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🟠「2000年 葵 徳川三代」蘊蓄GOES ON! 第4蘊蓄 そのA

The Battle of Sekigahara, 1600

以下の通りに、

ここから、シーンの解説を。
🔴見過ごしてしまう名場面004

第一回「総括関ヶ原」から

始まって8分24秒目。

徳川 赤坂本陣
秀忠は未だに宇都宮木曾路山中。
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🔴見過ごしてしまう名場面005

始まって16分14秒目。
伝令を前に、

「まさのり。全軍に下知せよ!
 この雨では飯は炊けまいが、
 生米は決して喰うな、と。

 あのなあ?水にしたしておいて
 戌の刻に食え、と。」

上記の場面は、
yahoo質問箱の質問者の場面である。
◆実は、まさなり、ではなかったか?
この解説は、第2蘊蓄をご覧ください。
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🟠戌(いぬ)の刻、とは現在で言うところの、
19時から21時である。

水にしたす、とは
読みは、「浸す」である。
即ち、ひたす、である。
家康軍は、米と八丁味噌を常帯していた。
これも、家臣団の健康を慮っての事。
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🔴見過ごしてしまう名場面006

東軍にも多大な戦略ミス ➡︎ 徳川秀忠

「血のしょんべんじゃ。」

戰目付の本多正信の進言、諫言を無視して、
同動の榊原康政、大久保忠隣の推奨もあり
真田攻めを敢行する。しかしながら、
信州、戦上手の真田昌幸の罠、策略に陥る。

功を焦る自軍の忠隣の将兵の自暴行軍で、
大切な家臣の生命を十数人打首に繋げてしまった、
若き大将、秀忠。彼の浅はかな戦略ミス。

目上の進言を聴かぬからこうなる。

このとき、齢20歳すぎ。
「助けてくれー」
打首の悲鳴を聴きながら、その秀忠の元に
雨の中、家康の命を受け先月江戸を出た
密使がやっと到着する。

時間を費やした徳川本隊38000だが、
9/10頃までには、赤坂に着陣せよ、との

父家康の命に、ぼんやり大将秀忠は焦る。
「明日では、ごさらんか?」と榊原康政。

「明日よー!?」と秀忠。

夜を徹して、泥路雨の中の行軍は
遅々として進まず。
用を足そうと、秀忠は小便をする。
これが、血尿だった。

これは、悪性腫瘍のひとつの証であり、

血尿の原因として1番怖いのが悪性腫瘍、
すなわち癌です。
癌細胞は正常な細胞と違い、
非常にもろい構造です。
なのでちょっとした刺激や力で
すぐ壊れてしまいます。

尿路に出来た悪性腫瘍の組織が崩れることに
よって出血します。
それが身体からのSOSのサインとなります。

血尿を生じる癌は、
膀胱癌、尿管癌、腎盂癌、前立腺癌が
挙げられます。この癌の中で
最も多く血尿の原因となる癌は膀胱癌です。

1989年に亡くなった松田優作も、
そうだったはず。

膀胱癌は基本的に血尿のみの症状で
痛みや発熱は伴いません。
尿管癌、腎盂癌も血尿の原因となりますが
頻度は高くありません。
前立腺癌は初期であれば
血尿を伴うことはほとんどなく、
進行している場合血尿を伴います。
前立腺癌は2020年には
男性の癌にかかる人の数が1番になると
言われております。

悪性腫瘍を放置すると
癌は皆さんご存知の通り、
早期発見 早期治療が原則です。

進行してしまうと手術が
出来なくなる可能性もあります。
血尿が悪性腫瘍のサインであることも多く、
血尿は放置せずに気づいたらすぐに
泌尿器科を受診を。
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🟢徳川秀忠は、将軍職を父家康から相続後は、
「腫物」に苦しんだ記録がある。
恐らくは、癌であろうと。

