逆襲の飯山あかり(1) 「日本保守党の評価すべき点」
正に「青天の霹靂」としか言いようがない。
まさかまさか・・・
日本保守党の候補者だった飯山あかりさんが
代表の百田尚樹さんと有本香さんに対して
これ程までに強烈な批判を始めるとは・・・。
つい先週までの私といえば、来る総選挙において
嬉々として日本保守党に一票を投じるつもりでいた。
さらに、日本保守党の選挙ポスターが手に入った暁には
家の壁の一番よく見える所に威風堂々と掲示して
自ら進んで宣伝活動をしようと思っていたくらいだった。
そうであったにも関わらず・・・
この連日の飯山あかりさんの暴露動画を見てからというもの
私の心は完全に揺らいでしまっているのだ・・・。
私の心がその様な混乱状態にあるくらいなのだから
世間には、この私と同じような心境でおられる方が
少なからずおられるのではなかろうか。
そこで今日は、私がこれまで支持してきた日本保守党について
①「評価すべき点」と②「改善すべき問題点」
その功績と罪禍の両面から考え
さらに、これまでの飯山あかりさんの主張についても
③「共感できる点」と④「疑問に思う点」のそれぞれについて
相反する4つの視点から、できるだけ広い視野を持ち
是々非々の精神で、私自身の頭の中を整理しようと思う。
■ ①日本保守党の評価すべき点
まず最初に、日本保守党の「評価すべき点」について
考えようと思うが、そのためにはまず、その前段階として
そもそも「政治において重要な要素」とは何なのか?
という事を踏まえておかなければならない。
それを考えるに当たって、ヒントとなるのは
ドイツの政治学者であるマックス・ヴェーバーだろう。
マックス・ヴェーバーはその著書
「職業としての政治」の中で
政治における重要項目をさまざま述べているのだが
その中でも、私がとりわけ重要と考える要素がある。
そして、その「重要な要素」について
実に端的に示唆している、古いインドのお話があるので
まずはここで、そのお話をご紹介したい。
■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■
■□■ 月夜の晩に ■□■
その昔、インドにムガール帝国を樹立した
アクバルという偉大な帝王が存在した。
彼は莫大な財力に物を言わせて
「九つの真珠」と呼ばれる優れた賢人を従えており
その中の一人に、タンセンという比類なき音楽家がいた。
彼がタンブーラを弾きながら歌う時
聴く者の誰もが、深い恍惚境に入りこんだと言われている。
ある日、タンセンはいつものように
アクバル帝の前で歌い、踊っていた。
タンセンの舞いが終わると
宮廷には音楽の余韻とともに
心地よい静寂がただよっている。
そんな時、アクバル帝はふと
彼にこんなことを聞いてみた。
「おまえに勝る者がいるなどとは想像もつかない。
そんなことは不可能なことのように思える。
おまえは音楽家として完璧だ。
しかし、そう思う度に
わたしには一つの考えが思い浮かぶのだ。
おまえだって誰かの弟子として学んだに違いあるまい。
その師がおまえに勝るかもしれないではないか?
おまえの師は誰だ?
まだ生きておるのか?
