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はじめての海鼠 〜祖父母と触れ合い、そしてお別れ〜

(あらすじ)

「なんば、しとっと?」「それなにー?」
立て続けに訊いても、祖父・とみ爺は面倒がらず、何時だってすぐに応えてくれた。
孫と生活することになって、うれしくてたまらない風であった。
長崎市の町では戦争の気配が強くなる一方で不穏な日々が続いていた。
私が4歳の時に、母が子供3人を連れて、祖母の看病に行くことになった。
父祖の地、椿の里は、敵機の襲来もなく、豊かな自然が一杯であった。
祖父母との暮らしは子供達には新鮮そのものであった。
祖父はやさしく、聞けば何でも教えてくれた。
そして初めて海鼠なまこの味を知ることになった。
その楽しい暮らしは3ヶ月で終わり、その後は悲しみと別れが続いた。
私は、幼いながらも家族の絆の重さとはかなさを知ることになる。
歳月により悲しみは癒やされ、今では、折に触れて思い出すばかりである。
この章では、祖父母との大切な3ヶ月間の暮らしを語る。




大人になった私からの語りかけ

みなさん、なまこはお好きですか?
なまこをお酢であえて、お酒のあてにしている方も、おられるのではないでしょうか。
これまで何度か、疎開先の、とみ爺の家での暮らしを語ってきた。
実はそのずっと前にも、とみ爺の家に住んだことがあった。
4歳の時、3月みつきばかりの暮らしであった。
小さい頃の食べ物の思い出は、ほとんど、祖父母の地・椿の里に繋がる。その時、初めてなまこを食べた。



椿の里の自然、とみ爺との触れ合い

私が4歳になってすぐの時、母は、私と2歳下の妹、弟(生後6ヶ月?)を連れて、ハツ婆(母の母親)の看病のために実家に行くことになった。

ハツ婆は寝たきりになっていた。
祖父・とみ爺はひとりで、農作業に精をだし、煮炊きをして、その日その日を暮らしていた。
朝、牛はモウモウと鳴いて餌を催促し、ニワトリ数羽は
「小屋から出してくれ」
と鳴いて騒いだ。
とみ爺は、まず動物達に餌やりをして、そのあと、自分たちの粗末な食事を作った。

とみ爺の家の農地は、あちこちに散らばっていた。
そのため、牛を連れて出掛けると、とみ爺は、夕方まで帰ってこなかった。蒸かした薩摩芋を持って出掛けた。ハツ婆の枕元には、何が用意されていたのか。
ハツ婆は、ひとり、納戸で寝ていた。


4歳の私には、大自然に包まれた祖父母の生活は、見るもの聞くもの初めてのことばかりである。牛もニワトリも初めて見た。
とみ爺が屋敷にいる時は、後ろを付いて回った。
孫と生活することになって、とみ爺は、うれしくてたまらない風であった。
「それ何?」
「なんば、しとっと?(何をしているの?)」
と、立て続けに訊いても、面倒がらず、すぐに応えてくれた。
私は、ニワトリや牛の餌の作り方を習い覚えた。
屋敷周辺の草を、餌になるか否かの見分け方を教えて貰い、毎朝摘んで回った。一握りの草を摘んで持っていくと、とみ爺は、
「よう出来た」
ほめた。
ニワトリは小屋から出て、屋敷のあちらこちらの草むらで卵を産んだ。
とみ爺に教えられて、それを拾い集めるのも私の仕事になった。
そんな日々のなかに登場したのがなまこである。


とみ爺の屋敷は、西の浜へ下る崖地ギリギリのところにあった。
磯には海蜷うみにな、サザエ、ウニなどがいると聞いていたが、
「 海はオトロシカとぞ」
と、母は怖い顔をして私に言った。
西の浜は荒磯で、突然大波が来たりすることがあるという。

しーだし波に沖までもっていかれたことがある」
と、幼少時の母の話。
しーだし波とは里言葉である。
吸い出し波(離岸流のことらしい)である。

母は泳げなかった。母は子供の頃、西の浜の波打ち際で遊んでいて、吸い出し波に沖まで運ばれたことがあったらしい。アップアップしているところを、小舟が通り掛かり、幸運にも救助されたそうだ。
「ひとりで磯に行ってはいけない」
と、私は母から、きつく注意されていた。


ある日、とみ爺は、浜に牛を連れて下りた。
波止はと*1  に牛を入れて、体をきれいにするためである。
とみ爺は、
「何か、取ってくるケン」
と言って、私が付いてくるのをさりげなく止めた。

すぐに、とみ爺は、ピカピカの牛を連れて戻ってきた。
そして、うれしそうに、
「よかモンがとれた」
と籠の中を見せた。
薄赤いグニャグニャした物が1個うごめいていた。

屋敷の広い庭に、薪割りのために、木の根っこが埋められていた。とみ爺は、その根っこを俎板まないた代わりにして、その得体の知れないものをさばいた。まず、1切れを自分の口に入れた。
物欲しげに見ていると、とみ爺は次の1切れを私の口元に差し出した。思わず、口を開けた。
うっすら塩味のするシコシコしたものが口中に溢れた。
「なんね?」
「なまこバイ」
こうして私は、なまこを知った。
それは、得体の知れない形の、不思議な味だった。