その身体的サインが、血尿であり。
癌だったか?
悪性腫瘍のサインが早くから出ていたのか?
大河ドラマでは初の、巧い描写である。

◆室町幕府14代将軍足利義栄(あしかがよしひで)も、
晩年は腫物で命を縮めている。
これは、少しだけであるが、
大河ドラマ「麒麟がくる」で描写された。
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🔴見過ごしてしまう名場面007

やはりプライドを超えた戦術の無さ。
自分に靡いてくれるだろう、と
自軍大名連中を率いた旗印。

関ヶ原一番乗り。
三成軍本陣、笹尾山での描写。

「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」

この旗印の意は
「一人が万人のため、
 万人が一人のために尽くす。
 そうして天下は太平になる」という。

ワンフォールオール
オールフォーワンと同じ事。

しかしながら、これを掲げた大将に
人望無くば、誰も付いて来ず。
この最大の見本。
これを日本の歴史の決戦場で示す。
我が国の令和K首相のようですな、これ。

一人の重臣。
「武人の誉。これに優るは無しじゃ。」と、
石田三成が重臣 島左近。

「散り残る紅葉は、殊に愛おしき。
 秋の名残は之ばかりぞ、と。」と三成。

「散り残る紅葉」とは? と蒲生郷舎。

「豊臣家じゃ。」三成は返答する。

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🔴見過ごしてしまう名場面008

関ヶ原の濃霧は
午前7時すぎ。ようやく晴れ間をみせる。
その晴れ間を見つめる小童、小早川秀秋。

未だにどうするか、迷いつつあり。
この小童は、まだ19歳。
なのに、15000人を率いた大将なのだ。
数時間後には、大谷吉継隊に
「皆殺しじゃあー」と突撃していく。

吉継の呪いを被ったのか、2年後には
狂い死にで一生を終えて、小早川家は 子もなく断絶となる。
その重臣、斎藤福の元夫 稲葉正成は、
家康に拾われ
豊臣恩顧の大名が死に絶えたあとは、
徳川家の大名に取立てられる。
元妻 春日局の威光あってのこと。
これは、大河「春日局」で詳しく描写。
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🔴見過ごしてしまう名場面009

初陣の四男松平忠吉。
義父である、譜代重臣井伊直政。

徳川の先陣の場面で、
勝野洋演じた井伊直政が、四男忠吉に対して
放った台詞。

「合戦の火蓋を切るのは何としてでも、
 徳川の臣、臣たるべき。
 (いまは豊臣恩顧の大名である)
 福島正則に先陣を赦せば、後々まで
 大言を吐くに相違御座らん。
 この直政に策がござる。」

テキサス勝野洋も、若かりし頃は、
ロッキー木之本亮同様に、
台詞の発音が聴き取りにくい。
何を言ってんの?テキやん。
両人とも大河ドラマに出演している。
大河ドラマも、最近でも、特に落ちぶれたーものだ。
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「ジ、シンたるべき」と聞こえるが、
そうではなく、
正しくはこの台詞。
「臣(じん)、臣(しん)たるべき」である。

四男忠吉は、直政の娘婿であり、
家康が忠吉の指南役として、
譜代の家臣直政に命じた事が、
以降の忠吉を成長させる。
現代風で云えば忠吉のサポーターである。

◆ 臣、臣たるべき、とは、

『論語』に

「君 君たり、臣 臣たり、
   父 父たり、子 子たり」
(顔淵第十二―十一)という、
有名な言葉があります。

意味は
「君主は君主らしく、家臣は家臣らしく、
父親は父親らしく、子どもは子どもらしく、
それぞれ努め励みなさい」ということ。

即ち、家康は実父であるが、直政とともに
忠吉は息子と言えども家臣である。
と訓示する師弟である。

よって
臣(じん)は臣(しん)たるべき。と。
その後に福島正則を出し抜いて見せる
戦闘の見本を自ら示した直政だったのだ。

その直政は、養母井伊直虎に育てられている。
この恩義は、直政は忘れておらず。
詳細は大河ドラマ「おんな城主直虎」を
探索仕るべし。

井伊直虎は、男ではなく、女である。
「我は、井伊なおとら、である」
と柴咲コウの名台詞が懐かしい。

また、三成滅亡後は、佐和山城は更地にさせ、
三成の築き上げたものは全て焼却し、
その後に、主命(家康)により、佐和山城を
井伊家の居城とさせた。現在の彦根城となって
いるのは、方々ご承知でしょう。
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🔵言葉の意味

