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「とほ宿」への長い道 その1

「空き家を活用した大野の民泊宿 ねこばやし」を営んでいる


2022年12月に開業、この記事を書いている時点で開業1年4か月。「民泊」といえば大体は「儲かる」が枕詞につく記事や本が多いが、特に儲かってもいなければ赤字でもない。というか、この仕事だけで食ってけるとは思っていないし、そもそも7割くらいは道楽でやっている。


宿のお客さんは、当初は宴会需要が多いのではないかと思っていた。
というのは、福井という土地は公共交通機関がかなりプアなので、車で飲食店に行き帰りは代行で帰ってくるというパターンが多い。(因みに自分の実家のあるエリアはバスの運行時間は福井の中ではかなり遅いほうだが、それでも終バスは21時半だ)。都会みたいにサクッと飲み会というわけにはいかないので、一度の飲みが二次会三次会につながり更に出費となる。
加えて最近は原材料費や人件費が高騰し飲食代に反映している。そして夏は庭でBBQもできる。食材を持ち込んで宴会し、そのままフトンに寝て翌朝帰るという形なら結果的には安くつくのではないかと思ったのだ。
しかし実際には、宿の宿泊客の半分以上は近くにある日本百名山の「荒島岳」に登る人だ。次に多いのはライダーや鉄っちゃんの一人旅、あと隣の勝山市にある「福井県立恐竜博物館」に来た家族連れで、宴会に来る地元の人間は微々たるものだ。
定員10人だし、平日はほぼ来客はいない。民泊という形態ゆえに年間営業日数は180日が上限だが、2023年度(4月から翌年3月)は今日で〆だが、トータル73日だった。

「とほネットワーク 旅人宿の会」に加入

個人的にはひとり旅の人に来てほしいと思う。20代のころは夏休みになると自転車を輪行しフェリーに乗り、1週間かけて北海道を走り回った。泊まる宿は「とほ宿」。だいたい個室の宿だと1人旅というのはあまりいい顔をされないものだが、「とほ宿」は男女別相部屋のドミトリー方式で、「一人旅歓迎」を前面に押し出していた。(3人以上のグループはお断りという宿もある)。あの頃のように楽しい時間を持つことができれば、と思った。
当初は、ウチみたいな民泊の宿が「とほ宿」なんて縁は無いだろうと思っていたが、お誘いをいただき昨年5月に準会員加入、そして昨年11月に正式加入した。

「とほネットワーク」代表、一休さんからプレートを授与

「とほvol.33」に掲載される

「とほネットワーク 旅人宿の会」は、1980年代からある集まりで、毎年・・最近は隔年だが、「旅の情報誌 とほ」を発行している。最新のものが33号なので結構な歴史だ。
「ひとり旅」といえば、「ユースホステル」が世界的な組織だが、日本においてはそれに続く歴史がある。最近では Booking.com のようないわゆるゲストハウス愛好家向けの予約サイトがあり、それを使えばこのような組織に加入せずとも集客は可能だ。また、「旅の情報誌 FREE」など、「とほ宿」のような旅人宿の集まりはこの30年の間にいくつか存在したし、今でもある。
しかしそれらの中でも「とほ宿」というのは格別な存在感があると感じている。そして今回、最新号の「とほvol.33」が宿に届いた。

1冊550円

「とほネットワーク」のホームページに自分の宿が掲載された時も嬉しかったし、「とほネットワーク」の総会でむかし自分が泊まり歩いた宿の宿主さんたちと再会した時も実に楽しかったのだが、こうして、むかし穴が開くほど読んだ「とほ本」に自分の宿が掲載されているのを見ると、感慨深いというのはこういうことなのだとしみじみ思う。何で「とほ宿」に泊まり歩くようになったのか、そして自ら宿を開業することになったのはなぜだったのかをあらためて思い返した。自分のホームページには開業した理由を載せてはいるが、はっきり言って20分の1くらいしか書けていない。そもそもホームページというのは広報手段であって、ダラダラ長い自分語りをする場ではない。ということで、7年くらいアカウントを放置していたnoteを使うことにした。長々しい話が許される雰囲気があると思う。
自分が宿を始めた最初のきっかけは、ちょうど35年前の今くらいの時期に遡る。