大人になった今、海鼠が登場する俳句に出会う

定年後の手習い、かな書道の手本探しのため、「評釈 猿蓑」 幸田露伴・著*2  の頁を繰っていた。
休み休みながら取り組むも次第に、難解な露伴の評釈に悩まされ、訳が分からなくなる。
そんな中、なまこが登場する去来*3  の俳句*4 に出会った。
本来の目的である、筆を持つ手を止めてしまった。



尾頭の 心もとなき 海鼠なまこかな
/去来  猿蓑 巻の一 冬


この句は、一体、何が言いたいのだろう?
尾頭おかしらと言えば鯛しか思い浮かばない。
なるほど、なまこは、よくよく見ないと、頭と尾の区別が付きにくい。
それがなまこだ。
海鼠 なまこ ナマコ 
私がはじめて海鼠を口にしたのはいつだったか。
次々と懐かしい祖父母のことを思い出す。
口から溢れるような味覚の記憶が蘇る。
いったいどうして、祖父母と暮らすことになったのだったか。


祖父母との出会い、そしてお別れ

私が4歳の頃、長崎市の町に住む私たち家族宛に、とみ爺からSOSのハガキが届き、母は慌ただしく実家の椿の里に向かったわけだ。

その当時、実家は、母のきょうだい全員がすでに巣立ち、とみ爺とハツ婆だけになっていた。
ハツ婆が寝込んで仕舞い、とみ爺ひとりで、どうにもならず、距離的に、一番近くで世帯を持っていた娘(私の母)に助けを求めたという次第であった。SOSのハガキは、近所の親戚が代筆した。
母の名前が記され、「助けてくれ」
と1行、書いてあった。
ハガキの宛先には、長崎市イナサとだけで番地の記載はなかった。
が、チャンと届いた。
その時、母は、立て続けに生まれた子供3人を抱えて「乱れ多し」*5  の生活の真っ最中であった。
母は、父を残して、バタバタと実家に向かった。
近くに住む父の長兄の家に留守宅の面倒を頼み込んだ。

椿の里ヘ向かう。

長崎市大波止から式見経由八重の浜行きのポンポン船に乗る。
母は、乳児を背負いっている。
右手におしめなど子供達の肌着の大包みを抱え、左手には2歳の妹の手を捉まえていた。
私はクビに小さな風呂敷包みを背負わされていた。

船が八重の海の沖に着くと、はしけに乗りって波止へ向かう。
これが大変で、乗船していた人びとに助けられて、母子はやっとのことで波止に上がった。
そこから、椿の里まで30分余りを歩いて行く。
同じ船から下りた集落の知合いが、見かねたのか、母の右手の荷物を預かり、とみ爺の家に届けてくれることになった。

一行は、バタバタと倒れ込むようにして、どうにかこうにか、とみ爺の家に辿り着いた。
ハツ婆は納戸で、身動きもままならない状態で寝込んでいた。
孫3人を連れて看病に来た娘を見てハツ婆は泣いた。
「よう来た、よう来た」
孫3人を見てハツ婆は更に泣いた。
幼い私は、ハツ婆の爆発したような頭髪を見て驚いて泣いた。

母は、さっそく、ハツ婆の看病に取り掛かった。
体を拭き清め、寝間着を替えた。
口に合う柔らかい芋粥を作って食べさせた。
「うまか」と、ハツ婆は泣きながら食べた。

洗濯物が山のように溜まっていた。
毎日出るハツ婆の洗い物に加えて、乳児のおしめがある。
母は、朝と夕2回、洗濯をして干した。
家事は際限がない。
長く掃除をしていない家の中は、子供たち、特に乳飲み子にとって最悪の状態であった。埃が溜まり、布団は湿っていた。

孤軍奮闘する母に、私は何の役にも立たなかった。
お乳を求めて弟が泣いても、なだめるすべもなく、オロオロして、仕舞いには子供3人で泣くばかりであった。

楽しみは、ハツ婆が語る昔話で、毎晩、寝る前にせがんで聞いた。
ハツ婆は小さな声で、ボソボソと語った。

母は、3人の子を抱えながら懸命に親の看病をし、皆のために食事を用意した。来る日も来る日も、掃除、洗濯をして頑張った。
が、3ヶ月で燃え尽きた。
母は無口になり、げっそりと頬がこけ、瞳はうつろになっていった。
私はどうしようもなく、オロオロして泣いた。

快方に向かう見込みのないハツ婆を置いて、母は、長崎市の自宅に戻る決心をした。母が、どのような思いで、自宅に戻る決心をしたのか、幼い私には分からなかった。どうしようもない状態であるとはボンヤリ分かった。
弟に与える母乳が十分に出なくなっていた。