  1. 先鋒とは?
    さきて。さきがけ。前鋒とも。
    剣道や柔道どの団体競技で、最初に対戦する人。
    先鋒→次鋒→中堅→副将→大将と代わる。

◆太陽!112話「テキサス刑事登場!」の
ラストシーンでは、
署内柔道対抗試合が描かれて、大将の勝野洋が
勝利するシーンが描かれている。見事に一係が
3対2で、勝利するシーン。
物語では柔道四段の設定だが、
勝野洋は実は三段である。

  1. 物見(ものみ)なり。

 1 物事を見ること。見物すること。
「—に出かける」

 2 戦陣で、敵情を探ったり見張りをしたり
 すること。また、その人。「—を遣る」

 3 「物見台」「物見櫓 (やぐら) 」の略。

 4 外を見るために設けた窓や穴。
㋐牛車 (ぎっしゃ) の左右の立て板に設けた窓。
㋑壁や編み笠などに設けた穴。

 5 見る価値のあるもの。すぐれたみもの。
「これ程の— を一期 (いちご) に一度の大事ぞ」
〈義経記・六〉

2.初陣(ういじん)

① 初めて戦いに参加すること。
また、その戦い。 いくさはじめ。
② 転じて、正式の競技会などに
初めて出場すること。

3.後学に為したまわらんとするもの也

1 後進の学者。後覚 (こうかく) 。
「—の徒」⇔先学。
2 将来、自分のためになる知識や学問。
「—のために教えていただきたい」
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🔴見過ごしてしまう名場面010

道を空けた福島正則家臣
可児吉長(かに よしなが)

Wikipediaより↓

正則が先陣と決まっていたにもかかわらず、
井伊直政・松平忠吉の抜け駆けによって開始されたと
されているが、実際は抜け駆け行為は
霧の中での偶発的な遭遇戦という形をとっており、

実際には戦闘開始は
それに続く福島隊の宇喜多隊に向けた
銃撃戦に求めるべきとされている。

また、7月7日付で
家康から諸将に出された軍法の第4条で
抜駆けは厳禁されており、
合戦開始時においても、合戦後においても
正則から直政に対して
何らの抗議めいた態度は示されておらず、
直政の開戦時における行為は、
かなり抑制されたものであって、
正則の名誉を傷つけないように
配慮されたものと推測されている。

  1. 頃合いでござる

ころ‐あい ‥あひ【頃合】
① 適当な時機。 よいしおどき。
② ちょうどよい程度。 似つかわしいほど。
英語で言えば、グッドタイミング。

  1. 放て!

タ行五段活用の動詞「放つ」の命令形。
鉄砲を放て!即ち、発砲せよ!と。

  1. 狼煙じゃあーっ!

1 合図や警報のために、薪(たきぎ)・火薬などを用いて
高くあげる煙。とぶひ。ろうえん。

2 一つの大きな動きのきっかけとなるような、
目立った行動。「改革の—が上がる」
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🔵この時代は、
個人ではなく集団戦法。

1.先制射撃、、火縄銃は一発しか放てず。
次の弾を込めるのに、3-4分が掛かったものと
推測される。

2.槍隊前へ!
3.しゃにむに突撃。
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🔴藤堂高虎

この戦国時代に主君を何度も替えた男。
転職活動で、最後は家康に見出された。
藤堂高虎にとって大切なのは「人」であり、
「○○家」ではありませんでした。

築城の名人である戦国武将。

背が高く、身長190cmの大男だったという
のが定説。また、生涯戦に身を置いたため、
身体中に隙間なく傷があり、
手足の指も何本かちぎれ、
爪のない指も数本あったことから、
藤堂高虎の遺体を清めた者が驚いた
という逸話が。
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🟣大谷吉継

