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日常写真

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雑記、小さな話題
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#散文

8月の緑

昼の緑地。木々は静まり返っていて、生い茂った緑色がちょっと生々しく迫ってくるように感じられる。今年も猛暑だけど、去年までの熱波とは違って暑さは少しマシかなと思う。帰ったらしなければならないことが残っていて、それが片隅に引っかかっているのだけど、短い時間、目の前の景色を写真に撮っていた。

どこかの場所からの眺め

写真に写っている光景のなかに自分はいないけれど、どこかからそれを眺めている自分がいる。空とか、遠くの山々、街、木々といったもの。カメラは外界を内側へと裏返して記録する装置で、写っている景観はどこか特定の場所からの眺めなのだから、その場所から見ている誰かがいなければ、世界は成立しない。どこでもない場所から世界を眺めることはできないだろう。誰の視点でもない眺めというのは想像できないけれど、誰かが見ているわけではなくても、世界はそのとおりにあって、眩しい光を発している。

メトロポリス

昔、どこかで買った「メトロポリス」のビデオ。長いあいだ、観ることなくしまってあるものだけど、映画のなかでアンドロイドが誕生するシーンを、時々、思い出すことがある。1927年の映画だから、遠く、かつては存在したものたちの記録のように古く、フィルムにはアンドロイドの精巧な容姿が映しだされる。まるで原型のイメージみたいに、消滅した時間のなかで金属の身体は輝いている。幻影のようなその姿は、時間を超えて顕在化してくるものようにも思えてくる。100年近く前のこの映画を、まだ、忘却すること

ブラウン管テレビ

部屋にはブラウン管のテレビが置きっぱなしになっている。デジタル放送開始前に買ったもので、久しぶりにスイッチを入れてみたら、画面が明るくなった。壊れてはないが、放送は映らない。一昔前の芸術作品のように砂の嵐がうごめいているだけで、使い道もない。昭和のレトロな年代物でもないから、インテリアにもならない。ただ、ビデオデッキと繋げてあって、昔録画した映画などを観れるようにしてある。それが唯一の使い道なのだけど、動画の多くはPCで観れるから、滅多に使うこともないまま、ずっと部屋に置かれ

日常B

日常にAとBがあるとすれば、写真に写った日常はBなのだろうと思う。というのも、写真を撮るとき、日常の本筋のほうは、なるべくフレームに入れないようにしているから、脈絡もなければ、人の姿もない景色ばかりが増えてくる。それらを眺めていると、どこか虚構じみて見え、普段の日常とは違った、といって非日常とまではいえないような、あえていえば「日常B」が、そこにあるように思えてくるのだ。写真に残る日常は、Bのほうばかりだ。

小さなエピソード

ネットは一種のコラージュのようで、モニタには光しかなく、それは物質かもしれないけれど、表示される文字がモノに固定されないためか、本のように読んだとしても、脈絡が象徴を動かすという感じがないまま、意味だけをつかむような読解になるという気がする。そういう読み方に、普段は慣れているわけだけど、写真も文字と同じ場所にあって、同じ光から出来ていて、モニタが映す光によって結びつけられている。この「光景」は、小さなエピソードが生まれては消える世界をつくりだしているのだと思う。

河原という場所

カメラを持って出かける場所というのが、大体決まっていて、毎回、同じ場所に行くことが多かった。いつも行く場所というのが、河原だった。何年間も、同じ場所で、似たような写真を撮っていた。いつものように、空と草木、そして遠景ばかり。でも、季節や天候、時刻によって、運のいい写真が撮れることもある。同じ場所なのに、この時だけしか撮れないと思えるような写真が、まれにあったりした。最近、ようやくというか、あまり河原に行かなくなった。マンネリ化したし、持っているデジカメの性能も古くなった。それ