本当に立ち去って行った森田童子      暇刊!老年ナカノ日報④ 2018.7.2

「高校教師」に教えられたこと

森田童子はぼくが高校生のころにデビューして、就職してしばらくしたころに音楽の世界からいなくなりました。ぼくはファンでもなんでもなくて、岡山でライブがあったということさえ知りませんでした。それからずいぶんたって、古本屋で「マザー・スカイ」というレコードを見つけて買ってきて、にわかにとらわれました。身体を腐らせてしまうような寂しさや死によってしか救われることのない苦しさが、そこにはありました。
「ぼくたちの失敗」が主題歌になった「高校教師」がブームになったのはそれからしばらくしてからです。
ぼくが忘れられないのは「高校教師」の初めの方、真田広之と桜井幸子がデートとも言えないような初デートをする回のことです。最初ははしゃいでいた二人が、夕方が近づくにつれて黙り込むようになり、夜の暗い道を二人別れてうつむくように帰っていく。そこにある寂しさは、森田童子のうたと確かにつながっていました。
夢とか希望とかいう言葉を、みんな明るいもの良いものとして発声する。そういう面も確かにあるのだろうけど、もてあますような夢、かなうとは思えない希望を抱えたままひとり歩く夜道がどんなに寂しいものか、ぼくはあのシーンで教えられました。

森田童子が死んだことを伝える記事の中に、「友人が捕まったのをきっかけに高校を中退した」という記載を見つけました。ぼくはこのことを知らなかったんですが、知ってみると「さよならぼくのともだち」がまるで違ううたのように聞こえてきました。ぼくは中途半端な聞き手にしかすぎませんが、それでもある時期からずっと、森田童子のうたを自分の中で鳴らしてきた者である。今ごろ気が付いた、このうたのもう一つの姿を書きたいと思いました。

「もうひとりのきみ」と「いなくなってしまったぼく」

  仲間がパクられた日曜の朝
  雨の中をゆがんで走る
  やさしいきみは それから
  変わってしまったネ
  さよなら ぼくの ともだち

これは「さよならぼくのともだち」のある意味核心をなす一節です
「ぼく」は「きみ」と友達になり、一緒の部屋に住む。静かでやさしくて弱虫のきみは、仲間が逮捕されたのを機に変わってしまい、帰って来なくなってしまう。残されたぼくは「きみはぼくのいいともだちだった」と言うしかない。そんなうたなんですが、ぼくはここに出てくる「ぼく」が男なのか女なのか、本当はどちらなんだろうと思っていました。
森田童子の声はいかにも女の子の声で、ふつうに聞くとこのうたの「ぼく」は女で、男である「きみ」のことをうたっている(「ひげをはやした静かなきみ」というところがあるから、「きみ」が男であるのは間違いないと思える)と聞こえます。しかしここで「ぼく」が男だとすると、このうたは女である森田童子が自分を離脱して男の「ぼく」に変容して、「ぼく」と「きみ」のことをうたっているとも聞こえます。この両者がぶれながら両方聞こえてくるのがこのうたの魅力だと、ぼくは漠然と考えていました。

ところで、あの記事に書いてあった「友人が捕まったのを機に高校を中退した」つまり森田童子自身が「仲間がパクられて変わってしまった」「きみ」なのだとすれば、このうたはどう聞こえるか。そういう前提で聞くと、変わってしまった上にいなくなってしまった「きみ=森田童子」のことを、親しかった人間が「ぼく」として「いいともだちだった」と語っているということになります。この場合「ぼく」も「きみ」も、男か女かはあまり関係ない。自分がいなくなった後で、自分のことをさびしく思い出してほしい、それがここでうたわれているすべてだと思えます。

そう思い当たるのとほとんど同時に思い出したのが、吉本隆明の「分裂病者」の中の一節「きみのもうひとりのきみはけっしてかえってこない」でした。これは言ってしまえば、自分らしくあり続けようとしたために、そうありたかった自分(優しくて善良な)は永久に失われてしまうといった詩句なのだと思いますが、この「かえってこないきみ」が半分裏返ったのが「帰って来なくなったきみ」だと思うのです。吉本隆明は「かえってこないきみ」を痛ましい思いで自ら葬ろうとするのですが、森田童子は「ここには帰ってこないぼく」をきみに覚えていてほしい、さびしい気持ちで「きみがとても好きだった」と思い出してほしいと言っているのです

森田童子が死んだと聞いた時、きっといろいろな人たちがあれこれ言うんだろうと思い、それはあまり聞きたくないと思いました。ところが実際には、マスコミでもネットでも、ごく一通りの反応があっただけでした。考えてみれば、森田童子が音楽の世界から去ってしまった時も、みなあまり何も言わず、それを黙って受け止めていたようです。その後、うたをやめ、主婦となり…といったことはなんとなく伝わっていたけれど、だれもそれ以上を語ろうとはしなかった。ドラマがヒットして「時の人」になったときもそうでした。黙って立ち去って行った人のことは、黙って見送るべきだと申し合わせてでもいるみたいでした。
結局ぼくは、自分であれこれと言っているわけです。森田童子のうたを、静かに自分の中で鳴らし続けていた人が、その死を聞いて、思わず身体の外まで響く音を鳴らすなら、それを聞きたい。そう思います。黙って森田童子のことを考えていた人たちは、森田童子が死んで、いま何を思っているんだろう。

(追記)
しばらく前に「高校教師」が再放送されました。あらためて見ると、ぼくが書いた「最初ははしゃいでいた二人が、夕方が近づくにつれて黙り込むようになり、夜の暗い道を二人別れてうつむくように帰っていく」というシーンはありませんでした。類似したシーンはあるんですがそれとは表すものが違っていて、どうもぼくが記憶を作り変えていたみたいです。つまりぼくは、ぼくが見たかったシーンのことを書いていたみたいです。