Wikipediaより↓

吉継は業病を患っており、
容貌が変質したと伝えられる。
業病とは当時の仏教観で
(前世)の罪業に因する病として
忌み嫌われていた病気という意味で、
非常に治りにくい病気・あるいは
不治の病の総称として使われたが、
特に相貌に著しい病変を起こすハンセン病は
近代になるまで業病の一種として
忌み嫌われていた。

吉継がハンセン病であったと断定されて
いるわけではないが、
1587年に大坂を騒がせた辻斬(千人斬り)
事件では大谷吉継を犯人として
疑う風説が流れており、
(この事件は宇喜多次郎九郎らが犯人
として捕らえられている)、

これに関連して
『本願寺日記』(『宇野主水日記』)では、
吉継が癩病(らいびょう、ハンセン病のこと)の患者で
人体のある部分を(食するために)必要とした
のだとする説を載せている。

その他の病名として
組織壊死まで至った末期梅毒説もある。
崩れた顔を隠すための白頭巾を纏った姿で
描かれることも多いが、
江戸中期頃までの逸話集にはこの描写は存在しない。

2023「どうする家康」でも
そのように描いてた場面があり。
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🟣京極高知(きょうごくたかとも)

兄は、京極高次。これは小野寺昭が扮する。

Wikipediaより↓

室町幕府の侍所の長官に成れる家柄で
出雲・飛騨守護を務める名門京極氏の京極高吉の次男
として近江北部に生まれた。
早くから豊臣秀吉に仕え、その功により羽柴姓を許された。

秀吉死後は徳川家康に接近し、
慶長5年(1600年)には岐阜城攻めに参戦し、
関ヶ原の戦いでは平塚為広ら大谷吉継隊に対して
藤堂高虎と共に戦うなどの戦功を挙げた。

戦後は丹後一国12万3000石を与えられ、
国持大名として京極丹後守を称し、
丹後藩初代藩主となった。
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🟣黒田長政

黒田官兵衛の嫡男だけあって頭脳明晰。
かつ豪気な男として描かれた。

Wikipediaより↓

戦国武将・黒田孝高(官兵衛・如水)の嫡男。
九州平定、文禄・慶長の役で活躍した。

特に関ヶ原の戦いでは東軍につき
一番の功労者として称えられ、徳川家康より
筑前国名島に52万3千余石の封を受け、
福岡藩を立藩し初代藩主となった。

長政も父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、
棄教した。

名島は、現在の福岡。

幼名は松寿丸(しょうじゅまる)と。
松寿丸は秀吉の居城・近江長浜城にて、
秀吉・おね夫婦から人質ながら、
我が子のように可愛がられて過ごしたという。
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🟣島左近

詳細は後ほど。
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🟣細川忠興

夫人は明智光秀の息女玉。
クリスチャンネーム、ガラシャ。
グラシアとも云う。トヨタカムリグラシアにも、
車名として使われる。
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🔴見過ごしてしまう名場面011

  1. 推参なり。

石田三成が、
攻め手の黒田長政と細川忠興に対して。

すいさん
【推参】

  1. 《名・ス自》自分の方から押しかけて
    参上すること。


  2. 《名ノナ》さしでがましい振舞(であるさま)。
    「―もの」(無礼者)

上記の2の意味。

石田三成も、吉川広家もこの台詞あり。

現代でも、そう云う状況はあるも、
時は形勢が如何程にも転ぶか否か?
全く不明の時代。

石田三成にとっては、
黒田長政も細川忠興も、過去は
豊臣家の禄を喰んできた家臣だ。
それが、主家に対して戦いの牙を向いて
掛かってくるとは、「何様のつもり」か!と
怒りまくるシーン。
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  1. 今こそ天誅を加え〜ん!

