思い出: 椿の里に琵琶法師がやって来た
父祖の地・椿の里の人々は、精霊流しが終わると、収穫の時まで、しばしの間、農作業から解放される。
それを見計らったように、椿の里に、琵琶法師が訪れたことがある。
それが終戦の年であったか、記憶は定かでないが、敵機の来襲に怯えていた覚えはないし、父は戦地から戻っていなかったから、1945年のことで、私はその時7歳であったようだ。
ある日、里長の爺様が、椿の里に琵琶法師が来ると触れ回った。私はすぐに母を質問攻めにした。
「琵琶法師ってなに?」
「枇杷の形をした楽器を演奏して回るお坊さん」
母は「ヒワ」と言った。聞いたことがない。
(ヒワ?果物?)
私は、よく分からないまま、次の質問をした。
「よか音のすっと?」
(いい音がするの?)
「分からん。琵琶を鳴らしながら何やら語るゲナ」
琵琶法師のことも、その人が何をする人かも、母はよく知らないようであった。そして、
「法師は、目が不自由な人だそうな」
と言った。
私は目の見えない人に出会ったことがない。
(誰か道案内する人がいるのであろうか)
と、あれこれ心配すると、母は、
「目が見えない人は、白い杖を持っている」
と言い、さらに、
「白杖を持っている人に出会うと、誰もが親切にするもんや」
と付け加えた。そして、
「琵琶を背負った坊さんは、カンジンたい」と言い放った。
カンジン。
聞き慣れない言葉である。
母によると、お寺の修理などで僧侶が寄進を頼んで回ることをいうらしい。母の言い草には、物乞いの意味合いが感じられた。
法師は、西の浜へ下る道のすぐ近くの家の牛小屋に泊っていた。
その家では、牛を飼うことを止めて、空いた小屋には稲藁を収納していた。里長が世話して、法師の一夜の宿となっていたようだ。
作務衣姿の琵琶法師
母は、早々に夕食を済ませると、琵琶の演奏を聞きに出かけた。私も付いていった。手に何やら持っている。
「それは何ネ?」
「カンコロ。演奏の聞き賃タイ。お金も少しばかり用意したけどね」
琵琶の演奏と物語を聞くための入場料のようなものらしかった。
集落の人びとが10人ばかり集まって、演奏開始を待っていた。
法師はねずみ色の服を緩やかに纏っていた。
私には、筒袖にモンペの格好に見えた。
見慣れない服なので母に訊いた。
「作務衣」。お寺さんの作業着のようなモンだよ」、
法師は、地べたに藁を重ねて座布団代わりにし、胡座をかき、膝には茶色の楽器をのせていた。琵琶は生まれて初めて見る楽器であった。
夕陽が西の浜の沖に落ちると、小屋の周囲に闇が迫ってきた。
月はない。
牛小屋の主人が、ランプを持ってきて、小屋の入り口に架けた。
法師は、琵琶を縦に抱え直した。
撥を持つ右の手が動いた。
「べべベーン」
と大きな音が小屋の天井まで跳ねて震えた。
その音は、入り口の端にいる私の頭上まで強く響いてきた。
びっくりしていると、法師の口が動いて、鈍い声が発せられた。
何やら呻っているが、よく分からない。
撥が動いて、
「ベンベン、ベンベン」
と、また小屋の内部が揺れた。
浜から潮風がふんわりと揚がってきて、椿の木々をサワサワと揺らし、琵琶の音に絡んだ。
法師の声は次第に力強くなり、時に吠えるような声に変わった。
何かを語っている。
みんな熱心に聞き入っていた。
法師のかき鳴らす琵琶の音と、彼の語る物語は綯い交ぜになって立ち上がり、崖を下り、西の浜の夕空へと拡散していった。
演奏が終わるとすぐ母に訊いた。
「何の話ヤッタン?」
「都の偉い一族が滅んでいった話しゲナ」と言った。
物知りの母であったが、その時は、何という物語かは分からずじまいであった。
幼い私の心にも、染み入るような琵琶の音であった。
小学6年生の夏
小学生の頃、夏になると公民館でよく怪談話の会が開かれた。
中でも印象に残っているのが「怪談 耳なし芳一」 紙芝居の形式で、演者は元小学校の校長。
西側の窓の2重カーテンが引き回され、照明が落とされた。
元校長は、低い声で語り始めた。
語り手の朗々たる声、墓所で揺れる蝋燭の炎の絵、それが一体となり、薄暗い会場に妖気が充ち満ちた。
この怪談話に出会ったことで、7歳の時、椿の里で聞いた琵琶法師の話は、平家一門の滅亡の物語であったと知った。
平家物語に出会う
それから4年ばかり経った高校1年生の時、古文の授業で平家物語の冒頭の名文に出会った。
10年近い時を経て、私の耳に琵琶法師の奏でる音が蘇った。
「べべベーン」
琵琶の音にのせて、私は、平家物語の冒頭の一節を読んだ。
「……ひとえに 風の前の塵に同じ……」
何という切ない物語であろうか。
平家の落人部落と言われている椿の里で、幼い私は、琵琶法師の奏でる琵琶の音と共に平家滅亡の物語を聞いていた。
私は今、遠く故郷を離れた土地で暮らしている。
思い出の椿の里。
そこで語られた琵琶の音も平家物語も遙か昔のことになってしまった。
西の浜から吹き上げてくる浜風は、変わらず椿の木々の間を渡っていることであろう。
(田嶋のエッセイ)#17
「猿蓑 の 寄り道、迷い道」
第13章「琵琶法師」
2024年8月21日
著:田嶋 静 Tajima Shizuka
をお読みいただきましてありがとうございました。
終章は、『椿の里へ墓参り』です。
私の、椿の里行きは、70歳が最後になった。
注釈
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