もしも生きているのなら
この宮廷に招こうではないか!」
タンセンは言った。
「我が師は生きております。
しかし宮廷に招くことは適いません。
あの方はサドゥー(世捨て人)です。
まるで野生の動物のようなもの
宮廷に招き入れることはできません。
流れるままに、ものごとが起こるがままに
あの方は動くのです。
規律を持った社会人ではありません。
風のような、雲のような
あの方はこの世に根を下ろさぬ放浪者です。
たとえ帝王である、あなたといえども
あの方に唄い踊ることを強いることはできません。
あの方は唄を感じる時に唄い、踊りを感じる時に踊るのです。
そうであるが故に、宮廷に招くことなど不可能なのです。
あなたがどうしても彼の歌を聴きたいのであれば
彼を宮廷に招くのではなく、あなたが彼の許に行って
そこで待ってみる他ありません」
アクバル帝はこの話にすっかり魅了されてしまった。
彼は、タンセンに傾倒しきっていたので
タンセンの師が生きているのであれば
どんなことをしても出かける価値があると感じた。
そして、アクバル帝は遂に決心する。
「その師の歌が聴けるのならば
わたしはどこへでも馳せ参じようではないか!」
タンセンの師は流浪の行者で
名をハリダスという。
タンセンは人をやって、師がどこにいるかを調べさせた。
すると、ハリダスはジャムナ河のほとりの小屋にいることが分かり
アクバル帝と共に、その唄を聴くために出かけていった。
付近の村人たちはこのように話す。
「真夜中すぎ、3時頃になると
時折、唄ったり踊ったりなさいます。
それ以外は、日がな一日
静かに座っておられるだけです」
満月の夜、二人はまるで盗人のような格好で
小屋の後ろに隠れて待った。
もし、そこにいることを知られたら
ハリダスは唄わないかもしれない・・・。
だから二人は、ひとけの無い静寂の闇の中で
じっと待ち続けた。
夜が更けてゆき
満月が高くのぼり
静けさは一層に深まってゆく。
その時・・・ハリダスはついに唄いはじめ
踊りはじめた。
アクバル帝はまるで催眠術にかけられたようになり
声ひとつ出すことができない。
それはとても不思議な歌で
まるで、魂の奥深くにしみ込んでゆくような歌だった。
ハリダスは月に向かい
闇に向かい
川に向かって歌い
ただ踊っていた。
どんな讃辞も無意味であるような気がして
アクバル帝は、ただただ涙を流すだけだった。
唄がやみ、帰途につく時になっても
アクバル帝は何ひとつ言葉にすることができない。
涙が絶えず、頬を流れ落ちるばかりだった・・・。
そして宮殿に戻り、廷内に入ろうとする時にはじめて
アクバル帝はタンセンに向かって呟いた。
「わたしはおまえに勝る者などこの世にないと思っていた。
おまえこそ、唯一特別な存在であると考えていた。
だが今では、おまえはその師と比べれば
無に等しいと言わねばなるまい・・・。
この違いはいったい、どうしたことなのか?」
タンセンは答えた。
「違いは簡単です。
私は何かを得るために、唄い奏でているのです。
力を、威信を、金を、賞賛を得るために。
私の音楽はまだ、目的のための手段でしかありません。
私は何かを得るために唄う。
けれども私の師は、何かを得ているからこそ唄うのです。
それこそが、二人の間にある違いです。
師は、自分の内側に何かが在る時だけしか唄いません。
そういう時には、唄が流麗で、踊りが起こるのです。
唄も踊りも、それ自体は副産物のようなもの。
彼が<神性>に満たされ
もうそれを抱えきれなくなって満ちあふれる時
その時だけ、師は唄うのです。
師の唄は、それ自身で完結しています。
彼の踊りは、それ自体が祝福なのです」
おしまい
■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■-□-■
マックス・ヴェーバーは「職業としての政治」の中で
職業政治家には2種類の存在があると言っている。
一つは、①「政治によって生きる人」
そして、②「政治のために生きる人」だ。
①政治によって生きる人というのは
先のお話の例えで言えば、宮廷で働くタンセンの様な存在であり
権力や、お金、賞賛を得るために政治を行う
言わば、「生業として」の政治家と言える。
一方で
②政治のために生きる人とはいうのは
タンセンの師、ハリダスの様な存在だろう。
そのような人は、権力のためでも
お金のためでも、賞賛のためでもなく
ただ、彼の内側に、使命感や大義があり
「私がやらねばならぬ」
という、「天命」に突き動かされて政治を行う人だ。
ただここで、マックス・ヴェーバーは「政治のために生きる人」について