天誅(てんちゅう)

•神などの人間を超越した存在が、
悪行を行った人間に対して誅伐を下すこと。天罰。
•転じて、日本のためにならないとみなした勢力の者を
暗殺する際「天の誅伐の代行」の意味合いで
用いられるようになった。

さらに、
第七回 弾劾状の回にて。

家康の悪行を今、誅するは、、と
三奉行に詰め寄るシーンから。

過去にも、

明智光秀も、信長の天下の悪業を
今誅するは、、と述べている。
即ち信長を誅するもの光秀である、と。

しかし、
「誅する」とは、この意味を考えると、

自分よりも身分が上位の者が、
下の者を誅伐を下す事であり、
光秀も三成も、上位の者ではない。

光秀は、単に切羽詰まった個人的単独行動。
相談するものは居らず。協力者も黒幕も
居なかった、のが筆者の論理。
これは当蘊蓄話で結論付けています。

三成は、上記のように誅する大義名分を
豊臣家に願い出るも、片桐且元に制された。
たった一人で算段するしか無くなる。

この時の恨みが、
「今こそ天誅を加え〜ん!」と。
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🔴見過ごしてしまう名場面012

まだ早かあー!

形容詞語尾の「~い」が
すべて「~か~」に置き換えられたのが、
九州全域。特に福岡、佐賀、長崎に広く使われる。

島津氏の鹿児島薩摩。でも云います。
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🔴見過ごしてしまう名場面013

「先陣を承りしは、、」

大将家康より先陣を承る。
先に突撃せよ、と。
徳川隊として先んじて戦いを仕掛けよ。

相手方に最も早く攻め入ることや、
先制攻撃を仕掛けることで、
後の攻め方を有利に展開させる様子を指す。
真っ先に行動を起こし、
他の武将がその後に続かせる、
大将家康の目論見。

此れを初陣の四男忠吉に任せた家康。
実は三男秀忠も初陣はまだ。
しかし、
三男秀忠は関ヶ原に大幅に遅参しており、
四男忠吉に任せざるを得なかった家康。
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🔴見過ごしてしまう名場面014

してやったりー

『してやったり』の解説

事が思った通りに運んだ際の達成感を
表す感嘆詞で、人が騙せたときや
人に秘密で進めていたことを成し遂げたとき、
人から(一般的に)は無理と思われている
ことを成し遂げたときなど、

達成に対して驚く対象がある(又は想定される)場合
に使われる。
これは元々『してやる』という行為の
達成に対して使われた感嘆詞のためである。

註)【為て遣る(してやる)】:
「(たくらみ・悪事などを)まんまと
しておおせる」「だましとる」(広辞苑より)

という意味で「○○してあげる」が
崩れた『してやる』ではない。
受動態の『為て遣られる(してやられる)』
が一般的。

日本語俗語辞書より。
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🟣船越 景直(ふなこし かげなお)
※「どうする家康」では、一切登場しませーん。

関ヶ原の時には、61歳。
戦渦中は常に本多正純とともに家康の側に侍る。
また、午後前後に、大谷吉継殲滅に加勢している。

家康から伝令に指示を与える、
司令塔の役目を担う。

前哨戦として認識された杭瀬川の戦いでも、
家康に叱責され、殴られるシーンあり。
慶長16年(1611年)に死去。享年72。
本当に殴られたか?左頬を庇う。
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🔴見過ごしてしまう名場面015

こんな山の中で燻っておれるかあー

これは、「戦国小和田チャンネル」の
小和田先生の解説をご覧ください。
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🔴見過ごしてしまう名場面016

押し戻せえー ➡︎ 三成の台詞

おし‐もど・す【押(し)戻す】

読み方:おしもどす
[動サ五(四)]押して、もとの方へ戻す。押し返す。
「舟が急流に—・される」

「押戻す」に似た言葉
押返す
退ける
撃攘はね返す
押し返す

戦場では、
押したり、退いたり。
戦場の戦略の一つ。
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🔴見過ごしてしまう名場面017

島左近の殉死。

一命捧げ奉る
英語なら、MYLIFE is YOURS

島 清興は、戦国時代から安土桃山時代の武将。
筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、
一般には「島 左近」の名で広く知られる。

