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以て瞑すべし


生まれ生まれ生まれ生まれて
生の始めに暗く
死に死に死に死んで
死の終わりに冥し

          弘法大使 空海 「秘蔵空論」


インドに「ウパニシャッド」という古典があり
その中で、「ヤヤティ」という王に纏わる
非常に意義深い逸話が語られている。


□□□□■ 「ヤヤティと死神」


古代のインドにヤヤティという偉大な王がいて
遂に、齢100歳を数えるまでになる日が訪れた。

彼は一国の王として途方もなく長い時間を生きながら
生が可能にしてくれる、ありとあらゆるものを楽しんできたのだが・・・
ヤヤティが100歳に達したその日
彼の元に黄泉の国から死神がやってきて
この様に告げた。

「準備をするがいい。お前の番だ。
私はお前を連れにやってきた」

ヤヤティは偉大な戦士で、多くの戦で勇敢に戦ってきたが
死を目の前にすると、途端にぶるぶると震え出してしまった・・・。

ヤヤティは怯えながら、死神に嘆願する。

「でも、まだ早すぎます。
どうかお助け下さい!」

死神は呆れながらヤヤティに問う。

「早すぎるだって!?
お前は100年も生きたのだぞ。

お前の子供ももう年老いてきている。
長男は80歳だ。
これ以上、何が望みなのだ?」



ヤヤティには100人の妻がいて
100人の息子がいた。

ヤヤティは死神に尋ねる。

「私の望みを聞いてくださいますか?
あなたが誰かを連れていかなければならないのは分かっています。
もし息子の誰かを説得できれば、私のことは後100年、放っておいて
その子を連れて行ってくれますか?」

死神は言った。

「他の誰かが行く気になれば、全く構わない。
だが、それはないだろう・・・。
お前に準備ができていないのだ。
お前は父親で、誰よりも長く生きてきて、全てのものを楽しんできた。
それなのに、息子たちにどうして準備ができよう?」

ヤヤティは100人の息子を呼び寄せて事情を説明したのだが
年上の息子たちは黙り込んでいた・・・。

そこには大いなる沈黙だけがあった。

誰も口を開こうとはしない。

しかし、ただ一人だけ
まだ16歳の末っ子が立ち上がると
毅然としてこう叫んだ。

「僕を連れて行ってください!」

死神ですら、その子を哀れに思い
説得せざるを得なかった。

「恐らく、お前はあまりに無垢なのだ。
99人の兄弟が黙ったままなのが分からないのか?
80歳の奴もいれば、75歳の奴もいる。
70年、60年、奴らは生きてきた・・・
しかし、誰も彼もまだ生き長らえたいと思っている。
お前ときたら、まだ全然生きていない。
私でさえ、お前を連れて行くのが悲しいくらいだ。
考え直してみなさい」

しかし、少年は頑として意思を変えようとはしない。
そして彼はこう語った。

「いいえ、この状況を見て、気持ちは固まりました。
悲しくなったり、気の毒に思ったりしないで下さい。
僕は、完全な気づきと共に行きます。

僕には分かるんです。
もし父が、100年生きたのに満足できないのなら
ここにいる意味がどこにあるでしょう?
僕がどうして満足できるでしょうか?
僕は99人の兄弟を見ています。
誰も満足していません。
だったら、どうして時間を無駄にするんですか?
少なくとも、僕はこうして父の役に立てる。
晩年の父が、さらに100年間、人生を楽しんだらいい。
でも、僕はもう終わりです。
誰も満足していない状態を見て、完璧に理解しました。
100年生きようと、僕も満足しないでしょう。
だから、今日行こうと、90年後に行こうと、僕は構いません。
どうか僕を連れて行って下さい」

死神は憐憫の情を感じながらも少年の言葉を受け入れ
彼を黄泉の国へと連れていった。

そしてまた100年後
死神はヤヤティの元へと戻ってきたのだが・・・
更に100年を生きながらえたヤヤティはと言えば
相も変わらずの様子だったのだ・・・。

「この100年も、あっという間でした。
私の上の息子たちも、みんな死んでしまった。
だが、私にはまだ代わりがいる。
別の息子を差し出そう。
どうか情けをかけておくれ」

この様に同じことが繰り返され
いつの間にか・・・千年の時が流れ去って行った・・・。

死神は10回やってきて
その内9回は息子を連れて行き
ヤヤティはさらに100年を生き延びた。

流石に10回目ともなると
ヤヤティは不承不承にこう言わざるを得なかった。

「さて、私はあなたが最初に来た時と同じくらい不満なままですが
今回は・・・いやいや、渋々ながらですが、行くことにしましょう。
なぜかと言えば、頼み続ける訳にもいかないからです。
それは余りにも度が過ぎています。
そして一つ、私にとって確かになったことがあります。

もし千年経っても満足できなかったら
1万年経っても無理だということです」    


                          □ ■ ■ ■ ■


人はどのように生き
そして、どのように死ぬべきであるのか・・・。

我が師は、斯くの如く語った。

宗教的な問いの中心にあるのは
本当のところ、神ではなく、死だ。
死がなければ、宗教は全く存在しなかっただろう。
人に「超越したもの」「不死なるもの」を探究させるのは、死なのだ。
(中略)
愚かな人々は神について尋ね
知性のある人は死について尋ねる。
神について尋ね続ける人々は、決して神を見出さないが
死について尋ねる人は、神を見出すことになる。
あなたを変容するもの
あなたのヴィジョンを変えるものは、死だからだ。


ドイツの哲学者、マーティン・ハイデガーもまた
この様に語っている。

存在の真実からはじめて
聖なるものの本質を考えることができる。
聖なるものの本質からはじめて
神性の本質を考えることができる。
神性の本質の光の中ではじめて
<神>という言葉が何を言っているのかを
考え言うことができる。


ハイデガーの言う「存在の真実」を鮮やかに浮かび上がらせるもの
それこそが「死」なのだ。

「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」


私は老子が大好きで、むしろ孔子はあまり好きではない。
けれども、論語の中で語られたこの言葉は
孔子の語った言葉の中で、最も意義深い言葉だと思う。

「人としての生きる道」

それは一体、どこにあるのか。

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