見出し画像

TRPG制作日記(162) 小説の誕生

物語と小説を区別する、より誤解を恐れずに表現するのであれば物語と小説を対峙させる習慣を奇妙に感じた人はいるでしょう。小説に物語は含まれているものであり、そして小説と物語は似たようなもので、そもそも区別する必要はないと。

しかし、物語と小説を区別するのは一般的で、しかもわざわざ区別するのには主に二つの理由があります。


一つ目は、二十世紀における「大きな物語」と「小さな物語」というポストモダニズムの概念です。

二十世紀、ソビエト連邦が誕生したことで、人類は科学技術の発展により進歩するという史的唯物論の考え方が生まれました。この物語によると、まるでダンテの『神曲』のように、人類は自由主義、社会主義、共産主義と発展して差別と貧困のない楽園に至ります。

しかし、このソビエト連邦が衰退して崩壊すると、ソビエト連邦が提唱していた大きな物語ではなくて、物語の拒否、あるいは小さな物語というポストモダニズムの考えが広がります。

ここでポストモダニズム小説というのは非ソビエト、非共産主義という文脈で物語の否定であり物語の拒否となります。


一つ目の理由は「物語」という言葉が、ソビエト連邦という特殊な文脈で使われていたことの名残というテクニカルな理由でしたが、二つ目はより直接的な理由です。

それは私たちが小説と呼ぶのは、歴史上、十八世紀のある明確な一点からはじまるからです。

その一点とは二つの小説、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』とスウィフトの『ガリバー旅行記』です。

今日はこの二点について話します。


デフォーの『ロビンソン・クルーソー』は1719年に刊行されました。セルバンテスの『ドン・キホーテ』は1605年、バニヤンの『天路歴程』は1678年に刊行されています。

さて、小説『ロビンソン・クルーソー』は主人公のロビンソンの誕生から始まり、無人島に漂流して、無人島で生活していく話です。彼は無人島を開拓して、フライデーという奴隷を手に入れて、そして最後は無人島から脱出して成功します。

この小説がそれ以前の、ダンテ、ボッカチオ、ラブレー、セルバンテス、バニヤンの五人と決定的に違うのは、それまでの五人が究極的にはキリスト教と人間がテーマであるのにたいして、『ロビンソン・クルーソー』は究極的には資本主義がテーマになっているところです。

ロビンソンは新しい(ノベル)人間です。彼は資本家のように考え、資本家のように行動して、そして資本家のように開発して富を蓄えます。彼は経済活動をする人物なのです。

経済的人間が主人公である。それが小説の始まりです。


いかにしてキリスト教徒になるのか、ではなくていかにして自分の人生を切り開いていくのかが小説の特徴です。

小説の登場人物は、神ではなく、信仰ではなく、環境や周りの人々と関わりながら成長していきます。

そこにはキリスト教もあるでしょうし、信仰や革命がテーマになっていることもあるかもしれませんが、それでも小説とは資本主義という新しい社会で生きていくことが前提となっています。

さらに加えるならば、小説には労働という概念があります。


ダンテの『神曲』は死後の世界の物語です。衣食住は必要なく、そこで問題になるのは信仰でした。

また、セルバンテスの『ドン・キホーテ』においても、目に見える世界と妄想の違いが問題になっていました。

しかし、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』では、主人公は無人島を開拓して衣食住を確保しなくてはなりません。そして、そのために彼はフライデーを必要としたのです。


いっぽう、スウィフトが『ガリバー旅行記』(1726年)で問題にしているのは科学、そして進歩です。

『ガリバー旅行記』には四つの地域が登場しますが、科学の国ラピュタは進歩のための進歩、進歩と科学そのものが目的となっている国で主人公のガリバーにとっては異常な国です。

その他にも、『ガリバー旅行記』には、当時の社会問題と思われる多くのことが扱われています。ここに信仰と現実の対比ではなく、現実そのものを問題とする活動が始まったのです。


マルクスは無意識という何かに気がつきましたが、無意識について研究しようとはしませんでした。研究をはじめたのはフロイトです。

同じように、そこに宗教や学問とは異なる、もう一つの「現実」という領域が存在していることには気がついていました。

しかし、現実とは何かについて考えようとはしませんでした。


ここで私たちは物語という何かを伝える形式ではなく、小説という自分が見えている世界観を表現する、主張を伝えるのではなくて自分の世界を見せるという活動を始めます。

本格的なリアリズムの始まりです。


最後に私たちは、良くファンタジーとリアリズムという対比がされていることに注目しておきます。

より自分の生活に近い、エッセイに近い作品をリアリズム、遠くになるほどファンタジーと呼ぶことは広く行われています。

しかし、物語と小説という対比において、異世界冒険TRPGなどは完全にリアリズムの仲間です。小説です。

なぜなら、お金のためにダンジョンに潜りモンスターを倒して、お金を払って自分の装備を整える。

悪魔の誘惑を振り切るためではなくて、生活のために冒険する。まさに経済的人間が表現されています。


文学におけるリアリズムとは、より正確には世界観です。私たちは生きていくために労働を必要としている、それがリアリズムなのです。

この点において、Web小説として人気のジャンルである「異世界転生」は典型的な小説です。

主人公は例外なくロビンソンのような経済人で、彼らは必死に経済活動をしながら生き延びていきます。

そこに元々の意味でのファンタジーはありません。登場人物達が妄想と信仰により救われることもありません。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?