しかし、最近の研究では、
いつのまにか戦場で、行き方知れずとなった由。
小和田先生の「戦国小和田チャンネル」にて。
三成の腕の中で死んだ、とは
ドラマの創作としか言えないだろう。

視聴者に感動を与えるために
こんな創作をした感あり。
また、三成の次の台詞に繋げる為か?
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🔴見過ごしてしまう名場面018

おのれー

三成は、「おのれえーい!」と。
れーれえーい!と、舌を巻いて発音。

感情が激した時、怒りの気持で発する語。
[感]激して発する語。やい。ちきしょう。
「—、逃がしてなるものか」

これで、勇猛な右腕を失った三成。
「三成に無くてはならぬモノが二つあり。
  島の左近と、佐和山の城」


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🔴見過ごしてしまう名場面019

織田有楽斎、見参!

これは、蒲生郷舎ここに見参!と。
言っている意味。

げん‐ざん【▽見参】 の解説
[名](スル)《「けんざん」とも》

1 参上して目上の人に対面すること。げざん。げんぞう。
「婿が岳父 (しゅうと) に—するという風に」〈鴎外・雁〉

2 目上の人が目下の者に会ってやること。げざん。げんぞう。
「我御前 (わごぜ) があまりにいふことなれば、
—して帰さん」〈平家・一〉

3 節会 (せちえ) や宴会などに出席すること。
また、出席者が記名して、その主人の前に差し出すこと。
げざん。げんぞう。
「陣に付きて宣命、—を見給ひける間」〈著聞集・三〉

かつての同僚、同志に
戦場で出会ってこう云うが。
はて?
________________________

🟣織田有楽は、1548年産まれ。
織田信長の実弟。
蒲生郷舎は、生誕不詳。

しかし目上であるのだろう、だが、過去に
織田家で忠勤を競い合った仲とみる。
だが今は三成軍の敵、東軍に付いている。
この戦いの義は我が三成軍にありと、
再度諌めている、シーンか。
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🟣横山喜内
(よこやま きない) ➡︎蒲生郷舎のこと。

「横山喜内ではないかー。」 

「今は三成が家臣、蒲生郷舎なり!」

初め六角氏の家臣であったが、
織田信長の上洛時に六角氏は滅亡したため、蒲生氏に仕えた。
関ヶ原では、千賀文蔵兄弟に討ち取られたと云う。
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🔵其の儀に及ばん!
(そのぎにおよばん)

そのようなわけ。そのような事情。そのこと。
「—ばかりは御容赦下さい」

•その儀については
•その儀に及ばず
•その儀ばかりはお断り申します
•進退伺いを出したらその儀に及ばずとのことであった
•僕はその儀式に立ち会った
•その儀よきに取り計らえ

これで、三成は、
重臣二人を、午前中に失ってしまう。
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🔴見過ごしてしまう名場面020

西軍に付いてくれた小早川秀秋。
しかしながら。

以下はWikipediaより。

この秀秋の離反については、
当初から家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の親戚である
東軍の黒田長政が中心となって調略が行われており、
長政と浅野幸長の連名による
「我々は北政所(高台院)様のために動いている」
と書かれた連書状が現存している。

。白川亨・三池純正らの、
「高台院は西軍を支持していた」と
いう異なる説やその他傍証もあり、
この書状の内容について研究が待たれている
(内容では北政所のために東軍につけとは
直接言ってはいない)。

また、本戦の開始前より離反することを長政を通じて
家康に伝えており、
長政は大久保猪之助、家康は奥平貞治を目付として
派遣している。

一方で

三成、吉継ら西軍首脳も
秀秋の行動に不審を感じていたらしく、
豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、
上方2か国の加増を約束して
秀秋を慰留したとする史料もある。

ただし、
その史料は正徳3年(1713年)成立の
「関原軍記大成」に収録されている書状で
原本は確認されておらず、
また文体に不審な点があることから
偽文書の可能性がある。

