が疑われちまう。後はおまえがその所有者としての責任を持て」
「これから山越えだ、ユーリ」
ユーリは肩を震わせて泣き、そして笑った。月に群がる杉の木が、重苦しい塀のように見えた。
–終わり–
II 街の最果てでわたしが殺されずに済んだ話
あの日は、蒸し暑い夜だったと記憶している。蝙蝠でさえ敏捷さに欠き、重苦しげに羽根を動かし、8の字や♾の字を描いて各々電線の隙間を走っていたように思う。街の一角、というより街の最果ての場所は、変電施設や水処理場、人工貯水池、ひび割れから花が顔を出すコンクリートの水路だの、人が住むのにふさわしくないところだったが、わたしは月がよく見える夜などは買い物帰りにわざわざ迂回して、電灯の少ないその場所を好んで歩いた。貯水池の網囲いの近くにゴミが常習的に不法投棄されていた場所があり、《ゴミの不法投棄を禁ずる》云々の大きなブリキ看板が立った後もまだ、潰れたタイヤや、ガラクタを山積みにしたリアカーが放置してあった。そこには、毛むくじゃらの、人間に近い生き物がいて、そいつはわたしの存在を気に留めることなく、淡々と彼なりに時間を貪っていた。この日の夜もそうだった。わたしもまた、いつものように彼の存在をほとんど気にかけず、彼の住まいであるハエだらけの茣蓙と湿気で歪んだ段ボールのそばを歩いた。だがその日はいつもと違っていて、何か殺気だった気のようなものが、生暖かい空気の狭間で泡のように蠢いていたように思う。フード付の黒のロングコートの(フードは臙脂色だったと思う)人物がその正体だった。フードの中は、男の顔をしていた。男はパンらしきものをムシャムシャ頬張りながら、毛むくじゃらを蹴っ飛ばし、コートのポケットからライターを取り出した。何かとてつもなく恐ろしいことが起きるのではないかと思ったが、それはただの花火だった。男はパンを頬張りながら、定期巡回の業務か何かのように、毛むくじゃらに火の粉を浴びせているのだった。
わたしは何食わぬ顔をして歩行を続けようとしたが、男に背を向けるのは危険だと考えた。そこで上体を片側に向け男の方を見ながら歩いたのだが、それが男の気に触ったようだ。男はベルトの背中の側に凶器を隠していたらしく、右手を背後に廻して取り上げた。それは玩具の刀のようにも、真剣のようにも見えた。牛刀ほどの長さがあった。毛むくじゃらのうめき声が貯水池のガマガエルとうまい具合に融合していて、一体の巨大な化け物が鳴いているようだった。男がそれを振り回すと、段ボールの切れっ端が空に舞った。コウモリたちは長剣のそばを♾の字を描きながら飛んだ。「ぶち殺すぞ」男が言った。コンビニで電子煙草でも買うように、不機嫌な感情を抑制しながら店員に伝える口調だった。殺す相手は毛むくじゃらなのか、わたしなのかは定かではなかった。男がもう一度長刀を振ると、今度は刃の切先に段ボールが刺さって嵌り、刀が動かなくなった。その間にわたしは走り出したが、男は刃を抜き取ってすぐに追いかけてきた。「殺してやる」と男がわたしの汗ばんだ首筋の辺りに向かって言った。わたしは咄嗟に左の肘にぶら下げたエコバッグから一本の長芋を抜き取って空に掲げた。それは月の光を浴びて、剣に変わった。男が手にした刀を、わたしの剣が、パキン、と折った。男は折れた状態の刀を振り回したが、長芋の剣が、それを柄ごと弾き飛ばした。男の手が震えていた。確か、男の右手指には指輪が嵌っていたと記憶している。確か、中指だったように思う。もしかしたら、人差し指と中指の両方に嵌っていたかもしれない。男は舌打ちをして、闇の中の空気の厚い層のあいだへと、スッと消えていった。
月の光は青っぽく、ガスコンロの火に似ていた。それはゆらゆらと、雲のあいだで揺れていた。そして、その日は蒸し暑かった。それだけははっきりと覚えている。
–終わり–
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