1989年3月、北海道大学を受験

高3で18歳だった。今の大学入試の一次試験は「共通テスト」、その前は「センター試験」だが、その更に前に「共通一次試験」というのがあり、その最後の年だった。その数年前から、一発勝負だった大学の二次試験がA日程B日程となり、B日程で北海道大学を受験した。最初は自分の実力で入れそうな大学ということで選んだのだが、赤本で北大生の暮らしぶりを読んでいるうちにかなり気分が乗ってきた。当時は「北の国から」というドラマがありかなり人気で、自分が小学校のころから富良野の美しいビジュアルがテレビに流れていたし、主人公の吉岡秀隆は自分と同い年だったので共感する部分が多々あった。
試験の前々日に北海道入りした(天候不順が多いので1日余裕を持ったほうがいいという学校のアドバイスで)。飛行機に乗るのは生まれて初めてだったし、自分が住んでいた福井もそれなりの雪国ではあったが、千歳から札幌に向かう電車から見える風景は全くの別世界だった。そのまま舞い上がりたいところだが、札幌駅近くの東急ホテルに投宿し、すぐに北大キャンパスの試験会場まで歩いて下見に行き、その日も翌日も大人しくホテルの一室で赤本を何度も何度も読み直した。
試験当日は・・・共通一次でも失敗した数学が不出来で、トボトボとキャンパスの中を歩いてホテルに戻ろうとしていた。千歳発小松行きの便は1日1便、正午くらいにしかないのでホテルにもう1泊するつもりだった。

大学入試当日から大宴会

しかし北大生たちがあちこちで呼び込みをしている。入学してからクラブサークルの勧誘が激しいと聞いてはいたが、まだ合格もしていない受験生にまで声をかけるというのは前代未聞だ。自分もそれまで私立2校国立1校受けたがこんなのは初めてだった。
誘われるままお祭り同好会的なところに連れていかれた(これが宗教団体だったら大変だ)。学生会館の中で既に宴席が設えてあり、酒(時効)やツマミが置いてある。そこのサークルの大学生と、自分と同じような受験生が数十人いた。
もうそこからはどんちゃん騒ぎしたことしか覚えていない。さっきまで試験が不出来だったことは完全に忘れた。サークルの人が法被着て太鼓をたたいていた。それを指さして女の人が「実は私あの人が好きなの~」と言い出した。それまで半年くらい勉強勉強だった自分にとっては一気に違う世界、マンガで見た領域に来たと感じた。一緒に話した受験生は東京と千葉から来た人で東京の人は浪人していた。それまでの人生小中高と自分の学校くらいしか知り合いがいなかったので本当に新鮮だった。
学生会館で21時くらいまで飲んで、「二次会行く人~」と声がかかったので速攻で手を挙げた。居酒屋に行き、今度はみんなで歌を歌った。サークルの人が歌詞を読み上げ、それに続いてみんなで歌うというやり方だ。今でも曲をいくつか覚えている。「いとしのエリー」「フォルテシモ(ハウンドドッグ)」「乾杯(長渕剛)」「マイウェイ」
居酒屋を出たのは1時を回っていた。ホテル帰れるかなと思ったら「ラーメン食べてく人」と言われたのでまたもやついていった。その時食べた味噌ラーメンの旨さは今でも覚えている。そしてそのままラーメン奢ってくれた人のアパートにさっきの東京さん千葉さんと入り込み、コタツでダベって気が付いたら寝ていた。ホテルに戻ったのは翌朝8時だった。
そんなこんなで受験に来た筈が遊びまくっていた。何となく受けた北海道大学だったが、ここにきてどうしても入りたくなった。合格発表まで間があり北海道関係の本を読みまくった。その中に村上春樹の「羊をめぐる冒険」があり、自分が見て来た北海道とはテイストも時期も違うが心に染みた。試験が不出来だったが奇跡が起こらないか・・・と思ったが、件のサークルの人から電話をいただき(どこまで親切なんだ)、不合格だったことを知った。
(続く)


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