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TRPG制作日記(158) ガルガンチュアとパンタグリュエル

多くの企業から販売されているデジタルゲーム、そして子ども達から時間を盗むことを目的としているとしか思えない、漫画、アニメ、ライトノベルが社会問題とされていることは広く知られているでしょう。

日本では意識の高いおじさまたちがアニメキャラクターを馬鹿にして、中国では法律によってゲームを規制するようになっています。

人々はサブカルチャーによる文化の汚染に絶望しているようです。

しかし、ビジネスマンは賢いので、このサブカルチャーを利用して子ども達に勉強を教えようというプロジェクトがあります。子ども達が嫌いな歴史や科学や文学を、タブカルチャーという砂糖により甘くして提供してしまおうという発想です。

文学や芸術の問題は、その表現が古いこと。

文学には世界にたいする普遍的な認識と、そして人間にたいする深い理解があるのだから、それを現代風にアレンジすれば、そこには素晴らし何かが生まれるだろう。

サブカルチャーの問題は、その内容に価値がないこと。ただ楽しいことだけで中身がないからだという発想です。

だから、高尚な学問を土台にすれば、サブカルチャーは文明を破壊するのではなく社会の発展に貢献できる……。


という話の流れは、そもそも正しいのでしょうか?

今日は三人目のルネサンス文学者、ラブレーの『ガルガンチュアとパンタグリュエル』について書きます。


フランソワ・ラブレーは1483年に生まれたとされる、フランス・ルネサンスを代表する文学者です。

ダンテが1265年に生まれて、ボッカチオが1313年に生まれたので、彼らよりも後の時代の人文学者となります。

ダンテは『神曲』において普遍的真理を探究しました。彼の物語は地獄、煉獄、天国へと昇っていきます。

いっぽう、ボッカチオは『デカメロン』において人間を深めます。彼の物語は十人の男女がお話をすることで進行します。彼は高尚な真理や神を問題にするよりも、人間を問題にしたかったのです。


それでは、この偉大な二人のイタリア人に対して、フランス人のラブレーは何を追求したのでしょうか?

何も追求していません。

読者が深読みをしないように、前文ではっきりと断言していますが『ガルガンチュアとパンタグリュエル』は中身のない作品であり、この物語には善悪や深い感情は書かれていません、この物語から学ぶことができるのはただ笑いのみですと書いてあります。

巨人が出てくる話ですが、何か深い意図があるわけではなく、ただ巨人の話が人気で売れているから書いたようです。

本文にも巨人物語は楽しいよ、巨人の話は『ガルガンチュア年代記』(作者はラブレーではない)を読んでねと書かれています。

内容は雑で、哲学的な感動はなく、このような本を真面目で良い子のカトリックが許すはずもなく、順当に発禁になりました。

中国は体制批判が含まれているとデジタルゲーム会社に圧力と制限をかけていますが、おそらく本当の理由はそこではなく、ゲーム依存症の子ども達を何とかしたかったからだと思われます。

楽しいことは悪いことなのです。


ドラゴンといえば、天使の敵にして、ワーグナーでは人間の欲望を象徴するような存在として描かれています。七つの大罪のキャラクター化、それこそがドラゴンです。

それは英雄が乗り越えなくてはならない壁なのです。

しかし、デジタルゲームのドラゴンは、ただの火を噴く巨大なトカゲで哲学的な意図など欠片も感じられません。

強くて凶暴で格好いいだけです。

ぎゃおんと雄叫びを上げながら、火を噴いて、TRPGでも遭遇したら大変な敵として登場します。そこに哲学は、少なくとも神学はありません。

ラブレーの巨人も似たような感じで、そこにオリンポス神と戦ったティターン族が表現されているようには思えません。


ラブレーが追求したかったのは、純粋な面白さです。

ラブレーは前文でソクラテスについて言及していますが、ソクラテスは哲学者達をからかい、お酒が好きで人生を楽しみ、そして若者を堕落させる詐欺師として非難されていたと知られています。

しかし、彼の弟子であるプラトンは『国家』を書いて、その弟子であるアリストテレスはギリシャ哲学を発展させました。

楽しいということには、若者が楽しいと思うことにはそれ自体に何かがあるのではないかとラブレーは考えます。

ただ面白いだけのことを馬鹿にすることはできないのです。


前回、ボッカチオの話をしたときに、高尚なダンテにたいして、日常で素朴で人間を扱った『デカメロン』と書きました。

しかし、おそらくラブレーにとっては人間存在を深める、ということがそもそも高尚すぎます。

普遍的真理か、人間存在の本質か、その枠組みがすでに駄目なのです。

面白いこと、ただそれだけを追求したい。

面白いことには価値がある。

私たちが物語を面白いと思い、しかし中身がない、哲学がない、思想がないと思うときには慎重になるべきかもしれません。それはまだ認識できない新しい価値観を提唱しているだけなのかもしれないのです。

むしろ、面白さ以外に何もないような作品、コンテンツこそに私たちが見逃している大切なこと、私たちが気がついていない大切なことがある、それがラブレーの戦略です。

物語か人物か、などはどうでもよくて面白いことが重要なのです。

そして、面白い物語というのは、高尚な物語の劣化ではなくて、それとは別の分野のそれ自体が価値のあるものなのです。

勉強のためにエンタメを利用する人は馬鹿なのです。


かつて、純文学とミステリーやSFなどのエンターテイメントは実際にはどちらが価値があるのか年配の人たちが議論していたので、面白いのでライトノベルを題材にしました。

芥川賞VS直木賞という思考の枠組みの人は、どのようにライトノベルを読むのでしょう。

すると、エンターテイメント派の人は言いました。

「これはエンターテイメントではなくて、ビジネス」


文化活動とすら思われていなかったサブカルチャーは、その活動を活発化させているように思えます。

さらに、メタバースなどの先端ビジネスに役立ちそうなのは、明らかに文学やエンターテイメントではなくて、ライトノベルや異世界転生です。現代文学が文明の発展に貢献しそうには見えません。

もしラブレーが今生きていたら、彼は異世界転生やデジタルゲーム以外には興味を持たないでしょう。

そして、間違いなく、古い文学や学問を、異世界転生やデジタルゲームに持ち込むことに反対したでしょう。

新しい感性が、古い感性で汚染されることを嫌うからです。

面白さを追求すること、それ以外は不純なのです。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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