「経済的な面では余裕があるレンテ生活者(不労所得者)」としており
その人的補充をする場合は、どうしても金権制的に行われてしまう
とも言っている。
この様な実際的な問題はあるものの
今の政治の世界には、お金や権力や賞賛を目的として動く
「政治によって生きる人」が掃いて捨てる程いるのが現状だ・・・。
そして、そんな大量の「政治屋」が日本を破壊し
国益を海外に売り飛ばしてしまっている・・・。
今の日本が、本当に必要としているのは
「政治によって生きる人」ではない。
「政治のために生きる人」だ。
私は、日本保守党を立ち上げてくれた百田さんの中に
正にこの、「政治のために生きる」という精神を見出していた。
では・・・あの下品で、ええかげんで
負けず嫌いの5才児の様な百田さんの
一体どこに、その様な精神を見出したのか。
もしも時間に余裕があれば
以下の2本の動画をご覧頂けたらと思う。
特に、1本目は3:35〜
2本目は27:55〜をご覧頂きたい。
■ 沖縄を救おうとした「菊水作戦」 ■ (3:35〜)
■ ペリリュー島の死闘 ■ (27:55〜)
1本目の、帝国海軍の「菊水作戦」について
百田さんは涙を堪えながら
「私は日本の特攻隊が
もちろん戦艦大和の乗組員も含めて
戦後の日本を守ったと思っています」
と語っている。
私には、この時の百田さんの涙が
とても偽りのものとは思えなかった・・・。
そしてもう一つ
これは情報番組「あさ8」の中での一場面なのだが
有本さんが、選挙の準備に忙殺されてしまい
百田さんに対して、こうボヤいたことがあった。
有本さん:「もうほんとに、私たち
なんでこんな面倒くさいことに首突っ込んじゃったのかしら・・・」
すると間髪入れることなく
百田さんは、こう諭した。
百田さん:「有本さんなぁ・・・わしらは恩返しせんとあかんのや」
その百田さんの言葉を聞いた瞬間
かつて虎ノ門ニュースで菊水作戦のことを
涙ながらに語っておられた百田さんの言葉が
私の記憶に鮮明に蘇ってきた。
「私は日本の特攻隊が
もちろん戦艦大和の乗組員も含めて
戦後の日本を守ったと思っています」
百田さんはもちろん、知識も見識も豊富で
歴史についても大変、造詣の深い方だ。
だからこそ、議論の場においては
その豊富な知識が有効な武器になる・・・
けれども百田さんは、どちらかと言うと
議論には弱い方ではないかと思う。
それが故に、つばさの党が突撃してきた時に
「飯山さんを矢面に立たせようとした」という話は
百田さんなら「然もありなん」と感じてしまう・・・。
百田さんは、相手が屁理屈のような事を言い出すと
すぐに言い返せずに、言葉に窮してしまうこともしばしばだ。
その点で言えば、有本さんの方が
瞬発力があって議論にはめっぽう強い。
有本さんは、当意即妙に相手の批判に反駁できるが
百田さんは、そういう事ができない・・・。
でも、そんな百田さんだからこそ
その場で間髪入れずに答えた
「有本さんなぁ・・・
わしらは恩返しをせんとあかんねや」
と語ったその言葉が
百田さんの心の底から滲み出た言葉だったように
私には感じられてならなかった・・・。
百田さんは、きっと心の底から
日本のために戦い、その命を捧げた英霊たちに
深い感謝と尊崇の念を持たれているのだと思う。
だからこそ、そんな日本を守りたいのだ。
日本を強く、豊かにしたいのだ。
そんな日本を、未来の日本人へ繋ぎたいのだ。
今、飯山さんの内部リークによって
日本保守党のメッキがボロボロと剥がれてきている。
そしてその大部分において
私は、飯山さんの言い分に合理性があると感じている。
そもそも、百田さんも有本さんも
完璧な人間でもなければ
ダメなところもいっぱいあるだろう。
それは間違いない。
けれども、その行動や言動の核心にある
「恩返しをしなければならない」
「我々は、英霊に救われた身なのだ」
という信念に関しては
私にはどうしても、嘘だとは思えないのだ・・・。
そして、それこそが
私が今まで日本保守党を強く支持してきた
最も大きな理由であり
最も評価されるべき点なのだと
私は考えている。
次回は、マキャベリの「君主論」に基づいて
百田尚樹氏が君主(党首)に相応しい存在かどうか
その点を論じたい。
それと最後にもう一点
本来は、総選挙の判断材料にもなり得ると考えて
書いていたものだったにも関わらず
選挙日までに全編が間に合いそうもなく
中途半端な形になってしまい
読んで頂いた方には、大変申し訳ない・・・。
選挙が終わった後も、誰かにとって
何かしらの参考になればという思いで
最後まで書き上げたい。
<次回へ続く>