松尾山は12日の時点で「中国勢を置く」との
増田長盛宛の石田三成の書状が確認されており、
それまで陣取りしていた大垣城主・伊藤盛正を
追い出して着陣している。

関ヶ原決戦が計画的なものでなく、
突発的なものであったとする説では、
三成は秀秋が松尾山城に陣取ったことで、
最後尾の大谷勢の陣が脅かされて背後に脅威を得、
急遽大垣城を出ざるを得なかったとする。
事実、大谷勢の陣は松尾山城に向かって
構築されていたことが確認されている。
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🔴見過ごしてしまう名場面021

秀秋は最終的には松尾山を下り、
西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。

この際、小早川勢で一手の大将を務めていた
松野重元は主君の離反に納得出来なかったため、
無断で撤退している。

秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも、
平塚為広・戸田勝成とともに
よく戦って小早川勢を食い止めたが、
秀秋の離反から連鎖的に生じた
脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの離反を受け、
吉継・為広・勝成の諸将は討死した。

これにより大勢は決し、
夕刻までに西軍は壊滅、三成は大坂城を目指し
伊吹山中へ逃亡した。関ヶ原本戦の翌日以降に行われた
三成の居城佐和山城攻めなどでも秀秋は出陣している。
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🔴見過ごしてしまう名場面022

「三年のうちに、祟りを成してくれんー!」

祟りを成す

たたり【×祟り】
読み方:たたり

1 神仏や怨霊(おんりょう)などによって災厄をこうむること。
罰(ばち)・科(とが)・障りと同義的に用いられることもある。
「山の神の—」

2 行為の報いとして受ける災難。
「悪口を言うと、後の—が恐ろしい」

祟り
読み方:たたり

ラ行五段活用の動詞「祟る」の連用形、
あるいは連用形が名詞化したもの。

終止形
祟る

用例
触らぬ神に祟りなし、弱り目に祟り目
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🔴見過ごしてしまう名場面023

ここは、確かにテレビ放映された筈。
小童が、狂い死ぬシーンは。
しかしながら、大河「春日局」での描写だったかな?
筆者も、ほぼ40年前の視聴記憶ですから。

以下もWikipediaから。

慶長6年(1601年)、
家老を長年勤めた重臣・稲葉正成が
小早川家を出奔しているが、
この背景には旧来の家臣団層と新たに台頭してきた
側近層との対立が背景にあると考えられる。

早世と死後。

慶長7年(1602年)10月18日、
死去。22歳。

聖護院道澄の残した記録によると、
上方から帰国の途上で行った鷹狩の最中に
体調を崩し、その3日後に死去したと
記されている。秀詮のこの早世に関しては、
秀秋の裏切りによって討ち死した大谷吉継の祟りによるもの
とする逸話も残されているが、

実際に残されている病歴からは
酒色(アルコール依存症)による内臓疾患が
死因として最有力となっている。

曲直瀬玄朔(まなせ・げんさく)が記した
『医学天正記』には、慶長6年(1601年)7月に、
酒疸による黄疸の症状が激しくなり治療をしたこと
が記されている。

『黄疸』の項目には、大量の飲酒による黄疸、
みぞおちあたりのしこり、飲食ができず
喉が渇く云々とある。

『黄疸』のほか、
『内傷付飲食(飲食の不摂生による内臓の疾患)』
『消渇(糖尿病)』の項目に名前が上がり、
食欲不振、酒を飲むと吐く、
舌が黒く尿が赤いなどと書かれている。

秀詮の死後、小早川家は
無嗣断絶により改易された。
これは徳川政権初の無嗣改易であった。

秀詮の旧臣たちは関ヶ原での裏切りを
責められたため仕官先がなかったなどと
いわれることがあるが、
実際には最後まで秀詮に仕えた後に幕府に召し出され、
大名となって立藩した平岡頼勝がいるほか、
前田家や紀伊徳川家の家臣となった者もいた。

これらは、家康の温情であるのだろうか。
東軍に勝利を呼び込んだのは、確かだから。

まずは、
ここまで。

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