私は、ハツ婆と、涙、涙の別れをすることになった。
「いってしまうのか」
と、ハツ婆は細い手を出して、私の腕を力なく撫でた。
「また来るケン」
私は心にもない言葉を口走った。
とみ爺は、刀折れ、矢尽きた状態の母(我娘わがこ)を、ボンヤリ眺めていた。
これが祖父母の見納めとなった。

幼いながら、絆の重さ、はかなさを知る

母は、長崎市内の自宅に戻ってすぐ、長男(私の弟)を亡くした。
医師からは、自家中毒だと告げられた。
それからまもなくして、ハツ婆の死去の知らせが届いた。
母は葬儀に出る力もなかった。
1年して、とみ爺が死去した。
思い出しても辛い出来事が続いた。

祖父母と暮らした3ヶ月間を、私は忘れることができない。
祖父母と死に別れるという厳しい現実に出会った。
弟の急死も、母の疲労困憊の状態と無関係ではないとボンヤリ感じていた。
しかし、歳月は悲しみをやわらげてくれる。
いつの間にか、祖父母との永別の辛さは消え去り、懐かしい思い出だけになった。
弟の死は、50回忌まで法名を唱え続けて、自分なりの供養とした。
私には、幼子3人を抱えて寝た切りの老親の看病をする母の重荷を察することは出来なかった。

猿蓑のエッセイが、すぐ とみ爺の家の思い出に繋がるのは祖父母との貴重な3ヶ月の暮らしがあったからである。
何ものにも替え難い3ヶ月であった。

その後、父の出征のため、疎開することになり、6歳の時、再び、とみ爺の家に移り住むことになった。*6
しかしその時、とみ爺もハツ婆の姿はなかった。
牛もニワトリもいなかった。

こうして思い出を縷々述べていると、祖父母のことが次々と思い出される。
私が、祖父母と暮らしたのは、ハツ婆の看病のためであったが
実は、とみ爺とハツ婆は、たくさんの子供に恵まれていた。
そのうち、5人が成長し大人になっていたが、実際、孫を連れて実家に来れたのは、結局は、私の母だけというわけであったと思う。
祖父母と私の母との絆は強く、とりわけ、とみ爺は母を頼りにしていた。
現在も、とみ爺とハツ婆の墓所は、椿の里の集落にある。
墓守は、とみ爺の末子のその跡継さんである。

次章は、「ハタ揚げ(長崎弁/たこあげ)」を語る。
ハタの絵柄は、オランダの国旗に似ている。



(田嶋のエッセイ)#10
「猿蓑 の 寄り道、迷い道」
第7章「海鼠なまこ

2024年5月20日
著:田嶋 静  Tajima Shizuka
をお読みいただきましてありがとうございました。



参考

海鼠(なまこ)
「ナマコ網棘皮動物の総称。すべて海産。マナマコ・キンコ・フジナマコなど1500種以上が知られ、体に毒を含むものある」

 出典:三省堂 スーパー大辞林 3,0
           

*1 波止(はと)
①西の浜の波止は、磯を小舟が出入りする様に作られた浅瀬。
②八重の海の波止は、艀の発着所。磯から海に突き出た石の大きな塊状のもので、石伝いに上り下りして艀を利用する。

Tajima Shizuka

*2 「評釈 猿蓑」 幸田露伴・著
2001年2月22日 第9刷発行 岩波文庫

*3 去来 
「向井去来」 江戸前期・中期の俳人。若年で堂上家を致仕ちしし浪人となる。その後、榎本其角との縁で蕉門に入り、「猿蓑」を野沢凡兆と共編で刊行。            

Wikipedia

尾頭の 心もとなき 海鼠なまこかな
(解釈)どちらが尾とも頭ともおぼつかない不得要領な海鼠だこと

bioweather

*5 乱れ多し
たくさんの子供を育てていて、洗濯物を物干し竿から取り込んでも、それを点検し、畳んで、仕舞う暇がない状態。
「あそこは今、乱れ多し、だから」と言って、縁側に取り込んだ干し物の山から、おしめを引っ張り出して赤子に当ててしまっても、ご近所さん同士、「お互い様、仕方がない」と見てみない振りをした。                

Tajima Shizuka


*6
その後、父の出征のため、疎開することになり、6歳の時、再び、とみ爺の家に移り住むことになった。


1945年、父に召集令状が来た。
父は、母の実家である椿の里に疎開するように言い残して出征した。
私は、小学校(当時は、国民学校)入学前の6歳、妹は4歳であった。祖父母(母の両親)は逝き、母の実家は、空き家になっていた。

椿の里は、長崎県西彼杵郡にしそのきぐん八重村(現在は長崎市)の集落で、当時、平家の落人部落と言われていた。
西彼杵半島は交通の便が悪く、長く陸の孤島とも言われた。
船便が開始される以前は、かちで往復していた。
その船便は少なく、乗り遅れると、しばしば、徒となった。

とみ爺の家は、西の浜の崖の上に建っていた。
晴れた日には、海のずっと先の、遙か彼方に五島列島が薄らと霞んで見えた。

とみ爺の家は、わら屋根の典型的な百姓屋であった。
井戸とランプと囲炉裏の暮らしであった。

Tajima Shizuka

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